故人を偲ぶ時間は

故人だけでなく

我々 残されている者にとっても

大切な 必要な時間 だと感じました







一昨日は 家族、親戚一同で

和歌山県の高野山に参拝しました



こちらには 昨年 他界された

お義母さんが 眠っておられます



お義母さんの願いを叶えるために

島根から はるばる高野山へ

遺骨を運んでから はや1年



1年という時間の過ぎる速さに

驚きながら



「私は 今 生きているんだなぁ」 



目をつぶって 耳をすまして音を感じ

鼻を研ぎ澄まして 空気の香りを感じ

自分の身体に触れて 今 ここを感じる



こんな 「生きている感覚」

改めて確認し  味わいながら

色んな事を 感じていました











65歳という 若さで

この世を 去ることになったお義母さん



この世に生まれてくる意味

この世を去る意味   逝く意味を

宗教的に  スピリチュアル的に説くモノは

世の中に 沢山あるのかもしれません



でも…… そういう意味があったとしても

潜在的には分かっていたとしても



生きている私たち一人一人には

現実な経験を通すことでしか

感じる・思い出すことは出来ない



だからこそ 私たちに出来ることは



ただ ただ 命を繋ぐこと

その中で 色んな経験を通して

自分を感じ 自分を知り

自分という存在を表現し続けること

そうして 「自分を生きる」こと



ふと こんな事を

感じさせてもらう機会になりました






実は  私自身

いつくかの病気と付き合い続けています



一年前には 12年振りの再発に

初めて 「死」への恐怖を感じたし

「生きたい」という本音も感じました



今後 再発した場合は

特殊な治療になることも聞かされ

正直 いつも心の片隅に

再発への恐怖を抱えています



こんな私の事情や

早くに亡くなったお義理さんの事もあり



いつ なにが起きるかわからない

だからこそ 毎日を大切に生きたい

後悔ない日々を送りたい



そう 強く思う 私になりました




だから・・・・



ありがとうも ごめんなさいも

後回しにしない



喜怒哀楽の感情も

生きているから感じられる

だから 感情もうんと味わう



自分のやりたいことは

自分に叶えてあげる



言いたいことは 我慢せず

相手とぶつかることも怖れず

目の前の人に

自分を  伝えることを諦めない



そのまんまの無理しない自分で

生きることを諦めない



「自分を生きる」ことを諦めない



そういう思いで

日々を過ごしているつもりです





こうやって過ごす中 気づいた事は



私にとって 「生きる」とは

「私は 生きている」を

心地よく感じられるのは



自分の感覚や思いを大切に

自分に嘘をつかずにいること





みんな違って当たりまえの中

その中で 誰かとぶつかることも

あるかもしれないけれど



それを 怖れるのではなくて



お互いのことを

さらに分かり合える場として


自分のことを 素直に表現し 

相手の表現も 素直に受け入れる




そうやって お互いの思いを

深いところで   分かち合い

理解し合おうとする時

理解し合えた時




「私は 生きている」 という感覚を

全身を通して感じる私がいます




だから かな?



こころの事やコニュニケーションの事を

伝えていきたいと思う私がいるのは^^








あなたが 日常生活の中で

「自分を生きている」

そう 心地よく感じられるのは



どんな時ですか?

何をしている時ですか?

どんな感情になる時ですか?

誰と一緒に いる時ですか?










普通のお寺とは違い

古い時代の方々のお墓など

沢山のご先祖さまが眠る高野山



「生きている」「生かされている」を

静かに考え 感じるためにも


お義理さんにお会いするためにも



また訪れたい場だなぁ・・・と


そう感じながら 高野山を後にしました












今日も お読みくださり
ありがとうございます

ご縁に 感謝多謝