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 翌七日に天王寺の合戦があった。秀頼方の先手、毛利豊前守と本多出雲守が鉄砲で競いあっている間に、大野壱岐守の家来が計略の書状を持って大野修理の陣に行った。その書状には、「秀頼公の御出陣があれば、七人衆の内に裏切ろうとする者がおります。お気を付け下さい」とあった。修理はこの文を見て、急いで秀頼公の旗本に駆け付け、秀頼公を供奉して本丸に駆け入った。壱岐は修理の弟であぅたので、家康公が内々に仰せ付けられて遣わしたものである。

 そうする内に、大坂城の天守閣に火がかかり、その焼ける音が天地を震わせた。本多出雲は毛利備前の陣を切り崩した。しかし、他の敵がやって来て槍を揃えて出雲を突き落した。榊原党遠江守は力戦した。小笠原兵部大輔と信濃守は敵を破って討死にした。松平三河守忠直は真田左衛門佐の陣を破り、真田三宿(?)を討ち捕えた。大坂方はことごとく敗北し、追い討たれた。秀頼公は山里に入られた。井伊直孝と藤堂高虎がこれを包囲した。

 八日、秀頼公は自害した。母親の淀殿とそれに従った人々、大野修理、速水甲斐以下女中、大蔵卿局を始めとして皆死んだ。この日、家康公が陣に戻られておっしゃるには、「名将が亡くなった時には必ず雨が降るものだ。供を急ぐように」との事だったが、供奉の衆は、「これ程の晴天で、雨はありますまい」と言った。家康公がおっしゃるには、「秀頼も名将の内である。もうすぐ雨が降るだろう」との事だった。果たして大雨が降った。その大きさは桃程で、晴天のまま一時ほど降った。

 九日、秀忠公が帰陣された。六月、両公は関東に下向された。八月、江戸城において諸将・近習の大坂ノ陣での戦功のお尋ねがあった。各々時下にその申し上げた。佐久間備前守は、「私は土井大炊頭(利勝)の組におりました。御旗本の前備えでありましたが、二番手を心がけ、隊列を乱しませんでした」と。

 大膳亮は、「私は備前の息子・民部と我が愚息・因幡が初めての戦でしたので、援護してやろうと思い、徒歩の者だけを連れて先手に参り、天王寺あたりで敵に遭遇しました。二人が敵の中に無体に駆け入ろうとするのを私が押し留めて突き掛かり、両人ともに功名を上げさせました。私も良い相手がいれば手に掛けようと見回した所、人の肩に寄り掛かって退却しようとしている敵がいましたので、大将と見て乗り寄せ、言葉を掛けました所、竹田永応だと名乗りました。すぐに討ち捕え、連れて来た徒歩の者たちに命じて手をふさがせました」と申し上げた。


 最後の終わり方が不自然ですが、大坂ノ陣の様子が良く判ります。佐久間兄弟は、夏ノ陣では天王寺・岡山ノ合戦に参加したようです。文中の真田三宿とは、真田幸村の嫡子・大助なのかもしれません。

 この後、この合戦の恩賞として安政には信州・飯山を、勝之には信州・長沼の領地が加増され、それぞれ三万二千石、一万八千石の大名となります。

 飯山・佐久間家は三代続き、寛永十五年に無嗣絶家し、家名だけは安政娘の嫁ぎ先が継ぎ、後に松代藩・真田家に仕え、幕末に洋学者・佐久間象山が出るのです。庶家である私の家は、飯山藩の飛地となった近江・高島に残った訳です。

 長沼・佐久間家は四代続き、元禄元年に改易になり、その子孫達は旗本として幕末まで存続しました。詳しい事は、ブログの最初の方に書いてあります。