今朝になり

頼朝として

父、義朝や
母、由良御前
もうひとりの母、常盤御前の声を聴き

その想いに 
涙していた私


おかげさまで

今観えている
今後の御神事の真意が

はっきりと観えて来ました

 
私がなかなか気づけずにいたところに
 
魂の娘である菊理媛が
父と母の想いに気づかせてくれました

ハートありがとうございますハート



 はじめに

 平安時代後期から鎌倉時代に神奈川県相模原に住んだ御家人、矢部氏、田名氏などに関連する御家人を番外編としてご紹介します。

 横山党

 横山党を率いるのは横山氏で、豪族「小野氏」(近江国小野村)(現在の大津市)の小野篁から数えて9代目後裔とされる横山義隆が、現在の八王子の「横山庄(別名:舟木田庄)」にやってきたと一般的には考えられています。別の呼び方では、横山党小野氏と呼ばれる場合もあります。
 小野氏と言えば、天皇家ともゆかりがある名家で、下記の3人を輩出した事でも有名です。

  日本書紀にも出てくる外交官・遣隋使(607年)で有名な飛鳥時代の小野妹子(男性です)
  絶世の美女として知られる女流歌人・小野小町(803年?~901年?)
  書道の神として知られる小野道風(894年~996年)

 小野氏が現在の八王子を治めることになったのは、中央(京)からやってきた役人(官僚)であったと容易に推測できますが、横山氏の祖先が小野氏と言う事には疑問を唱える説もあり、もともと現在の八王子を支配していた豪族が、なんらかの理由があり先祖は小野氏であると称したことも考えられます。

 小野氏は、陽成院領の小野牧を国家が直営する勅旨牧にした際に、中央(京)より散位小野諸興が別当(この当時「別当」は馬の牧場を管理すると言う意味)として、現在の八王子市南大沢一帯?で「小野牧」と言う馬の生産地に赴任してきたとされ、その後、近くであった横山庄(八王子市)に移り住んだ言う説があります。

 小野牧は、八王子と鎌倉をつなぐ道「御殿峠」の麓にあたり、現在の南大沢周辺とする説もありますが、小生は相模原市の城山町にある小野地域だと考えています。
 八王子市由井町から上柚木・下柚木にかけて は「由比牧」、八王子石川には「石川牧」がありました。
 小野牧は、相模原市城山町の小野だとするのが、小生の説であります。小野牧の規模は由比牧の2倍ともされ、1000頭以上の馬を飼育していたようです。
 後年小山田氏が町田市小山田で別当に就任していることから、鎌倉初期には八王子市・多摩市・町田市とまたがる広大な面積に広がっていたとも考えられます。
 実際、町田市小野路町にある小野神社は小野篁を祀った神社で、972年頃に武蔵の国司として赴任した小野孝泰による建立とされます。小野路も小野氏の勢力下だったことがわかります。
 八王子市由井町から上柚木・下柚木にかけて は「由比牧」と小野牧と区別する説もあります。 
 なお、馬を飼う一族は、当然ながら馬術に秀でた者だったと考えられ、後に横山党が源平合戦で騎馬武者として活躍したり、戦国時代小山田氏が武田軍最強と言われるのも、納得できます。

 そして、小野から更に広域を支配するようになり、総じて「横山庄」と呼んだと小生は考えております。
 横山庄を開発したのは、1150年と言う説もありますが、米生産はそれ以前からおこなっていたと考えるのが普通であり、その説には確証がないように思えます。

 939年、平将門の乱。別当小野諸興は「軍」として借り出されることになり、武蔵権介兼横領使に任命されます。この頃舟木田荘(横山荘)に移り住んだと考えら、以後は武士団として軍事力を高め、土地支配を進め土着する形となります。

 ハッキリと横山党に関する記述が最初にあるのは1051年です。
 1051年横山氏は源頼義に従って前九年の役(ぜんくねんのえき)と言う、東北地方でおきた安部氏の反乱にも出陣し、源氏と関係が深い関東の有力豪族である畠山氏に従属していたとも言われています。
 1079年8月10日には、支配地拡大の為、相模国に進出したい横山党と、逆に武蔵国へ北上したい鎌倉党が衝突。相模国住人・鎌倉為季(鎌倉権大夫為季)は、横山党に属する中村氏の押領使・中村景平(押領使景平)を合戦の末、首を取ります。これに「景平一族」は数千の軍勢にて鎌倉季為を攻め討ち取ったとあります。
 当時、武蔵国や相模国には群盗が群れていて、各郷ごとに群盗を鎮圧するための押領使が置かれていました。

 1113年3月4日、横山隆兼(山口隆兼)の頃とされていますが、横山党の20余人が、相模国愛甲庄を統治していた愛甲内記平大夫を殺害した事により、朝廷より討伐の宣旨が、相模・常陸・上野・下総・上総五カ国の国司に出され、秩父重綱(秩父権守重綱)、三浦為次(三浦平太為次)、鎌倉景政(鎌倉権五郎景政)ら中央政府軍より、槙山党は討伐を受ける。しかし、横山党は3年間も抵抗。そして、横山隆兼は源為義の被官でもあり、その保護の下に危機を脱し、愛甲氏は横山党に降伏。横山季隆が愛甲庄に入って愛甲三郎と名乗った。原因は横山庄(舟木田荘)をめぐる主権争いとされています。
 横山隆兼はさらに相模の海老名・波多野氏に娘を嫁がせ、相模国へ横山党が本格的に進出。また別の娘は秩父平氏・秩父重弘の妻となり、のち有力御家人となった畠山重能・小山田有重を産む。末娘は鎌倉党の梶原景時の母。さらに二人の孫娘は三浦一族の和田義盛と、高座の渋谷高重の妻となり、姻戚関係を結ぶことにより、槙山党一族は勢力の拡大を図りました。

 1156年保元の乱では、源義朝軍として横山党から中条新五、中条新六、成田太郎成綱、箱田次郎、新田次郎、河上三郎、別府行雄、奈良三郎、玉井資重、藍原太郎、海老名源八季貞、波多野小次郎義通が出陣しています。

 1184年、源平合戦で有名な一の谷・鵯越(ひよどりごえ)の合戦では、横山氏などが活躍したと「平家物語」にも記述があります。馬術にすぐれていたからでしょう。
 この頃の横山党など武蔵国の御家人7党を総じて「武蔵七党」と称し、横山党は武蔵七党で最大の勢力です。
 
 1192年、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、横山党の横山時広はそれまでの軍功により横山庄の所領を安堵されます。
 その横山党も鎌倉時代の和田合戦(1213年)で多くが討死し、横山党は領地没収となり滅んだ為、資料などはあまり残されておらず、不明な点が多いのも事実ですが、和田合戦なくして横山党は語れませんので、和田合戦について別のページにて出来る限り詳細を記述しています。

 横山党の一員だった地頭(相模原以外も含む)

 横山、椚田、海老名、藍原(相原、粟飯原)、平子、山崎、鳴瀬(成瀬)、古郡、野部(矢部)、小倉、田名、由木、室伏、大串、千与宇、伊平、樫井、古市、田屋、八国府、山口、愛甲、菅生、小子、平山、石川、古沢、小野、古庄、中村、大貫、田屋、小沢、小俣、多岐(田儀)、野沢、小俣、小補摩、吉野、小野、 海老名、本間、河原田(石田)、荻野など

 横山党の祖である小野氏の本拠は、相模原市城山町の小野であると言うのが小生の説です。
 小倉氏は、小倉橋付近に勢力を持っていたのかも知れません。
 山崎氏は、矢部氏の子孫で町田市山崎が本拠地だった可能性が高いです。

 相模原近辺には、武士に関するものだったと考えられる「地名」が何件か現在でも使われています。

 「矢懸」 矢懸(やがけ)と言うのは、鎌倉武士が矢を打つ練習をした場所のことで、相模原清新3丁目の公園名になっています。
 「馬込」 津久井城の東のある地区名です。戦国時代に馬を飼育した場所と考えられます。
 「馬場」 馬場と言うのは馬の騎馬練習をした場所のことで、町田街道の交差点名になっています。鎌倉武士は日頃の鍛錬を大変重視していました。
 「常盤」 常盤(ときわ)とは、元々「とこいわ」と言い、永久に変わらないと言う願いが込められた地名です。町田市常盤は矢部町のすぐ横になります。
 「堀之内」 防御目的として堀で囲んだ集落や屋敷があった事を指し、日本全国に多い地名です。相模原でも田名や下溝などに数箇所、多摩市でも京王線の駅名として「堀之内」があります。
 「根小屋」 山城だと城内に居住できるスペースが少ない為、城の麓などに武士が住む屋敷を置いた地区の名です。津久井城の南に根小屋と言う地名が残っています。


■横山党家系図(略図) 横山氏(小野氏) ※わかりやすくする為、関連のない兄弟などを除いている略図です

横山孝兼
(横山隆兼)
(小野孝兼)┬


│横山時重
(藍原時重)
(粟飯原時重)
相原氏の祖?┬


│横山時広
(横山時廣)
和田合戦時横山党頭領┬


│横山広長
(横山廣長)-横山有長



│娘(秩父重弘に嫁ぐ)
畠山氏、千葉氏などの祖
秩父重弘は小山田有重の父└娘(和田義盛に嫁ぐ)
三浦党と姻戚関係に└田名広季
(田名廣季)
(田名二郎兵衛)
田名氏の祖-田名時季
(田名太郎)



│藍原孝遠
(藍原二郎)
(粟飯原隆遠)-藍原義兼
(野邊義兼)
(矢部義兼)
矢部氏の祖-山崎兼光┬
└山崎時光
─奝俊道俊



│小山経隆
(小山次郎経隆)
小山氏の祖?┬

│小山有隆
(菅生有隆)
小山有高と同一人物か?┬

│小山孝政
承久の乱で討死┬

│小山政光
└小倉経考
(小倉次郎)
小倉氏の祖?├

│小倉経久└小山有政├
└小山朝兼
小山高泰
★小倉経考は小山経隆と
同一人物の可能性も有├
│小倉有経
大貫有経┬
│大貫朝盛
-大貫朝経

│娘(江戸重継に嫁ぐ)
秩父党江戸氏とも親戚に└大貫経氏-大貫景経
└娘・荻野季重に嫁ぐ
 相模原に関係する御家人は「横山党と相模原」でご覧下さい。

 柚木氏(由木氏)

 八王子市下柚木に永林寺があり、柚木氏の館跡だったとも、戦国期の滝山城主・大石定久の別邸があったとも言われています。恐らくは、横山党・横山孝兼の兄弟に由木六郎なる人物がありますので、横山党の柚木氏(由木氏)の館跡を大石定久が使っていたと考えられます。
 柚木氏じたいは、戦国末期八王子を治めた北条氏照の家臣として活躍していたようです。
 ちなみにこ大石氏は「津久井城と三増峠の戦い」でも簡単に触れていますが、江戸時代赤穂浪士で有名な赤穂藩家老・大石内蔵助の先祖とされています。

 小山田氏

 鎌倉幕府の有力御家人・小山田氏が町田を中心に支配していましたが、小山田氏については説明が長くなった為、このページでは割愛し、別ページを設けています。
 詳しくは、小山田氏・小山田有信にてご高覧賜りますと幸いです。

 長井氏(永井氏)

 八王子市片倉に「片倉城」があり、長井氏が築城したと言われますが、この長井氏は鎌倉幕府別当・大江広元の次男・大江時広(大江祝弘、長井時廣、長井左衛門、長井時広、永井氏とも)を祖とすることから、横山党が和田合戦で滅んだあと、現在の片倉(八王子市片倉)に入り、横山党が使っていた片倉城に入ったのではないかと考えられます。それが本当だとすると1215年前後に大江広元が八王子を所領としたと考えられますが、1200年代から片倉城があったかどうかは定かではありません。
 近くの京王線・山田駅辺りには、長井氏館跡とされる場所が残っています。
 また、永井氏は片倉城の支城として、城山町に宝泉寺城(小松城)を築いたとも言われていますが、小松城は永井氏の分家とも考えられます。
 その後長井氏(永井氏)は室町時代、扇ヶ谷上杉氏に属していたようです。しかし、1504年9月、武蔵立河原合戦において、扇谷上杉勢の長井八郎が山内上杉勢に「椚田塁」と言う場所で拘束されたと言う古文書があります。その椚田塁を片倉城とする説も有ります。
 その後、永井氏の名は歴史に主だって出なくなりましたが、現在まで続いており子孫の方より賜りましたメイルより下記のことがわかりましたので、修正・追記させて頂きました。
 1.永井氏は滅亡はせず、子孫は現代にも残り、八王子(片倉城下)で現在も続いている。
 2.片倉城近くに永井氏菩提寺が現在もあり、鎌倉の建長寺派となっている。寺の過去帳によると開祖:永井時広=大江広元の孫とある。また、周辺には同様に建長寺派の寺が複数ある。※時広の「広」は難しい漢字のため略して表現  ~時広と言うと、大江広元の次男(大江家としては分家)とする説もあります。ただし、親子で同じ名前を名乗るケースもありますので、なんとも言えません。

 さて、戦国時代初期の片倉城はその後、北条早雲の支配下になったと考えられます。
 片倉城には小田原北条氏独特の遺構があることから、国時代には小田原北条氏が片倉城を改修したようですが、八王子城落城と同時に落城又は開城したと考えられます。
 片倉城は太平洋戦争時に高射砲陣地が築かれていました。

 黄金伝説

 「朝日さし 夕日かがやく 木の下に 黄金千両 漆万杯」
 この財宝は。小山田城主・小山田有重の子孫が埋めたとされ、ある資料によれば軍用金らしい。
 埋蔵した場所は相模原市上矢部の御所之入あたりとされる。この地の古い家には意図不明の縦穴があり、そのかたわらに榎の木と五輪塔などもあるという。
 鶴川駅近辺の町田市能ヶ谷町(のうがやまち)では古銭が土の中から発見され、その量は9万枚(約330kg)。室町時代の通貨とされている。

 参考

 坂東千年王国HP、ウイキペディア、武蔵野つれづれ、永井氏の子孫様(匿名)からのメイル



* http://www.sysj.info/sagami/rekishi/より転載 *






心を磨き  技を磨く
伎芸天にて  守り給う


市杵嶋姫としての記憶☆ミ |KO KO RO
http://s.ameblo.jp/akane-tan/entry-12102845805.html


大天使ガブリエルが言いました

「あなたには、人とのつながりと芸術性を通して行う重要な人生の使命があります。
不安からその人生の目的、使命を拒まないでください。
私たちがあなたを助けます」