西沢スキー(NISHIZAWA)に感激!! | 九代目七右衛門の徒然日記

西沢スキー(NISHIZAWA)に感激!!

木材港のヒマラヤスポーツで見つけた西沢スキー(NISHIZAWA)のレポートです。西沢スキーは私が競技スキーをやっていた小学校の頃、あこがれていた板です。競技用の板はフォーミュラーでした。基礎用のスキーはデモンストレーターシュープリームボロンとか、カーボンがあり、私が基礎スキーに目覚めた昭和63年頃トップ選手だったSAJデモストレーターの渡辺一樹さん、佐藤譲さん、山田誠司さん、五藤伯文さんなどが履いていました。
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西沢スキーの創業は古く、約150年前の安政年間に「西沢書店」としてスタートしました。それに伴い木製の教育器具も扱っていた事から、大正に入り、長野県長野市緑町に自前の木工場を所有し、1937年(昭和12年)に長野県庁からのスキー製造要請によって、スキーの製作を始めたと言われています。レルヒ少佐来日の1910年(明治43年)から、新潟県高田市や長野県飯山市で、外国品スキーを見よう見まねで作っている開発者が数人存在し、軍需用具として僅かながら生産が拡大していたようですが、組織的にスキーを開発、製作していたのは西沢スキーだけであり、日本で最初の量産スキーメーカーだったそうです。
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その後、着々と生産量を伸ばし、前述の渡辺一樹さんらのプロモーション効果もあり、1993年(平成5年)の販売台数は年間スキー15万台、提携していたテクニカブーツの販売数は5万足だったとの事です。マツダのワゴン車ボンゴに西沢スキースペシャルという限定車も発売していました。ロシニョールや、サロモンが破竹の勢いで攻勢を強めていたこの頃、互角の勝負が出来る国産スキーはニシザワ以外はありませんでした。
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しかし不況の波により、1996年(平成8年)、新潟の伝統あるスキーメーカー、カザマスキーが倒産。ヤマハが、翌年1月までにスキー界から撤退することを発表、そして長野オリンピック(1998年)終了後の3月末に、西沢スキーも従業員全員を解雇して、多くのスキーヤーに惜しまれながらもその伝統に幕を閉じてしまいました。
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お店の人に聞いたところ、ヒマラヤスポーツが西沢スキーの商標だけを買い取って、自社製品として販売しているとの事で、どこで製作しているのかは内緒との事でした。元のNISHIZAWAブランドとは関係ないそうです。

家に帰ってネットで調べてみたところ、カザマはアルペン=ジャパーナ、ケスレーはノルディカに吸収されましたが、商標だけゼビオで買い取ってケスレーの板が出ており、ハートはヤマハが撤退した時に、設備や技術を買い取ったそうです。オリジナルのブランドをつけるより、昔スキーをやっていた人に知名度があるネーミングにした方が売れるということでしょうか。私もその罠にかかってしまったようですが、本当に感激しました。