3/1(金)公開のコットンテールを見てきました。


制作の告知を見た時から公開を楽しみにしていて、

映画ってそういうもんだとは思うけど発表から公開まで結構な時間があり、なおかつ撮影や制作も難しい時期だったと思うので、

(公開…されるよね…)と思いながら待っていた。

公開おめでとうございます。


週末よりもむしろ初日のほうがタイミングが合ったので、

初日の仕事終わりに観に行った。(たまたまファーストデーでありがたい)

仕事終わりの人も多かったからかスクリーンは最前列のみ空席があるもののほぼ満員。客層も幅広い印象。




感想に映画の内容を含みます。



















感想としては、個人的な体感としてははつっらいけど、とても素晴らしい作品で、観てよかったなと思った。



まず印象的だったのは、余白が多く、画や演者のお芝居、観客の心の動きに委ねるところがあるように感じられたところ。

ストーリーやセリフ、音楽が必要以上に多くなく、詰め込みすぎてないところにとても好感を持った。


説明セリフよりもその場に映し出されるものや演者の表情で語らせてくれるところが良かった。

特に寄りの画が多いのもあり、演者の表情、ボディランゲージ、言葉の表現、空気感がスクリーンを通して言葉の数以上の情報量で伝わってくるようだった。

登場人物も選りすぐられていて、だからこそ一人一人の言動をこんなに繊細に撮れたのかなぁと思ったり。



そうして選りすぐられた結果出てくるセリフには、この表現の仕方いいなーと思うものがたくさん。


(言い回しを細かく覚えていないのでニュアンスになっちゃうけど)

お寺での葬式のシーンで、明子の信心深さがうかがえる描写として、

明子は信心深かったと直接説明するのではなく、

健三郎は全然信じてなかった、明子はそうではなかった、と表現したり。

あなたをリサイクルショップに売っちゃうかも、というのも好き。(ここの健三郎と明子の会話いいですね)

父さんの世界に入れて欲しかった、も(つらいですが)素敵な表現。



音楽も、私は劇伴大好き人間だけど、この映画では考え抜かれてカットしたんだろうなと思う場面が多々。劇伴をつけないことで、このシーンはこういうシーンですって方向性を決定付けることなく、演者の豊かな表現から自由にいろんなことを感じ取れるから、

この人物にとってはこうだけど、この人物にとってはこう感じられるのかなぁと色々考えながら見ることができた。


だからこそ劇伴(どれも美しい音楽でしたね…)が入ってくる場面はぐっと引き込まれる。

それに、自然の音や街の音、人の話し声や息遣いなどにいたるまで音周りがとても繊細に録られていて、

相当丁寧に音作りをされたのではないかなと思った。

映画館で見るからこそ細かい音まで聞こえて、この環境で見る価値があるなと思う。


上映が終わったあとからインタビューに目を通し始めたけど、セリフや音楽は意図的に削ったところがあると拝読して、そうだろうなと思った。



あとは本当、画面に映る風景がどこもいいですね。


日本の描写でも、こんなに味のある寿司屋や喫茶店があるのか…と思ったり、健三郎の家も普通の集合住宅の一室のようで中はどこかアンティークなものもあったり、不思議な世界観。

公園を歩くシーンも木漏れ日がとても印象的で、(普通の公園だと思うけど)素敵に撮ってるなぁと思った。


湖水地方はまた…どこを取っても絶景。

あの広々とした空、一面に草が広がる丘、美しい湖。うわーまさに好きな風景だ…行ってみたいなぁと思いながら見入ってしまった。


途中で出てくるなんてことない(ように見える)民家も、家の壁、赤や黄色の花が緑に映えて、ぽつんとある素朴なベンチ、もうこれだけで絵葉書にできるような美しさ。ためいき。



そしてストーリーですが。


解像度が非常に高いなぁという印象。

きっと観客それぞれの人生経験によって、目がいく場所や感じ方は結構変わってくるのではないかなと思うけれども、

誰の視点に、どんな場面に共感しようとも、それぞれが恐ろしいほど高い解像度で描かれているんじゃないだろうか…。



私は親戚縁者全体的に家族というものがあちこちで関係が壊れていて、

それを子供の視点から見続けている人間なので、無意識に慧の視点から映画を見ていたけれども、

子供の視点から見る“家族”がありありと表現されていて、自分の経験とは方向性がやや違うけど、“見たことしかない景色”が繰り広げられているので正直つらかったです。

先述でセリフの少なさに言及してるんですけど、特に慧やさつきにいたってはもはや沈黙の中に潜む本来発話されていたかもしれない言葉や感情が自分の中に溢れてきて、“うわぁぁぁぁ”ってなってた。

そう、とかく家族に至っては思ってるけど言わない方がいいまたは言っても仕方ないことがあるのよな…ということを思い出して。

Xにちらっと書いたけど、心の中に穴を開けられて陥没していくような感覚でした笑


慧を見ていると、この人は本当に“世界に入れてもらえなかった”ことで距離を置いた、いや、結果置かざるを得なかったんだろう。

だからこそ、大人になっても扉を叩くことを諦めなかったのだろうなぁ。

でもそれって言葉を変えれば諦められなかったということで、子供の時から慧はずっと葛藤や疑問、無力感を抱えていたのではないかな。

決定打があったほうが楽なこともあるよ…きっと。


私はどちらかというと被っていた形で、この人に関わることで自分が幸せになれることは無いと分かって切り離したので、慧の段階は通り過ぎてたけど、

いやここの段階が正直一番つらいのよなぁ、と思うし、現在進行形で続いている慧がいたたまれなかった。

(あまりにリアルなので、自分とどう違っているのか考えるに至れるのもいいですね)


それでもそんな子供時代を過ごして、さつきやエミへのあの関わり方を見てると、この人どんだけ人格者なんだ…。

ずっと続く葛藤の中で、それでも折り合いをつけて、自分は自分なりの家族との関わり方を模索しながらここまできたんだろう。こうじゃない、しか知らない中での関係性の構築ほど難しいものはない。苦労してきたと思うよ慧…。


それでも最後、自分がこじ開けるのではなくて健三郎が自分からドアを開いて来てくれたことは、慧にとって大きな一歩だったんだろうなと思う。


そして、思い返せばいつしか健三郎も実は慧の世界に入っていけなくなっていた。

火葬場で骨を拾う時の対面、慧達のホテルの部屋の手前、車の後部座席、無意識のうちにここにも壁が存在していて…

上映終了後にふと思い返しながら、最後の彼らの表情が温かくも“あぁ、難しいなぁ”と思ったり。



健三郎と慧ですらこれだけの解像度で映画を見ながら感じている。

健三郎と明子、明子と慧、さつきと健三郎・明子…と違うスポットで見てみたり、義家族との関係性や、家族による介護など、違う要素に自分ごととして共感できるようになったら、また違う見方になるんじゃないかなと思った。

感覚として、どの角度から見ても同じくらいの解像度で読み取れると思う。


観終わったあと、母にこの映画をご夫婦で見に行ってほしいと連絡しました。

そこから何かを感じて欲しいと期待しているわけではなく、

ただ、過去にあった、今起きている、これから起きるかもしれないことを、映画館という集中せざるを得ない環境で目を逸らさずに見つめてきて欲しい。当事者としての悲喜交々ではなく客観的に見つめてきて欲しい。

そんなことを思ってます。


それでは最後に、特段語りたいところについて。


・冒頭の生気が感じられない健三郎の表現がすごい。がやっとした街を幽霊のように力無く歩きながら息を吸うようにタコを万引きしていく。笑っている目に少しも光がない。上映が終わったあと“これが喪失感の表現か…”と鳥肌が立った。


・終盤写真の場所と思しき場所に健三郎が散骨しに行くシーン。さつきは“車の中で待っている”と伝えるけど、それは決して一緒に行きたくないわけではなくて、健三郎(とできれば慧)に送ってきて欲しいからという気持ちからではないかなというのが、あの高梨さんの表情で読み取れた。おそらく昨晩トイレから部屋に帰ってきた慧を見ていて、何か言葉が聞けたのだろう、もう大丈夫だという予感がしていたのだろうな。高梨さんの絶妙な距離感のお芝居素晴らしかったけど、特にここがお気に入りのシーン。


・明子をもうちょっと掘り下げて見たい。イギリスという場所に強い思い入れがあって、日常生活にもその片鱗がありながら、仏に帰依しているというのがなんだかちょっと意外だったような。病気がわかってからだったのかな。かなりミステリアスに見えて、明子がどういう人なのかもっと知りたい。あと、何で健三郎と知り合ったんだろう…


・錦戸さんの存在感が凄いなぁ。そこにいるだけでほんとに目を引きますね。常々、ドラマや映画など画面を通したお芝居に長けた人だなと思うけど、なかなか邦画では見ないような寄りの連続で、造形云々の話ではなく存在感でずっと画面が映え続けるのは凄いと思う。画面で存在感伝えるって難しいと思うんですけど。

あと、“普通”の表現は毎回ながらずばぬけている。ほんものの普通だとそれはドキュメンタリーだからあくまで脚色された普通なのだろうけど、“こんな素敵な人いないと思うけど、見たことがないだけで世界中のどこかには存在してる気がする”という絶妙なラインの“普通”を表現する天才。


・慧が当たり前のように健三郎の分のネクタイ結び始めたのを見ながら、この人はいつも仕事の時スーツ着ているのだろう、健三郎はスーツ着る機会少なくて、ただでさえ着替える気がないのに、ネクタイまでくるとできないか時間がかかるから自分がやった方が圧倒的に早いと思ったのだろう、と苦笑いしながら見てました笑


・リリーさんの健三郎の表現が凄すぎて、昔の記憶が呼び覚まされた結果私は多分途中結構とんでもない顔で見てました笑 本当にごめんなさい。

特に、なんやねんと思わせてくれる穏やかではない沈黙のシーンの絶妙な表現が素晴らしかったです。


・イギリスでの健三郎と父娘との交流。短いけれども、健三郎

に大切な気づきを与えてくれるような素敵なシーンでした。

妻を亡くしても、(それまでの関係はわからないけど)そばにいた娘の支えをありがたく受け入れ、つつましやかでも作業に勤しみ、静かだけどどこか活力を感じるような暮らし。

あれだけ地図だけ借りて出て行こうとした健三郎にとって、自分から助けを求め、それが快く受け入れられたというのは、大きな出来事だったと思います。電車の時は向こうから教えてくれたけど、自分から求めたわけではなかったからね。逆に他人だからこそ、一歩を踏み出しやすかったといのもあるのかな。


・明子の最期は、ここはいろんな解釈ができそうなところ。明子の“助けてくれる”、健三郎の“助けてあげられなかった”をどう取るか、だろうか…。

どちらにせよ、慧の“言わなくていい”はその通りだと思っていて、それは夫婦だけの秘密にしていて欲しいなぁという願い…。


・最後のシーン。画として本当に印象に残っている。ネックレスをさつきがもらってくれないかと慧に預けたり(自分で渡さないのが大事ですね)遺灰の入ったバッグを手放したり、健三郎と慧の離れていた世界が、少し繋がりはじめたというのが分かる。

そして湖水地方の雄大な自然。行ってみたくなりました…。



余談。

制作発表の時から、シャンテあたりでしっぽり見ている風景を想像してたのですが、

昨日新ピカのスケジュールを見てたら1番で見られる時間帯もあるようで、それはまた凄い体験になりそうだ…と思った。あの湖水地方の絶景を…あの大きさのスクリーンで…。良い…。