あらゆる具体性が計算を呼ぶ。計算は緻密でも適当でも固定点を置かなければ(数式を閉じなければ)必ず抽象性(抽象的な事柄。具体的事象の生産関係)の説明となる。


ビジネスシーンや異性関係等の何か限定的な空間に対して悩みが生起したとき、直感からスタートして対象の限定的な空間を分析し、回帰し、元の直感をぶち抜いて空間を広く、時間を深くして全体性を回復すれば良いのだが、具体性のカルマに溺れた、いわゆる陰キャラは先程のbitからitのような表現方法自体に好奇心が生起する。内容よりも聞こえの緻密さ(具体さ)に反応する。それと同様に悩みが生起した時の解決策は全体を回復する為に思索(知性駆使)するのではなく、いかにして逃げおおせるかという思索(思考)するのだ。


このように最大公約数的な対応が出来ず、悦びと苦しみの間を逃げ回ってしまう理由は、事柄に対する精進を疎かにして来た事で、魂、情緒、心、で反応せず、外的な感情で反応しているからである。

日常の対象を具体的に測量して思考して、精進努力に勤めていないので、そのようになっている。抽象(生産関係)から具体性を見下ろせないので、罪の経験がやたらと希薄になる。また抽象語や反語的表現も理解出来なくなり、人の形をした形態と化してしまう。感情(物質流転の基準)で生活しているのだ。


抽象性(コト)から具体性(モノ)が生起している真実から離れて、具体性のそれらに自性を感じている事(頭の中で測量している事)で、言葉遣い、行動、所作がその範囲に限定されて実際に発現する。


その測量結果(考え)に基づいた言葉遣い、行動、所作が行使される回数が増える事で、その範囲に対して後発的に悦びと苦しみが実際に体感に生起する。

決して先に具体的な悦びがあって、後発的に言葉、行動、所作が行使されているのが最初ではない。


誤った測量結果の積み重ねによって、悦びと苦しみの体感は確かに全身で全的(リアル)に生起するのだが、その体感(認識、全身で全的に感じている事)自体は、生産諸関係下部のフィクションである。


また、このフィクションという部分と生産関係を知性によってある程度正確に理解した後、現実がフィクションである事実を先行して実態定義し持ち歩く事で主体性を失い、客観性に生きてしまうのである。客観性は主体性に支えられているので、いつも主体的に対象を客観視する必要がある。客観をメインにすると終わる。ヨーガ(心の働きを止滅させて全体に回帰する作用、各徳目)によって主体性の全体は回復する。


また、主観とは全身で全的に感じている悦びや苦しみが実態で、自身がそれにどのように対応しようかと振る舞う事。言葉や行動、所作に起因せずに対象に固定的な実態があると考える事である。


ちなみにこのように現状で体感する外界の対象事象の悦び、苦しみは実態だとするのが、日本で言う戦後民主主義的思想である。それを支持する人間はヒューマニズムが後発だと言う事を純粋に知らないのだ。

そしてそのような主観と同時発生的に客観性が生起する。即ち共産主義的地点(カントが観測科学の限界と定義した地点)まで、回帰しようと試みる西洋近代科学全般の客観性に全体を感じる。


つまり、考え方と、それに基づく言葉、行動、所作をその時間的持続性の根本に近づけるよう最大限まで引っ張りまくる事。むしろ引っ張ってもらう事を大真面目に、真剣に願うような姿勢を持つ事で、こ本格的にフィクションから脱却し、全体を体感出来る。


この事実を切実に近い人から順番に伝えてゆき、生産諸関係の各生産位置の供物として有効性へ持っていきたいのだが、愚直に伝えても現象欲者は納得しない。だから手間暇掛けて、対機説法をする必要がある。


もし私が猥褻者との関係に入らない場合、つまり主体性を失う場合、私は客観に生きて、勇敢な徳目から外れ、エゴから発足したエロスによって自殺をするような、その場しのぎに行き着いたりするのかも知れない。

主体性を持った行動家の論理が、客観性の論理を抱合している事は既に悟った。


彼らと関わり直した頃、予想通り、自分の客観性の呪いから解き放たれて、関係の中でエロスによって徳目が見え、主体性を取り戻した。

汚れたカルマ(嘘、違反)が干渉する事で、言葉、行動、所作をその場のシチュエーションに相応しい本質に還元されるように試みる衝動(エロティシズム)は、徳目を理解させ、時間的持続の根底まで連れて行ってくれる。


彼らは彼らを祟っている過去の具体的な測量認識、具体的な言葉遣い、具体的な行動、具体的な所作によって、エロティシズムは分散落下し、ポルノ的な快楽や、人の失敗を見る快楽、自分が精進から逃げる快楽などの諸々の分散落下した、ぼってりした具体的エロス(猥褻感)が足のつま先から頭頂まで、紛うことなく生起している。確かに、彼らがその具体性を強く信奉している事を改めて痛感しギャップを感じるのだが、この痛み、嫌悪によって精進という徳目が見え、客観性に支配されていた自分はある意味で解放されたのである。


洗脳されている人は洗脳されている自覚がない。具体点となる権威(テレビや街中などの広告)を基準に過ごして来たので、現実の生産関係に興味を持つこと自体が遠いのだ。


生産関係深部に引っ張られる体感なんかは既に全くないので、彼らの直近は怠惰と戦闘し、自己に打ち克つ必要がある。



釈迦は中道を説いた。

中道の最初は勇敢さである。


ビビりな人と、ビビりじゃない人の間、普通の人。これは中道では無く中間。(あるいはバランスや中庸)


無謀な人と、ビビりの間が勇敢。中道である。