どうも!!
晴野未子です⊂( ˆoˆ )⊃
土佐藩士で歴史タレントな晴野未子です⊂( ˆoˆ )⊃
高知に旅行に行く時には、私にリプしてや!!
美味しい店を教えるき
さて。
旧暦の今日は関ヶ原の戦いですね✩✨✨
天下分け目の大戦です。
私は西軍につくか、東軍につくか悩んでしまった一夜でしたҨ(´-ω-`)
今年こそは西軍に勝って欲しいけど、
どうせ今年も負けるんだ。(毎年やってません。)
だが、今年も私は西軍につく!!!
長宗我部と共に戦おうではないか!!!(←戦ってない)
さて、それではここで。
よく分かる!(かどうかは分からない)「関ヶ原の戦い」講座をやりたいと思います☆
※晴野式色メガネでお送りします。ご了承を。
※東軍贔屓の方、すみません。
さて、天下分け目の戦いなどと言われる「関ヶ原の戦い」ですが、
大河ドラマ「真田丸」では40秒程度の描かれ方で、「超高速関ヶ原」などと言われていますね。
実は、史実の関ヶ原の戦いも「超高速」だったんです。(超高速は言い過ぎかも)
というのも、半日で決着がついたわけです。
勿論、他の戦でも1日で決着がついたような戦は多々あります。
桶狭間の奇跡と呼ばれる「桶狭間の戦い」なんてのは、1日で決しました。
にしても「天下分け目」なんて言われるくらいなんだから、1年くらい戦ってるんじゃないのかよ!いや、寧ろ戦えよ!1日で天下分け目かよ!と思ってしまいますが、半日です。
(半日で雌雄を決した理由については、後ほど)
さて、本題の前に。
関ヶ原の戦いの経緯を軽く( 'ω' )
「織田がつき羽柴(秀吉)がこねし天下餅座りしままに食うは…」
と、中学くらいで習ったことと思います。
これは、
織田信長が天下統一に着手し、道半ばでこの世を去った後、
遺志を継いで、秀吉が天下統一を成し遂げます。
しかし、秀吉は良いお年です。
天下は秀吉のものである中、死んでしまいます。
さて、秀吉が死んでも、子が継げば良いじゃん!という訳なのだが、秀吉の子・秀頼はまだ小さい子どもでした。
秀頼が成人するまでは、豊臣政権の五大老と五奉行という人たちが政務にあたります。
五大老というのは、大大名5人。
徳川家康、前田利家など。
五奉行というのは、官僚5人。
石田三成、浅野長政など。
この10人の話し合いにより、政治を行っていく訳ですが、いかんせん秀吉亡き後。
好き勝手をし始めた人がいました。
それが、徳川家康。
五大老の筆頭です。
大名やら家臣に勝手に領地をあげたり、
結婚相談所となり、大名同士の縁談を結んだり。
これらは、10人の話合いの上やれる事であり、勝手は禁止と決められていました。
そんな勝手放題の徳川家康に、
おこ!('ω')
となったのが、五奉行筆頭の石田三成です。
さて、そうなってくると、
領地やらお嫁さんをもらった大名やら家臣は、「家康さんいい人✨」となります。
反面、「秀吉の遺言に背くなんて家康ダメじゃん!三成、もっとやれ!!」と思う人もいるわけです。
そうこうしてるうちに、「家康派閥」と「三成派閥」が出来上がってしまうわけです。
「ドキンちゃん派」か「メロンパンナちゃん派」かみたいなもん(なのか?)
そして、ドキンちゃんとメロンパンナちゃんの間で食パンマンの役目も必要です。その役目として、前田利家が間に立ち仲裁役をしていました。
前田利家といえば、秀吉の唯一の親友で武芸に秀でていて、イケメンで(食パンマンもイケメンキャラ)
ってな感じで、
いろんな大名や武将に慕われている上に、大大名として権力も持ち合わせています。
(利家がもう少し若ければ、秀吉亡き後、天下をとっていたのでは?と、私は思います。)
しかし、秀吉と同い年である利家も寿命がきます。
利家亡き後、「家康派閥」が大暴れし始めます。
「三成の首、取っちゃおうぜ☆」と。
もはやここまで来ると豊臣政権も内部分裂を起こしているわけです。
さて、三成は事なきを得ますが、騒ぎを起こしたとして謹慎処分に。
家康はこの機を逃さず、大阪城に入ります。
権力がどんどん拡大していきます。
さて、お正月。
家康は権力者らしく、各地の大名らに年賀の挨拶に来いと言いますが…。
それを突っぱねた人がいました。
「上杉景勝」
上杉謙信の跡を継いだ義理を大事にする人です。
五大老の1人でもあります。
秀吉への義理でしょう。
さて、面白くない家康は、上杉に手紙を書きます。
「さてはお前、わしに逆らう気か?逆らう気ないなら上洛できるでひょ?」と。
はい、ここで戦国イチの嫌味男(褒め言葉のつもり)、
上杉景勝の家臣である直江兼続が、嫌味にも5mくらいある手紙のお返事を書きます。5mずっと嫌味です。喧嘩を売ってます。いや、喧嘩を買ったのかな?
まぁ、長いので割愛します。笑
が、大爆笑できますので、ぜひ検索してみてください。(「直江状」で検索!)
さて、
直江兼続ぅうううι(`ロ´)ノムキー
となった家康は、上杉景勝討伐に乗り出します。
大阪→会津に兵を出すわけですが、
これをチャンスと思った人がいました。
そう!「石田三成」!!!
滋賀県の佐和山というとこで謹慎をしていた訳ですが、
東の上杉、そして、西から自軍。
挟み撃ちにしようと考えたわけです。
「この戦、勝てる!!」と思ったのも束の間。
石田三成、挙兵がすぐに家康の耳に入ります。
さて、家康は挟まれたわけなので、
東の上杉に攻めいるか、はたまた引き返し三成を伐つか。
会議を行います。(これが有名な小山評定というやつ)
で、三成討伐に向かう事を決めました。
実は、上杉のいる東北には「家康派閥」伊達と最上がいます。
伊達政宗にちょっかいを出して貰っていれば上杉は動けないし、勝てずとも時間稼ぎにはなると踏みました。
因みに、上杉のいる会津はもともと伊達政宗が必死になって戦でもぎ取った領地です。
色々あって上杉のものになってますが、戦国イチのエピソードに事欠かない男・伊達政宗としては言われなくても攻めるわい!って気持ちだったかもしれません。
さて、上杉の進軍を封じた家康は、関ヶ原で三成と対峙することになります。
(因みに、ふた手に分かれてた家康の子、秀忠の軍は上田で真田親子にちょっかい出されてて動けません。)
さて、9月14日の夜。
まぁ島左近が勝ったり何だり色々あって、
関ヶ原に軍を置いた石田三成。
東軍…徳川家康
関ヶ原という場所は谷になっていて、
西軍が山の上、東軍が谷に布陣します。
完全に西軍有利な布陣です。
(見晴らしの良いところで相手の動きが丸見え)
さて、夜明けから開戦です!!
最初は一進一退で、いい戦いをしていました。
ちょっとだけ西軍有利な戦いです。
さて、石田三成はここでもっと戦況を良くしようと、島津に進軍を要請します。
島津は、九州の鹿児島の鬼島津と呼ばれ、全国にその名を轟かしています。
しかし、島津は「まだ撃ってでる時じゃない!」と進軍を拒否。
これには諸説あって、
要請しに来た使者の態度が悪かったから激おこだったとか、
西軍についたけど石田三成は嫌いだとか、色々理由があるようです。
さて、島津に進軍を断られた石田三成は、毛利に進軍を要請します。
(その後ろに我らが土佐の長宗我部がいますよ!)
さて、総大将の毛利軍ですが、この中に裏切り者がいました。
「吉川広家」という毛利の武将です。
さて、味方に邪魔された形の毛利は進軍ができません。
進軍をすると毛利家同士で戦う事になります。
かと言って、要請を断るわけにもいかず…。
苦し紛れにこう答えます。
「べ、弁当食べてるから、ちょい待って!」
腹が減っては戦は出来ないのでね。
ま、実際には食べてなかったのですが。笑
このまま毛利軍は一切戦いません。
因みに、その後ろにいた長宗我部軍も前面が撃ってでないので一切戦っていません。
長州やら土佐からわざわざ来たのに何してるんだか。です。
ついでに、我らが土佐の長宗我部は、
土佐から東軍につくために遠路はるばるやってきました。
が!!!!
このあたりに着いたころには関所が封鎖されており、東軍まで行けなかったようです。
遅刻です、遅刻。
土佐からわざわざやって来たんだから通してあげれば良いものを…。
さて、石田三成も٩(๑`^´๑)۶ムキー!!!となっている事でしょう。
島津、動かない。
毛利、動かない。
なのでね。
そして、
ここにいる小早川秀秋の軍に進軍を要請します。
さて、この小早川が関ヶ原のキーパーソンです。
実はこの人。
東軍から寝返り要請を受けていたのです。
まぁ、色々あって石田三成が大嫌いなんです、この方。
なら最初から東軍につけよ!って話ですが、小早川家は毛利の家臣であり、
なおかつ小早川秀秋という人は、小早川に養子に出されていますが元々は豊臣家の人間です。
石田三成の事は嫌いでも、西軍につかざるを得なかった訳です。
さて、常々「裏切ってね」要請を受けていた小早川。
最後の最後まで悩みます。
布陣していた松尾山は1番高い所にあり、戦況がよく分かります。
きっと戦況有利な方につくつもりだったのでしょう。
松尾山の布陣は、他の隊から分捕ったものです。
さて、石田三成からの進軍要請。
どうするかと迷っているときに、痺れをきらした徳川家康が松尾山に向けて発砲します。
「さっさと裏切れよ!」の意味です。
これを小心者の小早川は、
「家康が怒ってるよー、やば!」となります。
そして、小早川は、
前方に向けて進軍していく訳です。
が、しかし!!
この裏切りを読んでいた人がいます。
それが、大谷吉継。
石田三成の盟友です。
迎え撃つ形で大谷軍と小早川軍がぶつかります。
が、しかし!!!!
一緒に戦うはずの近くの布陣の西軍まで、何か知らんけど小早川に続くように裏切り始めます。
これぞまさに四面楚歌!な、大谷軍。
最後まで戦いますが、大谷吉継は自害。
そのまま小早川軍は兵を進め、宇喜多軍の横をつきます。
善戦をしていた宇喜多軍ですが、壊滅。
全く動かなかった鬼島津は、撤退を決めますが、
後ろに逃げず、前面に突破する「的中突破」を行います。
これには徳川軍もあっけに取られてしまい、島津は無事に撤退。
さて残された石田三成の軍勢ですが、徳川軍から総攻撃を受け、
もはやこれまでと石田三成は敗走します。
これをもって、「関ヶ原の戦い」は徳川の大勝利として終わったのです。
開戦から半日。
昼には決着がつきました。
さてさて、「真田丸」で名将・真田昌幸はこんな事を言っていました。
「戦は始まる前が肝心よ」と。
結局、「関ヶ原の戦い」は、
始まる前に決着がついていたのかもしれません。
人からはあまり嫌われないようにしたい。教訓です。
でも、石田三成は悪いヤツではないと思うんだがな…。
歴史とは勝者のストーリーなので、なんとも言えませんね。
さて、私がタイムマシーンに乗って1600年9月15日に行けるのなら。
長宗我部軍に参加し、毛利の弁当を取り上げるという策で臨みたい。
そして、前面を突破し、東軍の背後をつくぐらいの事はやりたいものだ。
いずれにしても、
三成ぃぃいいいいいい!!!!!!
としか言えない。
以上、よく分かる!(かどうかは分からない)「関ヶ原の戦い」講座でした✩