次は、一人の女性の人生と私を含む救命センターの看護師との関わりについて記載します。


【2】A氏とその家族への看護

A氏は30代後半の女性。神戸市で被災しました。

自宅は倒壊し、クラッシュシンドロームで搬送され、1月18日未明救命センターのECU(Emergency and Clitical care Unit)に入院となりました。

夫と長女、生後数ヶ月の長男の4人暮らしでしたが、長男が死亡しました。

夫と長女は親戚の家で避難生活を送ることになりました。

到着時、意識は清明でしたが開眼不可能なほどに顔面全体が腫腫し、弱々い声しか出せませんでした。

「家族はどうなったの?」という質問がありましたが、母親が「みんな病院で手当てを受けているから大丈夫」と説明すると、安心した表情をして眠りました。

翌日、無尿の状態が続き利尿剤にも反応しないため、人工透析が開始となりました。

また、呼吸状態も悪化し気管内挿管を行うために鎮静剤が投与され、人工呼吸器装着となりました。

全身が腫腫して減張切開が行われるなど、毎日濃厚な治療が続けられました。

添い寝していた長男は悲しいことに即死だったそうですが、「状態が安定するまでは伝えないで下さい」という家族からの強い希望がありました。

そのため医師と看護師によるカンファレンスを行い、もしA氏から質問があった場合は治療中であると伝えることを統一しました。

鎮静により意識が無い間、家族はA氏の夫や両親、弟など、毎日誰かが院内で待機し、面会時間には必ず来てA氏の手を握りながら耳元で「頑張って」と励ましました。

そこで、看護師間で家族に少しでも面会に来ることの意義を感じてもらおうと話し合い、面会時に触れてもよい部分のリハビリや皮膚のケアを指導することにしました。

指導を受けると家族は熱心にリハビリやマッサージを行い、ローションを塗るなどしながらA氏を励まし続けました。

それに対してA氏は看護師が援助をするときとは違い、声のする方に顔を向けようとしたり、手を握ろうと動かしたりして家族の面会を認識しているような反応を示しました。

その様子を見て家族はそれまでにも増して熱心に援助を行いました。

 入院14日目に人工呼吸器の離脱の目的で徐々に鎮静の薬剤が減量されました。

A氏は抜管されてすぐ長男の名前を呼んだり「ベッドの頭元に子供がいる」と話しました。

夜間もうとうとしながら手招きをするため「どうしましたか」と看護師が尋ねると「子供を呼んでいたの」と答えました。

このことから告知の準備が早急に必要と考えられ、担当医より精神科医師の診察を依頼し、いつ、誰が、どのように事実を告げるのかということを何度も話し合いました。

A氏は家族に対して子供のことを口にすることが多くなりましたが、看護師には訴えず、「頑張らないと」と言いながらリハビリに励みました。

しかし不眠を訴える日が増え、眠剤を使用しても眠れない夜が続きました。

看護師間では度々カンファレンスを行い、告知したときの精神的ケアの指導や、ショックによる重篤な精神症状が現れたときの対処のために、精神科の医師に指導してもらいました。

けれどA氏はまだ人工透析を継続中で、外傷も多かったことから離床がなかなか進んでおらず、身体の状態から考えると精神的な打撃から全身状態が悪化してしまう恐れもあるため、適切な時期がいつなのか、判断が難しい状況でした。

告知の時期が決定するまでの間、看護師間では子供についての話をされても否定せず傾聴することにしていました。またECUでは面会時間に制限があったため、家族との時間をゆっくり過せるようにECU内の個室へ転室しました。

しかし私は、A氏と家族の間でその話が持ち上がったときに、どのように話せばよいかわからず、家族が来られたときは同席せずにそっと見守っていました。

保清などの援助中にも、ふと子供のことを聞かれたらどうしようと思い、事実を知ったときにA氏がどのような反応を示すのかと考えただけでとても緊張しました。

時折笑顔で対応しながらもあえて地震の話はせず、また、室内に長居することもありませんでした。

A氏は看護師には何も聞いてこなかったけれど、家族には「子供はどうしているの」と聞く回数が増えていきました。

また、日中はリハビリに励むが夕方になると「リハビリの先生が来てくれる時間が短いけど、本当にこれで良くなるのかしら」という訴えがあり、看護師が「少しずつ運動量が増やされていくので、焦らずにいきましょう」となだめると、「そうですね」と答えました。

しかし一人になると表情が暗くなり、一点を凝視することが増え、引きこもりがちとなっていきました。
そのため家族からいつまでも隠し続けることが辛いという訴えがあり、再度夫も交えて話し合いを行いました。

そして精神科医から、A氏の精神状態からも告知の時期であることと、告知後も、精神科医師が介入していくことが伝えられました。看護師サイドからも、家族やA氏に積極的に支援するという意思を伝えました。

被災より22日目、夫から長男が死亡したことが伝えられました。
A氏は取り乱すこともなく、ただ黙って泣いていました。

面会後も看護師がそばに行くと「大丈夫です」と答え、長男について話をしてくることもありませんでしたが、夜間は眠れずにいました。
夫からは「いつかは言わなければいけないことだったので、踏ん切りがつきました」という言葉が聴かれました。

その2日後(24日目)、長女が面会に連れて来られました。
長女は初め、目の前にいるA氏が母親だということがわからなかったようで、祖母の膝に顔をうずめたり、夫にしがみついたりしていました。
しかし夫がベッドに上がらせると、A氏はそっと抱きしめ名前を呼びました。
そして涙ぐみながら「早く帰れるように頑張るからね」と話しかけました。
すると、「ママ?」と、小さな声で言いながらA氏の顔を見つめたあと、嬉しそうに胸の中に頬をうずめました。

そのとき私は母子間の絆の強さに深い感慨を覚え、涙がこぼれるのを隠すことで精一杯になり、少し離れたところからその様子を見守っていました。

A氏は面会後「看護婦さん達は、私のことを思って黙って見守ってくれていたんですね。今は辛いけど、残った娘のためにも元気にならないと」と、看護師達に向けて話しました。

 その夜、私はA氏にとって、今は気持ちの整理の時間が必要な時期であろうと考え、震災の経験に関してはこちらからは聞かず、どんなものが食べやすくて美味しいと話をしたり、どんな姿勢だったらよく眠れるかと、A氏といろんな格好をして笑いながら時間を過ごしました。

A氏は私に「家が無くなってしまったから、退院したらどんな生活になるのかな」「この身体はどれくらい良くなるのかな。顔や身体の傷は治るのかな」という不安を表出しましたが、「娘に会えて本当に嬉しかった」と話したあと、短時間であったが久しぶりに眠りにつきました。

 しかしその後もA氏の不眠は続き、眠剤の量を増やして欲しいと希望してきました。
看護師は長男の話になったときは否定せずに傾聴し、故意に励まさないように気をつけました。

A氏は一度も感情的になることはありませんでしたが、家族には災害の状況や被災者の生活について問いかけ、情報を得ていました。

告知より5日後(27日目)、「長男の顔が思い出せないので早く家に帰って写真を見たい」と訴えました。

翌日母親が家族写真を持参すると、黙って涙を流しました。
そして写真を見た3日後(30日目)に「長男が私達を助けてくれた。私達よりもっと大変な人がいるから」と涙ぐみました。

その後A氏は家族に、本当は初めから長男は亡くなったと思っていたことを話しました。

倒壊した家屋の下で、長女の泣き声は聞こえていたけれど、そばにいた長男の声は最初から聞こえず、かすかに触れた身体が冷たかったのを覚えていたのです。

しかしその後の入院治療でA氏は意識を失い、震災の事実も心のどこかで悪夢であって欲しいと願い続けていたのでした。

数日後、A氏は一般病棟へ転室したのち、無事に退院しました。

退院後、A氏がどのような生活を送ったのかは、離れた土地の後方支援病院に居る私達には情報が入りません。

けれどそれから数ヵ月後、A氏は震災で負った創傷も回復して、他の家族を失った女性とともに、見違えるような笑顔で救命センターに顔を出してくれました。

2か月ほど経って、震災で被災した入院患者さんの状態が落ち着き、退院し始めた頃、救命センターの看護師のほぼ全員が順番に高熱を出して数日休暇を取りました。


【3】A氏との関わりを通して思うこと

震災という予期せぬ出来事に対し、人は何かしらの受容の過程を経てそれを受け入れ、または乗り越えることが出来ると、一般的な理論では言われています。

A氏は自らも被災し、生命の危険な状況におかれたうえ、乳児を亡くすという不幸に見舞われました。

しかし他の被災者と違い、泣くことも取り乱すこともなく、懸命に生きるための努力を続けました。

何も聞こうとしなかったけれど、誰もが子供のことを口にしないことから、自然と状況を悟り、そうすることで気持ちの整理をしようとしていたのかも知れません。

しかし、それを単に自己解決を行えたとして受け止めず、被災者がどのような状況で生きているのかを、看護師は心身の両側面から観察し、傾聴し、援助しなければならないと思います。

また幼い女児は、忽然と目の前から消え、そして変わり果てた姿で再会した母親の存在を、どのように受け止めていたのでしょうか。

少なくとも、女児が母親の温もりを思い出し、愛情を示したことが、母親に乳児の死を受け入れさせる一つの力になったであろうということが考えられます。

共に被災しながらも、それを支え続けた家族も、死の告知をするにあたって大変苦しんだと思います。
けれどあの頃の私には、家族看護や支援というところまで考えは及びませんでした。
時間と業務に流されるだけで精一杯だったと思います。

今でこそ災害看護という分野が独立し、看護教育にも防災意識や危機状態への対応が一般的な知識として普及されています
が、あの頃は‘まさか関西が’、という気持ちで、‘目の前にある命を救わなければいけない’ということ以外、何一つ思いつきませんでした。

そんななかで数々の悲惨な状況を目の前にし、この突然の災害をスタッフの一人一人も、時間をかけて何かのかたちで受け止め、乗り越えようとしていたのだと思います。

あれから数年の後、私も家庭を持ち、母親の気持ちを知りました。
すると、改めてA氏の苦しみや切なさが胸に響いてきたのです。
そして思い出す度に、同じ母として、女性としての尊敬の意が込み上げました。

震災の経験は、今でもその後の10年以上の月日を飛び越えて、鮮明に私の心に刻み込まれています。悲惨な状況に直面した支援者も、また一人の被災者なのだと思います。

しかしあの経験があったからこそ、家族支援など看護の様々なものの重要性が見えるようになりました。
けれど、どのような理論を用いて分析したところで、明確な答えは出せないままでいます。

人として、看護師として、今後も災害時には被災者と関わっていくことになるだろうと思いますが、
私はこの経験を通して感じたことを忘れずに、少しでも意味のある支援を行えるようになりたいと思っています。


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(あとがき)

これは東日本大震災が起こる前に記載した文章です。

あのような大災害が再び起こった今、私はまた再び計り知れない無力感を感じ、心中が穏やかでないこと、直接支援に行けないことがどれ程もどかしいかということを、少しは解って頂けるでしょうか。

阪神淡路大震災での経験は、支援を行った看護師達の心の中にも、まだはっきりと生き続けているのです。

震災により犠牲になられた方々のご冥福を心からお祈りするとともに、今後も私に出来る限りの支援を続けさせていただくことを心から誓います。


























(はじめに)

11月11日、東日本大震災から8ヶ月の月日が経ちました。

冬を目の前にして、未だ先行きの見えぬ復興や原発の行く末に、苛立ちや不安を隠しきれませんが、 

今日は私が経験した阪神淡路大震災での経験をここに記載しておこうと思います。


かなり前になりますが、書きとどめておいた文章をここに転記して記憶に残しておきたいと思います。

この文章の中の一部は理論を用いて分析し、論文として発表しています。

最初にお断りしますが、これはあくまでも 後方支援病院で勤務した看護師の視点からの記載です。

辛い思い出のある方は、読むか否か、ご自身の判断でお願いします。

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【No.1】地震発生

1995年1月17日の早朝5時46分、大阪市内の古い看護師寮で偶然目覚めた私は、今までに聞いたことの無い、深い地の底から響いてくるような地鳴りを耳にしました。

その直後に大きな長い揺れを感じました。

これが6400名余りの犠牲者を出した、阪神・淡路大震災(M7.2)の揺れであるとは知るよしもありませんでした。

すぐにガスの元栓が閉じているかを確認してTVを付けましたが、何の情報も出て来ません。 

しばらくして関西地域に地震が起こったという放送があったけれど、詳細が何もわからないままでした。

私の部屋は大阪市内にも関わらず、酷い損傷を受けました。部屋のものは落ちたり倒れたり。洗面台は2つに大きく割れてしまって、天井はど真ん中に縦に筋が入ってしまいました。

 しかし当時は救命救急センターに勤務していたこともあって、病院も大変なことになっているかも知れないと思い、交通機関が全てストップするなか、自転車で50分かけて職場に駆けつけました。

職場の状況は思ったより落ち着いていました。スタッフは私を見て、みな一様に「どうやって来たの?」と驚いた顔をしていました。

そのうち沢山の負傷者が運ばれてくるかも知れないということで、病院ではすぐに状態の安定している患者に事情を説明して転院してもらい、救命救急センターやICUなどの重症病棟の患者は全て一般病棟へ転棟し、患者搬送の連絡を待つこととなりました。


昼休みに休憩室に入った私は、TVに映し出されている映像に目を疑いました。
まるで空襲にあった町のような映像が映し出されていました。 

「神戸が燃えてるのよ。」と、上司が言いました。足が震えました。そして、これはただ事ではないと、恐怖心でいっぱいになりました。 

しかし、待てど暮らせど近所の住人が3名ほど軽症で手当てを受けに来た以外は、

何の確かな連絡もないまま、現地の詳細な情報もわからず、ただただ受け入れ準備が整っているか、確認を続けました。

 午後5時40分、大阪市消防局の救急車が市立芦屋病院から患者を搬送してきて、そこに添乗していた医師による情報から初めて被害の莫大さが明確になりました。

 それにより、病院側は行政の要請を待たずに搬入してきた救急車に医師を同乗させて現地へ出動し、そこからピストン搬送が始まりました。

‘これから一気に被災地の人が運ばれてくるかも知れないな’

そう思った時、災害を経験するのは初めてだった私は、また不安になりました。

「次に大きな余震が来た時、どうしたらいいですか?」と思わず主任に尋ねました。

主任は「そんなの、来てみないとわからないでしょ!」と即答。誰もが緊張感で一杯でした。 

 その日は深夜帯も勤務だったのですが、余震のため殆ど仮眠がとれず、ろくに休憩をしないまま病棟に戻りました。交替時間の頃にはもう救急外来は次々と運ばれる被災者の方の対応でパニック状態になっていました。

倒壊した家屋から救出された被災者は、全身真っ黒に汚れ、氏名も言えない状態の人が多く、足の裏にマジックで番号が記入されていました。

 確か1月24日の昼頃、ホワイトボードには、120(入院93)名と記入されていたのを記憶していますが、1月18日の時点で院内は満床状態となっていました。

1人でも多くの被災者を受け入れるため、救命センターのECUもベッドを端に寄せて非常用の人工呼吸器をセッティングして、増床しました。

カーテンをそっと開けて窓の外を見ると、真っ暗ななかにたくさんの救急車が病院を取り囲むように列を成している灯りが見えました。一台過ぎるとまた一台…と、その列に終わりは見えませんでした。その時の光景は、今も瞳の奥に焼き付いて離れなません。 

 待合や廊下は次第に負傷した被災者の家族の方々であふれ返り、みな一様に凍りついたような表情をして震えていました。

家族の多くも自宅を失った被災者であったため、その数は増え続けたのです。

このとき私は見るに堪えず、自分の判断で病棟内に保管してある毛布を家族の人たちに配布しましたた。

その後管理の師長に「病院の私物です!すぐ回収するように!」と叱られたましたが、TV局が取材に来るという連絡があった途端、今度は「早く配りなさい!」と怒鳴られ、思い切り睨み返したのを覚えています。

病院の私物って何だ?今は何十年に一度の災害が来て、公立病院であり、後方支援の拠点となっているこの病院は、被災者全ての方々の救護・支援に当たらなければいけないんじゃないのか?

しかし、腹を立てている暇はありません。

家族の人達を暖かい部屋へ誘導して毛布を配ると、すぐにもう一度救命センターの方へ走って行きました。

救急外来では応援に来た看護部の師長達がスタッフの仕事の邪魔になってテンヤワンヤしていました。

物の位置が分からないので、いちいち呼び止めるのです。そして、他にも何人も受け持ちを持っている看護師に自分の受け持ちの準備を命令するのです。またディスポ製品とそうでないものの見分けがつかず、貴重な器具をポンポンゴミ箱に捨ててしまう。これには救急外来のスタッフの堪忍袋の緒が切れて普段なら上司に逆らわないような子が、「もう解らないなら触らないでください!」と怒っていました。

初めての後方支援の経験で、みんな緊張し、完全にキャパシティを超える受け持ちを担当しながらも、必死で救命しようと一晩中走り回って頑張りました。

私は病棟リーダーでしたが、ECU(救急集中治療室)を担当していたので、救急外来を手伝ったり、ECUの患者を見たりと全体の様子を把握しながら看護にあたりました。

朝の5時頃になると、後輩の一人が「もう無理です!」と机の上にうずくまりましたが、「バカ!今やらないでどうすんの!」と叱ってベッドに向かわせました。

彼も精一杯だったのは解りますが、この病院へはいわゆる『黄色札』と現地で判定された人達が搬送されてきたため、何としても助けたい思いで一杯でした。

 悪夢のような一夜を超えて、翌日の昼頃まで私は他のスタッフとともに無我夢中で働きました。

人生で初めての経験に大きな戸惑いを感じながらも、ただ走り回る以外ありませんでした。

 精神的にも落ち着かないまま、次の日また準夜勤務のために出勤すると、昨夜搬送された人達は、みな一様にクラッシュシンドロームによる腎不全を起こしており、人工呼吸器と透析の機械がフル回転し、病棟内は更に騒然とした状況になっていました。

 師長は震災発生直後から病院に駆けつけ、幼い娘2人を残して自宅へ帰らないまま夜も眠らずに指揮を執り続けていました。

 通常なら高熱や盲腸で短期入院する患者もいる救命センターが、全員重症または重体の患者で満床となっていました。

救命センターの病室では、いつもは患者の意識レベルの回復を願ってラジオを流しているのですが、

被災者の方が地震の情報を耳にして不安になるのを避けるために、穏やかなクラッシックが不自然に流されていました。

震災から少し経過した頃のECUにて。

救急医療ジャーナル JUNE 1995 Vol.3