般若心経 4


『色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是』


既に前回でこれを訳してしまったが、もう一度みてみよう


まず、「空」=無限の縁でした。では、「色」は?
「色」=対象物=波長(音)

物質なるものは1つの素粒子の回転運動によって他の分子を引き寄せ、くっついていく。素粒子を含め3つになったとき初めて形となる。しかし、この段階では人間は感知することが出来ないが、もっと様々な分子が絡み合うことによってやがて目に見える物質となる。

人間の感覚器官では感知できない物質もあれば感知できる物質もある。しかし、これは肉体を通してのことであって、魂レベルでは感知しているのだ。

このように物質なるものには、肉体を通して感知出来ないものもあれば感知できるものもあることがわかる。その物質の何を私たちは感知しているのかと考えてみると、物質なるものの共通点を探せばよい。その共通点が物質の波動なのだ。その波動からでる波長を私たちは魂も含めて感知しているのだ。
従って、物質の波長を「色」として表している。

実は波長には色(いろ)があるんですね。人間の目に見える色は限られているけど、目に見えない波長にも色があるんです。音も匂いも全ての物質にはね。だからそれらが沢山あるときは色々という漢字を使うのです。昔の日本人は頭が良い。


まあ、それはさておき訳に入ると、対象物は無限の縁から捉えていて、縁もまた無限の対象となりうる。つまり、それぞれが無限に存在するということはこれぞという決めつけの答えがないと言っているのです。

それをどう受け止めてどう思って行動に出て認識していくかも同じで人それぞれ無限にあるのだ。

と、ここでは言っているのですね。



舎利子さん、解りますか?
原因+○=結果
だよ。○の中に入るのが人それぞれの持つ無限の縁だよ。つまり「空」だよ。

そして、
原因+○=結果
○の中に入るのが過去の結果だよ。この繰り返しが私たちの意識を作っているのだ。宇宙も同じようにこの繰り返しで成り立っている。

それは止まることなく永遠に続いているから時が流れているのですね。それを止めてしまっているのが自我です。自我はこれが正しいと言い切るのです。だから時の流れに逆らうから苦しくなるのです。


つづく

#般若心経


般若心経の訳 3


『色不異空 空不異色』



「色」とは五蘊(色受想行識)の色で受想行識の対象となるものであって肉体だけとは限らない。あらゆるものを差し、これらは全て異なる縁から生じているもので無くなることはない。縁もまた異なる対象物を捉えているので無くなることはないということになる。

形なるものというものは、人間の目に見えるものだけではない。音や匂いといったように目には見えないが存在しているものが沢山ある。その沢山あるものが常に変化をしているということは、そのそれぞれにエネルギーを持っていて常に波動していることになる。その止まることなく動いているエネルギーはあらゆる波長をだしていてこの宇宙で繋がっていた。

どういうことかと言うと、私たちが生き抜くためには沢山の命を食べて命を繋いでいる。決して一人で生きているのではなく、他の命の繋がりがあって私たちは変化をし続けて生きているのだ。

あなたを生んでくれた親がいて、またその親も生んでくれた親がいる。野菜も同じで太陽があって土があって水があるから育つ。決して何か1つだけで成り立っているものは何一つと無いのだ。

対象物というものは即ち無限の縁から捉えていて、縁もまた無限の対象となりうるのだ。無限に存在するということは、即ちそこにこれぞという1つだけの答えはないということになる『色即是空 空即是色』。
1つの波長を捉えるには即ち人それぞれ無限な捉え方かあり、それをどう捉えるかも無限に存在する。それをこれぞと決め付けて求めたりするから苦しみとなるのだ(自我)。


物質の変化というものは、様々な縁の組み合わせで無限に続き、その変化を波長として人間の六根で捉えているに過ぎない。

私たちがそれをどう捉えどう思い行動に出て意識していくかも同じことで無限の縁によって無限に存在する。『受想行識 亦復如是』


人それぞれの永遠の繋がりは人それぞれ無限に存在し、決してあなたと同じ人は誰一人といない。従って今のあなたと同じ方向を持つ人であっても、そこにたどり着く過程(縁)は誰一人として同じではない。


この流れをあなたの持つ自我が食い止めている。自我は1つの価値観から生まれた善の方向にだけ働きかける命であり、これが煩悩になっていく。価値観には肯定と否定があり、否定は精神を殺すことになる(殺生)。



つづく

#般若心経


般若心経の訳 3


『色不異空 空不異色』



「色」とは五蘊(色受想行識)の色で受想行識の対象となるものであって肉体だけとは限らない。あらゆるものを差し、これらは全て異なる縁から生じているもので無くなることはない。縁もまた異なる対象物を捉えているので無くなることはないということになる。

形なるものというものは、人間の目に見えるものだけではない。音や匂いといったように目には見えないが存在しているものが沢山ある。その沢山あるものが常に変化をしているということは、そのそれぞれにエネルギーを持っていて常に波動していることになる。その止まることなく動いているエネルギーはあらゆる波長をだしていてこの宇宙で繋がっていた。

どういうことかと言うと、私たちが生き抜くためには沢山の命を食べて命を繋いでいる。決して一人で生きているのではなく、他の命の繋がりがあって私たちは変化をし続けて生きているのだ。

あなたを生んでくれた親がいて、またその親も生んでくれた親がいる。野菜も同じで太陽があって土があって水があるから育つ。決して何か1つだけで成り立っているものは何一つと無いのだ。

その全てが1つの法則に従ってあらゆるものと繋がっている。


物質の変化というものは、様々な縁の組み合わせで無限に続き、その変化を波長として人間の六根で捉えているに過ぎないのだ。

私たちがそれをどう捉えどう思い行動に出て意識していくかも同じことで無限の縁によって無限に存在する。(受想行識 亦復如是)


このやり取りが永遠に続くことで時は流れているのだ。人それぞれの永遠の繋がりは人それぞれ無限に存在し、決してあなたと同じ人は誰一人といない。従って今のあなたと同じ方向を持つ人であっても、そこにたどり着く過程(縁)は誰一人として同じではない。


この流れをあなたの持つ自我が食い止めている。自我で生きる命は自然の命ではないため、必ずや苦しみが生じるのだ。

自我は1つの価値観から生まれた善の方向にだけ働きかける命であり、これが煩悩になっていく。しかし、価値観には肯定と否定があり、否定は精神を殺すことになる。自分の価値観を通して物事を見ていくから否定が生まれあなた自身と相手を殺しているのだ(殺生)。この片寄った見方が本来のものを伏せてしまい見えなくなっていく。



つづく

#般若心経


般若心経の訳 2



これは私が訳したもので、正しいか否かは抜きにして下さいね


『照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子』

ここで大事なことは「空」になる。「空」とは何か?
「空」とは何もないとか実体がないというものではない。

無限に存在するからこれぞというものが無いということになるのだ。

何が無限に存在するか?それは因果の道理そのもので、「縁」というものは無限に存在している。この宇宙そのものが無限の縁によって出来ている。

従ってこれを訳すと、
『私たちが何かを捉え、どう思って行動に出て意識していくかは全て無限に存在する縁から来るものだと見極めた。そして、全ての苦しみを断ち切ることが出来た。』
となるのだ。

つまり、私たちの心はこの繰り返しで意識を作っており、これが肉体ある以上永遠に続いて時は流れているのだ。(諸法無我)
従ってその捉えた結果が苦しみを生んでいたのなら、この苦しみは次なる縁になって新たな苦しみを作っていたのだ。これに気づくことによって苦しみから逃れる方法を見付けることが出来た。

苦しみは何かを捉えてしまう自分が持っているこだわり(価値観)が原因で、その価値観から物事を主観的に捉えているから生じていたのだ。その出した答えがまた次なる苦しみの縁となり新たなものを捉えていく。その価値観から生み出されたこだわりがなくなるまでその縁は尽きることがなかったのだ。

それはこの宇宙も同じで、無限に存在する縁によって姿形を変えながら時が流れているのだ。(諸行無常)

この宇宙には私たちの心と同じで完全なるものなど何一つと無かったのだ。その流れを価値観があるとこだわることによって無常の流れを止めてしまうから苦しみが生じていたのだ。苦しみは自分の生き方が宇宙と比べて間違っていることを教えてくれていたのだ。


いかがだったでしょうか?


お釈迦様は自分の悟った道(心)を舎利子に教えていたのですね。けっして観音様が舎利子に話していたのではありませんよ。般若心経は他人事ではないのです。
あなた自身の救いになる教えなのです。


だからここを間違えてしまうと他人事になってしまい、修行方法が判らなくなってしまうのです。


つづく

#般若心経


般若心経の訳仕方

これは私が悟った般若心経です。だからこれが正しいというものではありません。



観世音菩薩と観自在菩薩は違う
般若心経ではこれを間違えるととんでもない訳になってしまう


観世音菩薩(観音樣)は世の中の移り変わりを見極める修行をしている人。その見極め方は世の中の移り変わる波長を感じとり真実を見極めていく人。

つまり、世の中(宇宙も含めて)には目に見える物質から目に見えないものまで全てが回転しておりエネルギーが生じている。その回転する音(波長)を見極めている人をいう。


観自在菩薩は自分自身とはいったい何なのかを見極めている人。つまり、自分自身を知る修行をしている人になる。

これも世の中の音と同様に自分自身を知ることはとても難しいことで、自分としての生き方や、なぜ苦しむのかといったように自分の有り様を見極めていくことになる。


この観世音菩薩と観自在菩薩は両者とも自分自身から生まれた化身だ。ありのままを見極め信じる自分。全ての答えは外にはなく、内なる自分の中にあるってこと。それを化身を通して知りなさいよと教えてくれているのが観音様だと思う。だから自分を念じれば必ず願いは叶うんだよ。



仏陀がまだ仏になる前に苦しみをなくすにはどうしたら良いのか、なぜ自分(人)はこんなにも苦しくなるのか、苦行をしていても苦しみしか残らなく、苦しみをなくすことは出来ないと悟って、生きぬく道を選び瞑想に入った。この瞑想が自分自身を見極める瞑想だったと思う。その自分自身を見極めていく瞑想をしている時に自分を通して宇宙を悟ったのだ。これが因果の道理。自分も宇宙も同じだと悟ったのだ。


なのに今だに苦行をしている人がいる。仏陀が苦行の果てには苦しみしかないと悟ってくれたのに、なぜ修行者は苦行に入るのか?生きていることが苦しみなのに(四苦八苦)なぜ?
それはこの般若心経を悟っていないからだと思う。


大乗仏教になって仏陀の教えの中にある涅槃について書かれたものをまとめて作られたのが般若心経だが、それを訳したさいに観自在菩薩を観世音菩薩と同じに捉え訳してしまったから今に至る般若心経の翻訳が誕生してしまったんだろう。


従って、

『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時』とは、「自分自身を知る(見極める)深い修行をしている時」と訳す。



つづく

#般若心経


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昨日、千葉県内房の保田吉浜堤防に釣りに行って来ました。

アオリイカを狙っている人がほとんどでしたが誰も釣れていませんでした。

私は相変わらずフカセ釣りですが、この日はサバっ子1匹とスズメダイばっかりでした。


さて、このスズメ鯛をどう料理しようかなぁ…


一口サイズの刺身にしてみようかなぁ♪


#海釣り #釣り


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キャンプツーリングに続いてそのまま雲取山キャンプ登山に行って来ました。

三条の湯(山小屋)をベースにしてキャンプをし、そこから雲取山へ。

雲取山から三ツ山を縦走しながら三条の湯へと下山し、3日目のキャンプ。


今年、初めての登山でしたので、ちょっとキツかったですが無事下山

ここからはまた奥多摩をツーリングをしながら帰宅しました。



#登山  #ツーリング  #キャンプ  #アウトドア