2014年7/13(日)加筆修正
藤子・F・不二雄は最も好きな漫画家と言っていいほど好きだ。
ドラえもんは藤子・F・不二雄(以下藤本)にとって代表作ではあるけれど作品のひとつにすぎない。
藤本先生の真骨頂はSF短編作品にある。
いまさら、ドヤ顔で語ることでもないだろう。
「ミノタウロスの皿」「カンビュセスの籤」「老年期の終わり」「ノスタル爺」
数え上げればきりがないけれど「老年期の終わり」などは100編以上はあるだろうSF短編の中でも極めて強い印象を残す作品だ。
ドラえもん1話分程度のページ数で、これほどの印象深い作品を作ることができるF氏は真の天才。相方の藤子不二雄A(安孫子素雄)はもちろん、「手塚を超えている」と評するファンも多い。
異色短編やドラえもんの作品の一部から、F先生の、狂気が見えてしまうことがある。
「アチタが見える」という作品があることを知っているだろうか。
先日、友人と図書館に行って、SF短編パーフェクト版を手に取るまで、存在さえ知らなかった。
手にとった時、少しぱらぱらとめくって見た限りでは、「未来が見える子供の話」
という印象しかなく、藤本作品でもよく扱われているテーマ(ポストの中の明日など)なので、
それほど期待もしていなかった。
ただ、まだ読んでいない未収録作品が収録されていることに興味をいだいて、借りた。
調べてみると、「アチタが見える」は正真正銘の「幻の作品」であった。
「藤子・F・不二雄SF短編」はこれまでに何度も何度も、中央公論社をはじめとして文庫や全集としてまとめられているが、いくつかの数少ない作品(ボノム~底抜けさんなど)はそれらのSF短編文庫・全集には未収録のままだった。
何度も何度も「SF短編全作品」としてまとめられているにもかかわらず、「アチタが見える」を含めた数本が、2000年代になるまでほとんどお蔵入りになっている。
だから、2013年、ふと図書館で手にしたパーフェクト版を読むまでは存在さえ知ることがなかった。
一読して、これまでに感じたことのないような恐ろしさを感じていた。
「うわ、怖かった」ではない。
不気味な恐怖に囚われている。間違いなく継続して。
おいおい、こんな…、どう解釈しろというんだ!
藤本作品にはそういう作品は数多くある。
けれど、「この作品は、ヤバい」そういう恐ろしさ、ただ、ただ、不気味な内容…。
藤本のSF短編は「異色」と呼ばれているが、異色作品どころではない。
これは「異常」だ。SF短篇集の中でも異常過ぎる。それほどの恐怖。
恐怖、という言葉も生ぬるいほどの不気味さ。
衝撃度は、全異色SF短編の中で言うなら
「老年期の終り」「ノスタル爺」等と比べても、遜色ない。
ただ、その性質は、「不気味」かつ「異常な恐怖」。
こればかりは、読まなければわからないだろう。
最後のコマなどは、「一部で人気」と言われているらしい。
それもわかる。
たぶん、「言うほど怖いかな」という人もいると思う。それは想像力によると思う。
もっと言うなら、考えがネガティブな方向に向かいがちな、疲れている時に読めば十二分に恐ろしさを味わうだろう。
いくらここで「これは凄い話だ」と語ったところで、それは読まなければ実際に体験することはできない。手に取らなければ。
しかし手に取る人は少ないだろう。読まなければわからないのだから。
この幻の作品を偶然手にとった者だけが、まさにこの幻の作品を体感することができる。
実際、ほとんどの藤本SF短篇集を読み尽くしていたと思っていたトウマにとっては、この作品の存在を知ったということは、未公開の完全な新作を手にしたような。それほどのレベルの高い作品だと思う。
内容について「ゾッとする」。あの一コマ。
読者の想像力があればあるほど、恐怖感は増幅する。
「このオチは、どういう意味なのですか」とネットに書き込んでいる人が多いが、
全くナンセンスだ。野暮な話。
読んでいて、普通に気味が悪い。「あなた死ぬよ」的な指摘をされた男が、家にこもるようになり、心配した同僚が訪れる場面。彼の不安が、髭だとか、ちょっとした描写でわかるのが怖い。
なぜ、この作品が後年にわたって収録を避けられ続けていたのだろう。
単に、「アチタが見える」自体のあまりの不気味さ、が原因なのではないだろうか。
もう、これは「SF短編」のジャンルを超えて、「不気味な恐怖作品」としての性質が強すぎると…。
ある意味、オチで読者に解釈を丸投げしているんだ。
それはひとつのストーリーとして考えると一つの破綻と言えるかもしれない。
ボノム~底抜けさんは、パッとしない地味な作品で、つまらないから除かれたと考えても矛盾はないと思う。
最後の1コマはすべてが崩壊していく象徴でしかない。
もう、コマの、効果線だとか演出が、おかしい。もちろん、「あのセリフ」は完全なトラウマだ。
「アチタが見える」は「カンビュセスの籤」「ミノタウロスの皿」と並ぶ代表作となりうるほどの
強インパクト、質の高い作品だ。だが、いわゆる「放送禁止」とされうるようなトラウマ性、
それも相当なレベルのトラウマを抱きかねない作品だ。
まだ見たことのない、知らなかった、という人も多いだろう。
藤本先生は「未来が見える」という、ありきたりなテーマを使い、完全に「恐怖」というベクトルに完全に向けてこの作品を仕上げてしまった。
「藤子・F・不二雄が、ガチでホラーを描いたらどうなるか」それが、アチタが見えるだと捉えている。
藤本作品ファンにとっては、幻の作品が残されていることは幸せだ。
心して、振れるべき作品だと思う。あっ、違う!触れるべき、作品だと思う。
今ならば、藤子・F・不二雄全集が刊行中で、SF短編に掲載されていることだろう。
努々読み残しのないように。
藤子・F・不二雄は最も好きな漫画家と言っていいほど好きだ。
ドラえもんは藤子・F・不二雄(以下藤本)にとって代表作ではあるけれど作品のひとつにすぎない。
藤本先生の真骨頂はSF短編作品にある。
いまさら、ドヤ顔で語ることでもないだろう。
「ミノタウロスの皿」「カンビュセスの籤」「老年期の終わり」「ノスタル爺」
数え上げればきりがないけれど「老年期の終わり」などは100編以上はあるだろうSF短編の中でも極めて強い印象を残す作品だ。
ドラえもん1話分程度のページ数で、これほどの印象深い作品を作ることができるF氏は真の天才。相方の藤子不二雄A(安孫子素雄)はもちろん、「手塚を超えている」と評するファンも多い。
異色短編やドラえもんの作品の一部から、F先生の、狂気が見えてしまうことがある。
「アチタが見える」という作品があることを知っているだろうか。
先日、友人と図書館に行って、SF短編パーフェクト版を手に取るまで、存在さえ知らなかった。
手にとった時、少しぱらぱらとめくって見た限りでは、「未来が見える子供の話」
という印象しかなく、藤本作品でもよく扱われているテーマ(ポストの中の明日など)なので、
それほど期待もしていなかった。
ただ、まだ読んでいない未収録作品が収録されていることに興味をいだいて、借りた。
調べてみると、「アチタが見える」は正真正銘の「幻の作品」であった。
「藤子・F・不二雄SF短編」はこれまでに何度も何度も、中央公論社をはじめとして文庫や全集としてまとめられているが、いくつかの数少ない作品(ボノム~底抜けさんなど)はそれらのSF短編文庫・全集には未収録のままだった。
何度も何度も「SF短編全作品」としてまとめられているにもかかわらず、「アチタが見える」を含めた数本が、2000年代になるまでほとんどお蔵入りになっている。
だから、2013年、ふと図書館で手にしたパーフェクト版を読むまでは存在さえ知ることがなかった。
一読して、これまでに感じたことのないような恐ろしさを感じていた。
「うわ、怖かった」ではない。
不気味な恐怖に囚われている。間違いなく継続して。
おいおい、こんな…、どう解釈しろというんだ!
藤本作品にはそういう作品は数多くある。
けれど、「この作品は、ヤバい」そういう恐ろしさ、ただ、ただ、不気味な内容…。
藤本のSF短編は「異色」と呼ばれているが、異色作品どころではない。
これは「異常」だ。SF短篇集の中でも異常過ぎる。それほどの恐怖。
恐怖、という言葉も生ぬるいほどの不気味さ。
衝撃度は、全異色SF短編の中で言うなら
「老年期の終り」「ノスタル爺」等と比べても、遜色ない。
ただ、その性質は、「不気味」かつ「異常な恐怖」。
こればかりは、読まなければわからないだろう。
最後のコマなどは、「一部で人気」と言われているらしい。
それもわかる。
たぶん、「言うほど怖いかな」という人もいると思う。それは想像力によると思う。
もっと言うなら、考えがネガティブな方向に向かいがちな、疲れている時に読めば十二分に恐ろしさを味わうだろう。
いくらここで「これは凄い話だ」と語ったところで、それは読まなければ実際に体験することはできない。手に取らなければ。
しかし手に取る人は少ないだろう。読まなければわからないのだから。
この幻の作品を偶然手にとった者だけが、まさにこの幻の作品を体感することができる。
実際、ほとんどの藤本SF短篇集を読み尽くしていたと思っていたトウマにとっては、この作品の存在を知ったということは、未公開の完全な新作を手にしたような。それほどのレベルの高い作品だと思う。
内容について「ゾッとする」。あの一コマ。
読者の想像力があればあるほど、恐怖感は増幅する。
「このオチは、どういう意味なのですか」とネットに書き込んでいる人が多いが、
全くナンセンスだ。野暮な話。
読んでいて、普通に気味が悪い。「あなた死ぬよ」的な指摘をされた男が、家にこもるようになり、心配した同僚が訪れる場面。彼の不安が、髭だとか、ちょっとした描写でわかるのが怖い。
なぜ、この作品が後年にわたって収録を避けられ続けていたのだろう。
単に、「アチタが見える」自体のあまりの不気味さ、が原因なのではないだろうか。
もう、これは「SF短編」のジャンルを超えて、「不気味な恐怖作品」としての性質が強すぎると…。
ある意味、オチで読者に解釈を丸投げしているんだ。
それはひとつのストーリーとして考えると一つの破綻と言えるかもしれない。
ボノム~底抜けさんは、パッとしない地味な作品で、つまらないから除かれたと考えても矛盾はないと思う。
最後の1コマはすべてが崩壊していく象徴でしかない。
もう、コマの、効果線だとか演出が、おかしい。もちろん、「あのセリフ」は完全なトラウマだ。
「アチタが見える」は「カンビュセスの籤」「ミノタウロスの皿」と並ぶ代表作となりうるほどの
強インパクト、質の高い作品だ。だが、いわゆる「放送禁止」とされうるようなトラウマ性、
それも相当なレベルのトラウマを抱きかねない作品だ。
まだ見たことのない、知らなかった、という人も多いだろう。
藤本先生は「未来が見える」という、ありきたりなテーマを使い、完全に「恐怖」というベクトルに完全に向けてこの作品を仕上げてしまった。
「藤子・F・不二雄が、ガチでホラーを描いたらどうなるか」それが、アチタが見えるだと捉えている。
藤本作品ファンにとっては、幻の作品が残されていることは幸せだ。
心して、振れるべき作品だと思う。あっ、違う!触れるべき、作品だと思う。
今ならば、藤子・F・不二雄全集が刊行中で、SF短編に掲載されていることだろう。
努々読み残しのないように。