生きてること、グランディング。 | 日々の泡。

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OSHOサニヤシン

瞑想とセッション、時々子育て。

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久しぶりに小説読んで

ああ、、自分はやはりスピリチュアルじゃなくオカルト出身なんだ!!って思った


よしもとばななの新作
今回もそうとしか生きられなかった人
そうでないと死んでしまったかもしれない人たちが出てくる。。
ところが食事の場面ではやたら生き生きとしだす(タイトル通りの「どんぶり」もの)
読後何日も経ってから
この生きてる喜びをコントラストとして浮かび上がらせてきたかったのか、、!ということがわかります。読後すぐにはわかりませんw
作家は、呪術師。



ラーニングラブのフォローグループを二ルーがzoomで開いてくれたときに

私はどうしても「上だけ開いてしまう人」っていうのが全然好きになれなくて
逃避のために肉体から出てしまう、というパターンとか、と話した。

でも長らく自分もそういったところがあった。

「眠る」というという行為は肉体を出るのに非常に楽な作業だからか
あるときに私は学校も行かずに延々と眠り続けてる時期があった。
とにかく嫌なことがあったら寝ちゃう
風が吹いたら雨が降ったら眠くて仕方ない。
どんなに怖い先生の授業でも堂々と寝てしまう。

その時期というのがなかなかキツイ時期だったからあれは私なりの逃避だったと思う。

ある意味では肉体を脱ぐのが向いていた(やな向き不向きだ)とも言える。
だから、肉体を軽視したスピリチュアリティというものを何か嫌悪してるのかもしれない。

自分を愛するって、この肉体ごと愛すること。

下のエネルギーが細くて上のチャクラだけ異様に開いてる人は
わたしにはおばけしか見えない
そこに自己と肉体の不在を感じるから。

瞑想してきてびっくりしたのは肉体のセンシュアルな感覚だ。

身体がこんなにも喜んでる!というのが感じられる。

私は、、この人生を生きてる!
参加してる!という実感がやってきた。

これがグランディングか〜って 笑

目がよく見える
人の顔がクリアに見える。

鏡を見なくても自分の瞳が子供の頃に戻ってきているのが感じられる。

過去に生きずに今に生きるということの意味が体感で理解できた。

足の裏を地面につけて頭頂を天に向けて〜みたいなやり方のいわゆるスピ的なグランディングは私は全然だった(今もこんなことやってる人がいるかどうかは不明、、あくまで十数年前)


ぼんやりとただ消費されるだけの生き方は、、夢の中を生きるようなものだ。
漂っていて無痛だけれども何も産み出さない。

自分の感覚を取り戻すとそこに怖さがあるかもしれない
痛みがあるかもしれない
だけど、なによりもまず自分の呼吸、リズムが戻ってくる。

そこまで安心をもたらせてくれるスペースが、グループにはある。

身体に戻り
自分の呼吸を取り戻し
今まで受け止めてしまったネガティヴな感情も開放して
自分自身としてそこにいさせてくれます。

瞑想は生きかたを変え、そして支える。


グナちゃんたちの瞑想会のご飯❤️
今回もお弁当作ってくれます。

この写真だけでももう一回食べたさが蘇ってくる!

生きてる喜び味わいましょう。