巨人  ⑦ 多摩川 | まつすぐな道でさみしい (改)

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1873年頃  日本に野球が伝来し、旧制一高(現・東京大学)と開拓使仮学校(現・北海道大学)の学生が野球を始め、それを元に全国に野球が広りはじめる。

1878年  日本初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」誕生(~1887年解散)

1888年 旧制一高に野球部が誕生

1890年~  一高黄金時代が到来

1903年  第1回早慶戦が行われる(1904年、早慶両校が共に一高を撃破、一高黄金時代が終わる)

1906年  早慶戦が応援の過激化により中止(その後、明治、法政、立教の順でリーグに加盟、早慶戦の無いリーグ戦が続けられる)

1915年  第1回中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)開催

1925年  東京六大学野球がスタート

1927  第1回都市対抗野球大会

1936年  日本職業野球連盟(プロ野球)誕生
 
1939年  第二次世界大戦開戦

1945年  第二次世界大戦終結

1955年  馬場正平 巨人軍入団

1958年  長嶋茂雄 巨人軍入団

1959年  王  貞治   巨人軍入団 

1965年~73年  読売巨人軍V9


1970年代、私の子供の頃は読売ジャイアンツ人気の絶頂期だったと以前に話したが、戦前の日本に於ける野球の歴史を紐解いて見るとその起源は学生野球に有り、プロ野球が発足する随分と前から、学生が鍛え上げた心技体を競う純粋なアマチュアスポーツとして既に人気が定着していたらしい。

そしてプロ野球発足当初は、「野球で金を稼ぐなど、けしからん」というような風潮が有り、プロ野球という存在そのものが世間から白い目で見られていたという。


終戦後、GHQによる占領政策の一環として野球が奨励され、戦時中に戦況の激化に伴い中止されていた大会が再開されるようになり、野球は戦前にも増して爆発的な人気を集める。

特に、戦前はあまり人気の無かったプロ野球も戦後の復興と共に一大ブームとなって行くのだが、それでも暫く「格」という点では六大学野球よりも下に見られていた


では、如何にしてプロ野球はそのポジションを逆転し、読売ジャイアンツは隆盛を極めたのか?


プロ野球はある男の出現で、一気に形勢逆転する事になる。


立教大学 長嶋茂雄

ジョー・ディマジオ、ヨギ・ベラなどの大リーガーのプレーを参考にメジャー流の練習を取り入れるこの男は、それまでの学生野球とは一線を画すようなダイナミックなプレーで観客を魅了し、学生時代最後の試合となる1957年秋の慶応戦では、当時の六大学の本塁打新記録となる通算8号本塁打を放つという千両役者ぶりを見せ付ける。


この東京六大学が生んだ最高のスーパースターが巨人に入団し、初年度から大活躍する事で国民の関心はすべて巨人軍、プロ野球に注がれる。長嶋茂雄六大学野球の人気をそのまま全部、プロ野球に持って行ってしまったと言われている。


やがて王貞治の台頭から、ON砲が牽引する形で1965年から73年に続く巨人軍V9という黄金時代に突入するのだが、この時期に差し掛かる頃にはもうどちらが格上か? などとの議論など挟む余地もない。


野球=巨人軍 いや、長嶋茂雄 となってしまってい


全国民がたった一人の男の活躍に夢中になり、いや、この男のプレーは例えそれが三振であったとしても、それさえもが見せ場となり観客を沸かせ魅了した。



1873年  戊辰戦争が終結して4年、まだ町にちょんまげで帯刀の侍が数多く闊歩する時代から続いた、学生野球こそが本道だという価値観を、たった一人の男の存在がいとも簡単に塗り替えてしまう。


[参考資料]
六大学野球とプロ野球 ~その人気の変遷について~


これがスーパースターというものなのだろう。


もし、日本の野球の歴史の中にに1ヶ所だけ句切りを入れるとすれば? と、問われれば、この時代を知る多くの日本人がこう答える。


長嶋茂雄登場 以前・以後



その歴史の変換点の巨人軍に、あの男は在籍していた





僕が巨人に入団したとき、水原監督に新人の長嶋って紹介してもらって、最初にスタートしてキャッチボールをしてくれたのが馬場ちゃん! ま~当時は馬場投手。だから、最初にご縁が有ったのが馬場投手でしたね。


G馬場のことを馬場ちゃんと呼ぶ人にはなかなかお目に掛かれない。

長嶋が巨人軍に入団し、最初にキャッチボールをしたのがG馬場というのは有名な話しだが、長嶋と馬場はジャイアンツ時代からかなり仲が良かったようで、2つ年上の長嶋は親しみを込めて馬場ちゃんび、その関係は晩年にまで変わらず続いたという。









僕は、巨人にはピッチャーとして入団したのですが、球団の首脳(当時の監督は水原茂、ヘッドコーチは川上哲治、投手コーチは中尾碩志)は、早い段階から、僕をバッターとして育てることを考えていたようで、秋季練習ではすぐにバッティングの練習をやらされました。

当時は、現在パリーグで採用されているDH制はなく、セ・パ両リーグでピッチャーも打席に立っていましたから、ピッチャーのバッティング練習自体はそれほど珍しいことではありません。ただ、現在のようなピッチングマシンなどはありませんでしたから、打撃練習をするには、実際のピッチャーがマウンドに立ってボールを投げなければならなかったのです。

しかし、1軍のレギュラー選手相手ならいざ知らず、僕のような高校生ルーキーのバッティング練習につきあってくれるピッチャーなんて誰もいないものです。しかし、そんなとき、馬場投手は率先してマウンドに立ってくれたんですよ。

マウンドに立った馬場投手は、いちだんと大きく見えます。球もまさに2階から投げ下ろされてくる感じです。

ただ、バッターに対しては、体を横に曲げて腕を真上から振り下ろすような、オーバーハンドのフォームではなく、どちらかというと、腕が斜め上から振り下ろされるスリークオーター気味のフォームだったので、威圧感というのはありませんでした。スピードもびっくりするような球速ではなかったと記憶しています。



だけど、ボールの球質はとても重かった。キャッチャーのミットに収まるときの音や、バットの当たったときの感触はそれまで経験したことがないような衝撃で、「これがプロのピッチャーが投げる球か」と驚きました。僕が投げる球よりも、はるかに重い球質だったと思います。

馬場さんは、僕と練習で顔を合わせると気さくに、「ワンちゃん、ワンちゃん」と呼んでくれたりして、とてもやさしく接してくれました。1軍の選手とは宿舎が別々なので、グラウンド以外で顔を合わせることはありませんでしたけれど。

当時の2軍監督だった千葉茂さんには、とても可愛がられていたと思います。それと、同期だった国松彰さんと馬場さんは、いちばん仲が良い関係だったと記憶しています。

そんな馬場さんが、野球選手を引退して、プロレスラーになると知ったときには、本当に驚きましたね。心優しい人柄の印象しか僕にはなかったので、プロレスのような激しく熱い世界に入るとは考えられませんでしたから。

僕らが子供のころは力道山、ルー・テーズ、シャープ兄弟など、プロレスラーが国民的なヒーローだった時代です。そりゃもう、誰もが街頭テレビで観戦しすながら歓声を上げていました。そのリングに、馬場さんがレスラーとして立つ姿が、まったくイメージできませんでした。残念ながら、実際に試合を見る機会はありませんでしたが、テレビでは何度も何度も試合を見ました。そこには、完全にプロレスラーとして闘う馬場さんの姿がありました。


このコメントに有るように、王貞治は甲子園大会でノーヒットノーランを達成するなどの実績を引っ提げ、ピッチャーとして巨人軍に入団しているのだが、入団そうそう首脳陣より投手としての将来性を否定され、野手への転向を余儀なくされている。

この時の事を王は、「 (自分が投手として通用しないことは) 薄々感づいてはいた。だけど、やはり野球をやる者なら誰でも投手に憧れるもので、『おまえ、明日からは野手だ』と言われた時は正直に言えば寂しかった」と振り返っている。

六大学野球での絶大な人気を背負い、入団したその年からスター選手として大活躍した長嶋茂雄とは対照的に、王貞治のプロ野球人生は挫折からのスタートとなり、最初の数年は目立った活躍を見せる事が出来ず、後に世界のホームラン王と呼ばれる男も、この頃はファンからは三振王と野次られる始末だった。

この時期の王貞治を影で支えた馬場正平だが、彼が生涯のライバルに巡り会うにはまだ数年の時を要する事となる。




ここから先は、日本人なら誰でも知っている話なので若干蛇足にもなるが、昭和の二大スターのここまでの話を簡単に纏めてみたい。

冒頭の年表でも分かるように、1年差のほぼ同時期に入団している二人だが、当時人気絶頂の六大学野球リーグ出身の長嶋と高卒ルーキーの王の間には5つ年の差が有り、身体能力的にもその知名度、人気と言う面でもスタート時点で既に大きな差が開いている。

入団当初からスター街道を突き進む長嶋に対して、投手から野手への転向を強いられた王は、入団当初目立った活躍を見せる事が出来ず周囲の期待に応えられなかったと言われるのだが、入団1年目は兎も角として、実は2年目3年目辺りは高卒ルーキーとしてはそこそこの成績を上げているのだが、常に5つ年上のスーパースターと比較される事となる。

王貞治の前には、常に長嶋茂雄という巨大な壁が存在した。

そして、スーパースター長嶋茂雄に追い付きその壁を乗り越える為、必死に努力を重ねる王だが入団して数年が経過した時期に気付いてしまう。

自分がいくら試合で活躍したところで、観客の記憶には長嶋茂雄のアメリカナイズされたダイナミックなプレーしか残らない。長嶋茂雄にはもって生まれた華があり、同じ事をしていても絶対に敵わない。

本来実直な性格の王としては、例えホームランを打ったとしても打たれたピッチャーの事を気遣い、長嶋のように大喜びでグランドを回る事が出来ない。監督にプロなのだから観客を喜ばすパフォーマンスをしろ! と言われても、精々両手を上げて万歳ポーズでホームインする程度。このスターの資質だけは、いくら努力したところで補う事が出来ない。


記憶に残らないのならば、記録に残るプレーをするしかない。


同じ事をやっても敵わないのならば、長嶋と違う道で対抗するしかない。


王貞治の出塁記録を見ると、他の選手と比べファーボウルによる出塁数が異常に多い事に驚かされる。これはホームランを恐れる対戦相手が王の打席を敬遠した数だけではない。

その日以降、王は1万打席以上すべての打席でホームランを狙い、すべてのスイングはホームランを打てると確信しバットを振っている。鬼気迫る真剣勝負である彼の打席で、無駄玉にバットが振られる事はない。

そんな彼の2万回以上のスイングから放たれた、たった868本のホームランは前人未踏の世界記録になっていた。


一方のスーパースターもただ派手なだけのパフォーマーではなかった。必死に食らい付く王に負けじと、長嶋も猛練習に明け暮れる日々が続く。

当然、そんなチームの二枚看板の姿を他人事と無視出来る人間は居ない。気付けばチームは日本シリーズを9連覇するという最強軍団に変貌していた。



努力しても報われないこと
があるだろうか。

たとえ結果に結びつかなくても、
努力したということが
必ずや生きてくるのではないだろうか。

それでも報われないとしたら、
それはまだ、努力とは
いえないのではないだろうか。



王貞治にはその非凡な野球センスに加え、どんな逆境に立たされても諦める事なく前向きに歩を進める折れない心と、なんの疑いも持たずただひたすら努力し続ける事の出来る誠実さがあった。


王貞治とは、努力する事、努力し続ける事の天才だった。



1980年の王貞治引退から35年が経過し、近年『王貞治の保持した記録が40年振りに更新される!』などというニュース耳にする。その度にそんな記録も有ったのか?  と驚かされるのだが、そんな時まったく悔しがる素振りも見せず『どんな記録も破られ、更新されるべきもの。更新されなければ野球の進化がない』と、手放しで若い選手を賞賛する王の姿が見てとれる。

[参考リンク]
また抜かれた。。。日本球界から王貞治の記録が記録上から消えているw


恐らく王貞治の中で、自分の保持する世界記録というものは、さほど大きなウエイトを占めてはいないのだろう。 


絶対に越える事の出来ないと思われるスーパースターの背中を追い続け、自分は記録を残すという独自の道を選択した男の、飽くなき記録への挑戦の道のりと、その鬼気迫るプレーは記録としてではなく、日本国民の記憶に刻み込まれているのだから。


二人のライバルストーリーは現役引退と共に終了する事なく、時に選手と監督として、ジャイアンツ・ホークスを率いる監督同士として、日本を代表する野球人として、一人の人間として、終わることなく続く。

「尊敬する野球選手は?」という質問をされた際に、ハンク・アーロン、川上哲治とともに、必ず長嶋の名前を入れる王貞治は、今尚その背中を追い続けているのかも知れない。



天性のスーパースターと、その背中を追い続け非凡な才能に更なる努力を重ねる事で磨きをかけ、スーパースターへの階段を登って行った男。このあまりにも対照的な二人の男の生涯を掛けたライバルストーリー。

そのスタート地点に馬場正平の姿が有った事は、これから語られる40年にも及ぶライバルストーリーとの奇妙なまでの相違を考えれば、単なる偶然として安易に片付ける事の出来ない運命的なものを感じずにはいられない。



随分前置きが長くなってしまったが、肝心の馬場正平投手は巨人軍でどのような活躍を見せたのだろうか? 


お待たせしました、ここからが本編のタート・・お話の途中で大変申し訳有りませんが、放送時間が残りわずかになってしまいました。

馬場投手のお話は次回という事で、本日の中継は大田区多摩川グランドよりお送りしました。

それでは皆様ごきげんよう!