マイノリティとマジョリティ


直訳すれば、少数派と多数派。


少数派は、孤立、孤独などの他と交わらない閉鎖感のあるイメージ。

多数派は、多勢、つまり多くの人が共感する拓けたイメージ。

多勢に無勢じゃないけれど、多くの人の共感を得て行動することはとても大事で当たり前としたい。

それが民主主義なんだが・・昨今の日本はどうなんだろう?


+×+×+ + +×+×+ 


孫子の歩兵に、こんな言葉がある。


「敵を知り己を知れば百戦してあやうからず」

「善く兵を用うる者は、道を修めて法を保つ」

「善く戦う者は、人に致して人に致されず」

「善く戦う者は、先ず勝つべからざるを為して、以て敵の勝つべきを待つ」


つまり、法を保ち、勝つ為に何をすれば良いかと言うことを説いている。


勝つと言っても、いつもいつも勝ち続けることは余程の強者でも難しい。

時には敗北(誤ち)から弱点(恥)を知り、そこから巻き返し(非を正す)を図る為に事を起こす、ここが大事なところ。


負けると、マイノリティ(ここでは非による孤立感)に支配され、負け(誤ち)続ける原因になる。

しかし、負け(誤ち)の原因を深く考え次はもっと良くなろうと行動を起こせばマジョリティ(ここでは非のない多孝)の風が吹く。


今や、この国のトップはキックバック、裏金、挙句の脱税のマイノリティ達がまかり通る。

ただ、その政党を選択したのは国民の大多数(マジョリティ)。

裏金、脱税のマイノリティを選択した、そもそもの原因は何処(誰)にあるのか、そろそろ国民が真面目に考えないとこの国は変わらないんだが・・

次の選挙(政党選択)で、この国の舵取りが見えてくる。





思い立ったが吉日

24年元旦に能登半島地震に始まり、政治資金の裏金論争が終わらない・・
この国を統治する権力には、社会秩序を維持するために三権分立がある。
・立法権
(国会(参議院、衆議院)で法律を定める)
・行政権
(内閣(総理大臣)で定められた法律を執行する)
・司法権
(最高裁判所で法に基づいて争いごとを解決する)

前記の問題を国会でスッタモンダやっているが、内閣はノラリクラリで方向性が定まらず、責任逃れの詭弁(きべん)だらけ・・

この国は何処に向かっているのだろうか?

国外への膨大な支援金を出す余裕がある国なのだから、国内の窮地は躊躇なく素早く、手厚く、国債投入してでも対処すべき。
納税者を馬鹿にしたエゴイズム的な過ちは、潔く認めて精算し本来の国の舵取りをすべし。

と言う、責任と義務をサボらず、思い立つことが大事だと思うのだが・・。

「」「」「」「」「」

「思い立ったが吉日」と言う言葉があります。
(やれることは後回しにせずに直ぐやる癖をつける俊敏性を養うことが大切という意味)
そこで・・
直ぐにやる為のファクター(要素)で、物事を重要度と緊急度のニ軸に大別すると・・
・重要と緊急
・非重要と緊急
・非緊急と重要
・非重要と非緊急
の四つに分けられるといいます。
(思い出せないが何かの本で読んだ・・笑)

重要で緊急なことは直ぐに行わなければなりません。
けれど、重要であるけれど緊急でないことは後回しにしがちです。
大切だなぁ・・と感じていてもついつい先延ばしにしてしまうこと。
こんなことはよくありがちで、気付いた時には手遅れだったなんて経験は誰しもあると思うが、出来るだけ不要な事はしたくないと言う心理が働き、「サボる」と言うことに結びつくんですね。

では、サボるとどうなるか・・

たぶん、重要でなくても緊急なことが増えてしまい、やりたいことが思うようにやれなくなる事態に陥る。つまり時間が無くなると言う現象を引き起こしアタフタする。
これを回避するには、普段から緊急ではないが重要なことに意識的に取り組む習慣を持つことが大事。

例えば・・

誰かに言われて行動するのではなく、自ら動く。
なりたい自分の未来を創造し、今やれることはトコトン取り組む。
言われたらすぐ動くのは勿論だが、言われる前に察知し動きだす、思い立ったら直ぐに一歩を踏み出すことなどで、多少ドタバタしても行動に移すことが大事。
特に若いうちから、そういう機敏性の有るフットワークを養っておけば、失敗も経験にし成功を得ることが多くなることであろう。

ゲーテの名言集を読んでいると、そんなニュアンスが
たくさん書かれていて興味深い。

+×+×+  +×+×+  

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの言葉から

「何をなすべきか、いかになすべきか」をのみ考えていたら、何もしないうちにどれだけ多くの歳月が経ってしまうことだろ。

・・・

つまり、行動を起こしなさいと言うこと。

これを、指導者は未来有る子供達に言い続けることが大事。






trust・・2024
(信頼)

2024年のスタートの初心に、社会で人に信用される為の大切なアプローチ・・

信頼の回想から

幼い頃に家の居間に掲げてあった言葉がある。
「努力、円満」、木の板に墨で書かれていた。
毎日見ていたが、いざ実践となるとこれがなかなかのハードルだった。

いつも一生懸命にやるのは中々難しく、それを当たり前に努力し継続できる人は少ない。
人が見ている時だけポーズをして、やってるよとアピールするのは努力ではないと教えられた。
努力を継続し、取り組んだ時間が濃密で有ればある程にポジティブさが伝わる。
やった振りのポーズをとらずにポジティブに時を刻めば結果が現れる。
そんな努力の時間の継続がとても大事だと学んだ。
そう言う生活を普段着にし努力すれば、やがて信頼が芽生え円満にことが運ぶと・・。

信頼は、昨日今日の断片的な行いで成り立つことはない。
とにかく今日を一生懸命精一杯やると言う気概が必要だ。
今日も明日もその次も、マイペースな努力を積み重ねる、そうして、「気がつくとここまで来ていた」と言う生き方でいいんじゃないかな。

論語に学ぶ・・
人に言われる前に行動を起こせる人になろう。
他の人が面倒だと思うことを、自ら進んで行動出来る人になろう。
謙虚に自分を磨くことで信頼は築かれて行くはずだからと論語に学んだ。





初冬の候


もう冬なのに夏の異常な暑さの名残りか暖かで麗らかな小春日和の日に、鈍った身体で低山の山歩き。

初冬ならぬ晩秋のような暖かさが気持ち良く、枯れ葉の絨毯は足に心地よく優しいが、この所の首と肘が痛いのがたまにきずだ。


+×+×+  +  +×+×+  


秋の名残りの初冬、そこで一句


北原白秋、歌集『牡丹の木』から


秋の日の白光びやくくわうにしも我が澄みて思おもひふかきは為すなきごとし

〈要約〉

秋の日のおだやかな白光びゃっこうに私の心は澄みきって深く満ち足りた思いはもはやこの上何もなすべきことはないかのようだ。









believe in oneself
(自分を信じる)

ジュニア年代にコーチングし、今も大学、社会人でボールに向かう頑張り屋さんの情報が届いた。
頑張る君たちに感化されることに感謝したい。

 〜〜〜~〜〜〜

自分を信じる為に・・

何かを成し遂げたいと思う時、他人に頼るのではなく、先ずは自分自身でやり遂げることである。
一つのことをやり遂げれば、何かしらの自信が持てるようになり、自分を信じることが出来る。
自分を信じる為には、何事も勉強し、雑多な環境でも学ぶことを怠らず謙虚に暮らすことである。

〜論語から〜

2500年も前に、儒教の祖である孔子が弟子達と交わしたやりとりを記した、謙虚に生きる為に残した5つのキーワード。

一つは、思いやりの心の「仁」
一つは、素直な心の「徳」
一つは、行動規範の「礼」
一つは、社会的使命の「義」
一つは、過不足のない「中」

日本には、南総里見八犬伝の、仁・義・礼・智・忠・信・孝・梯の、馬琴の有名な小説集がある。
おそらく、孔子の5つのキーワードを拝借した物語だと思うが、子供の頃に学校の図書室で読んであれこれ頭を巡らせた覚えがある。
余談だが、NHKの人形劇、八犬伝とひょっこりひょうたん島もよく見たものだ。(笑)

~……〜……〜……〜……

論語には、こんな言葉もある・・

十五にして学に志す、三十にして立つ 

15歳で学問に志を立て、30歳で一人立ちをすると言う意味。
  
この続きで、「40にして迷わず」「50にして天命を知る」「60にして周りの言うことに耳を傾け」「70にして自分の思うがままに行動しても人の道を外さなくなった」という言葉もある。

現役を終え人生の最終コーナーを回った辺りで、やっと人の言うことが聞けるようになり、人の道を外さない行動がとれるようになる・・と言うことなので、自分もまだまだ青いな〜修行が足らんなぁと思うしだい。(汗)(笑)

+×+×+   +×+×+ 

〈参考〉 論語が由来の年齢を表す言葉です。
15歳 志学(しがく)
30歳 而立(じりつ)
40歳 不惑(ふわく)
50歳 知命(ちめい)
60歳 耳順(じじゅん)
70歳 従心(じゅうしん)

節目節目に、勉強になるなぁー(笑)






有難い人生を送るために


苦しい、困る、災いの字にそれぞれ難を付けると

苦難、困難、災難と陥りたくない不幸な言葉になる。


こう言った不幸が無いのが無難な人生で、誰もが平和で幸せに過ごしたいもの。

だが、人生はどうも上手く行かないことが多々有る。


そこで、不幸は神様が与えてくれた宿題とポジティブに捉えてみる。


あぁ何とかなった・・諦めずに良かったな〜って・・苦難、困難、災難に遭う経験って誰しも有ると思うが、振り返って難事を乗り越えた自分に誇りを持てばポジティブになれる。

その乗り越えた経験は、無難な人生より学んだことが多いはずだからだ。


きっと、無難な人生なんて誰一人としてない。


苦難、困難、災難は一見不幸だが、苦しい、困った、災いを『有難い』ポジティブな経験と捉えて対処出来れば不幸が幸福に変わるかも知れない。

そう考えられたら、上手くいかない時も頑張れる。


(ゴルゴ松本、命の授業から参照アレンジ)


…〜………〜……


中国を起源とした象形文字が、日本で進化した漢字には意味があることに改めて気付かされる。

普段何気なく使う漢字でも意味を知ると実に奥が深い。

命の授業、為になるな〜^_^










 

気遣いと気配り


人は、日々生活の中で馴れ合いになると気遣いや気配りに鈍感になる。

一見同じ意味の様な配慮の言葉だが、シチュエーションによって使い分ける言葉であるから、言葉の意味を理解して行動出来るようにしておきたい。


この言葉の意味を調べてみると・・


気遣いは・・

1人もしくは1つのことに対して、今現在の状況に応じてする配慮で、「相手に対して失礼のないように注意を払うことや、あれこれと気にかけること」を意味する言葉。


気配りは・・

複数の人やものごとに対して、未来を予測してする配慮で、「相手が求めていることを推測して先回りして行動したり、不都合や失敗がないように前もって備えたりすること」


案外知らなかったりして、間違って使ってしまう場面が多い言葉でもある。


前者は、敬意を持って接する言葉、後者は転ばぬ先の杖的な役目の言葉かな・・


何れにしても、この配慮が出来る人が増えると人間関係が良い状態に保たれ、配慮が不足する程に誤解やトラブルが起こることが増すのだと思われる。

人と接して慣れてくると、馴れ合いになり配慮を欠いた言葉や行動をしてしまいがちになるので気をつけたい。

いつも気持ち良く接する為に、気遣いと気配りの配慮を忘れないことが大事と常々思う。







 
北園の仮装コンクール
(秋を告げる祭り)

コロナ禍で4年ぶりの夏の終わりと秋を告げる祭りに行って来ました。

ここ北園の祭り、他とはちょっと違いとても面白い。
祭りの華は、仮装コンクールが昼間二日間に渡り行われることである。(夜は山車の引き廻し)

山深い小さな町の子供から大人まで、老若男女が入り交じる自由奔放なコンクールは他では絶対見れない奇祭。
例えば・・
中年オバさん達がパツパツ衣装で、白塗り化粧のオッサンがミニスカ女装ですね毛を見せて(魅せて)AKB歌って踊って芸をする気持ち悪さがたまらない・・(爆笑)

なんだ、この気持ち悪くて、愉快な情景は・・(笑)
日常ではとても無理なことを平気でやっている様がたまらない。

片や・・
衣装、小道具などに趣向を凝らした時代劇や、流行り物の寸劇、小芝居などなど手作り感満載で面白い。

街中のコンクール場所のあちらこちらに、変質者みたいな仮装住民がいっぱいいるコンクール。
コンクールでなかったら気持ち悪いが、楽しさいっぱいで帰れますので一度目と心の保養にどうですか・・(笑)

しかし、今年は暑かった・・
夏から秋への橋渡しな筈なのにまだ真夏日でした。
来年が今から楽しみだ・・
チャンちゃん(笑)

































aranciato(アランチェート)
道徳感と人格のポイ捨て

サッカーワールドカップで、日本の試合が終わると勝ち負けに関係なく、日本人観客(サポーター)はゴミを片づけてスタジアムを後にする。
試合に挑んだ選手スタッフはロッカールームを清掃し礼文を書き残してスタジアムを後にする。
これが日本の道徳感の格式の高さと海外メディアから賛辞が贈られる。

かたや・・

大リーグのTV野球中継で、ベンチ内がちょくちょく映るが、なんとゴミが散乱していることか・・・
ゴミ箱があるのに、ベンチ内の床はポイ捨てのゴミだらけ。
おまけに唾や、ガムを吐く光景まで映し出される。
子供達に夢を育ませるはずの大リーガーが道徳感のない行動をしている訳だが、文化の違うお国柄か平然とTVに映し出される。
そんな中、大谷選手がゴミを拾いポケットに入れる光景が映し出されてアナウンサーが褒めるが、日本人なら当たり前の行動だと思う。
アメリカでは、ゴミをポイ捨てしても拾わないのが日常のようだが、日本人ならポイ捨てしないのが基本で拾うのが当たり前だと思うしだい。

と言うことで、日本人はゴミをポイ捨てしないと言いたいが、道路の草むらや側溝に空き缶、レジ袋に入ったゴミ、タバコの吸い殻などがポイ捨てされているのを見かける。
ここは日本だが、生活が豊かになり人の迷惑を考えない輩が増えたかな?
これ、廃棄物処理法違反で、いわゆる不法投棄。
こういうことを平気で行う人は、きっと人格のポイ捨てをしている人。
「あなたが捨てたそのゴミを、誰かが拾い片付けています・・」と言うことを知る筈もなく、ゴミと人格をポイ捨てする人は、もう一度、道徳の勉強からやり直しした方が良いかな。

道路のゴミといえば、昨今は4時間走ったら休むと言う国のルールなどから、トラックドライバーが渋滞時などにペットボトルにオシッコをしてポイ捨てすることが増えているらしい。
ドライバーの諸事情は色々あれど、ポイ捨てせずに持ち帰って正しく処理するだけなのになあ〜

確かに、道路脇に飲みかけのお茶のようなペットボトルが落ちているのをちょくちょくみることが増えた。
あれはオシッコか・・・・?
他人の人格捨てた汚物、拾いたくないですね。






 

百聞は一見にしかず


英語では、Seeing is believing と言うらしい。


意味は・・

他人から何度聞いたところで、実際に自分の目で見る等体験して事実を知るという方法には及ばない。


要は、狭い視野からの解脱、視野を広く持つことである。


+×+×+  ➕  +×+×+  


便利なご時世だが、ネットでササッと調べたり、人の話しを鵜呑みにして知ったフリするのではなく、現場へ出向き見て聴いて、しっかり確認して真実を肌で感じとることが大事。

これをやらないと知見の引き出しは増えないので、井の中の蛙のままである。

生涯その修行だが、世間では出来ない人が多い。


現地現物を当たり前に確認し、物事を判断出来る人になりたいものだ。


久しぶりの今日の読本