家族展「akemi+family」が終わって、もう2週間が経ちます。
会期は終わりましたが、これから少しずつ、日常の投稿に織り交ぜながら、展示した作品をピックアップして投稿していきたいと思います。

たぶん、ものすごくスローペースの投稿になると思います。「いつやるねん、、ほんで、いつまでやってるねん、、」って感じになるかもしれませんが、気長におつきあいくださいませ。

私はどうも自分の作品をSNSで紹介するのが苦手です。

会期中は、コロナ禍でもあり、会場にお越しいただけない方のために、また自分の作品の記録のために、「SNSに作品を投稿します」と自ら宣言したので、会場の様子をがんばって投稿しました。
が、一番大切な作品の紹介については、さらーっとかすったような、なぞったようなあっさりした投稿しかできませんでした。
なのに、文章だけは謎にてんこもりの時も多く、、、💦 
今もですが、、、💦

私はなぜか、自分や他人の作品ををばーんっっと自ら紹介するのが気がひけるのです。

日常のなんでもない風景や、世界にあふれる様々な楽しそうな情報はシェアして自分のために保存したり、みんなと共有したくて頻繁に投稿するのですが、
本当に大切な物は誰にも見せずに、人知れず集めて分類して大切に蓄えて心の箱の中にしまっておきたくなるのです。

そんな私ですが、人の作品を見るのは大好きで楽しくて、ネット公開してくださる方々のおかげで毎日たくさんの作品を見て楽しませてもらっています。

SNSに作品をコンスタントに投稿し続けると、自分の画集のようになり、自らの作品紹介にもなり、仕事にも繋がります。

私もHPを作り、各種SNSを全て紐付けしています。
仕事に繋げる気満々なのです。 

なのに、、、
私のSNSは、自分の作った料理だったり、散歩の際に見た風景だったり、猫があくびしてたり、生活の記録だったり、、その他、自分以外のいろんな情報の掲示板みたいになっています。

時々思い出したように作品を描き投稿しますが、それは極めてまれな、自発的自作品発表欲求が極限に満ちた時です。
つまり、かなりの創作意欲が自然発生した時です。


ただし、企業さまや団体さまからイラスト制作の依頼を受けた作品に関しては、速やかに対応し、締切を守り出稿しています。
依頼作品ですので、個人のSNSではあまり発信しませんが、自分のイラストが印刷され、多くの人の目にふれることはとても幸せで、依頼を受けることはとても嬉しくありがたく思っています。
依頼を受けることで生まれる、他業種さまとのおつきあいもとてもありがたく、感謝しています。

ただ、、、

自分の作品を自主的に制作し続けることが、なかなかできません💦

こんな私なので、こつこつと、仕事として、また趣味として、作品を日々制作し、発表している人を私は尊敬します。



ところで、、

そんな私ですが、地味にこつこつと積み上げているものがあります。
それは、ぜったいに公開発表できない文章つきイラストたっぷりの「絵日記」です。

これは発表を前提としていないので、だいたいが、楽しかった一日の記録や、自分の腹立ちや心の葛藤を自らおさめるための憂さ晴らしの記録であり、みっちりと文章と絵を描き込んでいることもあり、乱雑ですが、なかなかの力作です。(自画自賛😅💦)

ただし、発表できないのです。
なぜなら、人の悪口や物事に対する批判とかが基盤になっているものが多く、ブラックな視点が前提だからです。

シンプルに言えば、私そのものです😅💦

今回の家族展でも、過去の描き溜めた「絵日記」を展示しようかな、、と思いましたが、内容を見直して速攻で止めました😅💦

実は、私の父も同様に、かなりの量の文章を残しています。
ほとんどは出身大学の同窓会誌に寄稿した随筆や日々の日記ですが、未発表の小説やおもしろいイラストもあります。
父自らが表題をつけ手製の冊子にしたものや、縮小コピーを繰り返して作った指先大の超豆本も何冊かあります。

そして、父からさかのぼって、もう一代上、結核で早世した私の父方の祖父にいたっては、数十ページにも渡る毛筆直筆、和紙を和綴じして作られた長編の「家歴」なるものを残しています。
これは、長編小説のように綴られた家の歴史であり、祖先数代に渡って綿密に詳細に家族の様々な事実と時代背景、生活風景が綴られています。

それによると、父方の祖先、私の曾祖父の両親は、山深く水清い土地、吉野町国栖で和紙職人として生計をたてており、家族総出で苦労しながら、植物を採集し、和紙を漉き、真冬の冷たい水で晒し、乾かし、それを私の曾祖父が天秤棒に担いで山をいくつも越えて、町で売り、たいへんな苦労をして少しずつ財を築き、先代の失敗のせいで失った山を少しずつ買い戻したそうです。
曾祖父が身体を壊し働けなくなり、亡くなってからの生活は苦しく、未亡人である曾祖母と、病気がちな祖父と、いつも一生懸命だがかなり風変わりな価値観を持つ祖母、まだ子どもだった父を長男とする妹3人の生活を支えたのは、元気だった頃の曾祖父が汗水流して天秤棒を担いで働き取り戻した山だったそうで、少しずつ山を売ることを繰り返し、つらい時代を凌いでていたそうです。

今、吉野の山は、残念なことに昔ほどの財産的価値を失ってしまいいましたが、昔は財産としててもありがたいものでした。
父はわずかに遺された山をとても大切に思い、感謝し、山守さんに助けていただきながら、植林し木を育て、ずっと維持管理してきました。父亡き後は、私の長兄が管理しています。

今の時代に、木を育て山を守り維持してていくことはとても大変なことですが、同時にとても尊く大切なことだと思い、林業に関わる全ての人に尊敬の念を感じます。

林業は、植林した結果が植えた世代の人には得られず、手間をかけて木を育て、次の世代、もしくはさらに次の世代になってはじめて木は切り出され、材木となり、人々の暮らしに浸透していきます。

すぐに結果は得られず、次の世代、次の次の世代のことを常に考え想像して育てていくので、とても難しく、多くの時間と手間と技術と知恵、そしてお金がたくさんかかります。

知恵と技術を持つ方々が、高齢化の波にのまれ失われていくこともとても悲しいことです。

私が吉野の林業や、手漉き和紙や、吉野材を使った伝統産業に対して思いが強いのは、このような背景から来ています。
微力ですが、次の世代に繋げようと懸命に努力されている林業にたずさわる方々や、木製品の製造業に関わる方々を、私はひそかに応援していきたいと思っています。


その思いの根底には、祖父や父と同様に、辛抱強く一生懸命に家族のために働いてくれた曾祖父と、家族を助けてくれた山への感謝の気持ちがあります。命を削るように懸命に「家歴」を書き残してくれた祖父への感謝の気持ちも。




、、、祖父の話に戻ります。

長年結核を患って入退院を繰り返し、家でも療養することが多かった私の祖父は、身体が丈夫で家族のために身を粉にして働く自分の父親を見て、ただ申し訳なくありがたく感謝することしかできず、せめて家歴に事実を書き残し、子孫が自分の父親に感謝するように計らったのだと思われます。
祖父が書き遺した「家歴」は昭和10年11月3日、祖父が34歳の時に完結していますが、全体の半分ほどのページは何も書かれておらず真っ白で、その後、父が父の時代の歴史を書き残し、今は私の長兄が続きを書き記すべく管理しています。

ちなみに、、
祖父は、終戦の4年後、昭和24年11月12日の朝、49歳で他界しています。
父は大学生で大阪で下宿していて、祖父の母、妻、隣に住む従兄弟に看取られて安らかに息を引き取ったそうです。


実家の仏壇の横には、曾祖父が使っていた天秤棒が家宝としてしまわれており、病気がちだった祖父の文字で自分の父への感謝の言葉が毛筆で大きく書かれています。


…………………………


ところで、、、
私の母方の祖父も結核で早世しています。終戦直前、昭和20年6月29日、祖父40歳でした。祖父の父、妻、子ども5人(母の兄、母、母の妹と弟2人)家族あわせて7人を残して。
母は小学3年生でした。山の頂で牛や鶏と暮らし、みかんや柿、野菜や米を作る農家でした。母は父亡き後、家事や農業の手伝い、生まれて間もない弟の世話などを懸命にしたそうです。やらされすぎて農作業は大嫌いと言いつつ、庭の草ひきを今も熱心にしています。


……………………………


父方の祖父に話を戻します。

祖父は文章もうまく文字も美しく、子孫の私としては、過去の歴史もわかり、とてもありがたく素晴らしいことなのですが、、、

この祖父の「家歴」、父の随筆集や小説、私の絵日記に、共通して存在する「魂」があります。

それは、、、
3人ともに全編に渡って流れている、冷静で綿密な記録への執着と、若干の毒、物事に対するシニカルでダークな視点です。
よく言えば、リアリズムへの追求とも言えるかもしれませんが😅

父も祖父も、記録としての日記も大量に残しています。
心模様を書く日記ではなく、生活記録のための日記です。
ほぼ99%は、とても冷静で客観的な短文の記録なのですが、気をゆるして読んでいると、時々、ヒヤッとするような毒がごくたまに書かれています。
これは、私の絵日記も同じです😅💦


今回、家族展で、父の随筆集や小説も、「文学」という視点から、展示しようかと思いましたが、私の絵日記同様、毒をはらんだ部分が随所にあり展示を止めました。



話がどんどんそれていきますが、、、

私の祖父、父、私、という流れは、かなり文章を書くのが好きですが、物作りも好きで、祖父は手作りの仏壇の引き出し机を残しています。釘を使わない指物技術で作られています。
物作りや創作の血は、父、父の妹達、私達父のこども、そのこどもへと繋がっていきます。
父の妹達は洋服デザインや、洋裁を仕事や趣味にしていたり、とても器用で絵も上手です。
兄達も、緻密なプラモデルが趣味だったり、機械工学に進みエンジニアであったりするので、物作りが好きです。



話が脱線し、とてつもない長文になってしまいました💦


この文章は、更新頻度が途絶えると、ほとんど誰も見に来ないブログに、とりあえず残しますが、あまりにも長く脈絡なく書いているので、今後削除するかもしれまん。


ところで、、、

常々、漠然と考えていることがあります。
私が本当に好きで、片時もせずにおられないことは、絵を描くことではなくて、もしかして、文字を綴ることなのではないだろうか、、、と。

家事をしている時、ぼんやり過ごしている時、私はずっと文章を頭の中で綴っていることが多く、幼い時から、布団に入る前の空想や思考する時間が何より好きでした。
ひとり布団に入り、横になりながら、
「さぁ、今日は眠るまで何を考えよう、、」と、ワクワクして布団に入っていました。

学生時代は、成績は落ちこぼれていましたが、読書感想文とマラソン大会だけ、毎年表彰されていました。規則だらけの学校が嫌いで勉強したくなくて、いろいろなイラストを複数の雑誌に毎月投稿し、掲載されるのが唯一の喜びでした。
子育て中は、育児雑誌のママさんライターとして、定期的に文章やイラストを載せていました。
また、複数の育児雑誌にイラストを毎月投稿し続け、自分の名前が活字となり、イラストが掲載されるのを喜びとしていました。
SNSがない時代だったので、投稿が唯一の作品発表の可能性を含んだ行為だったのです。

雑誌にとどまらず、テレビにもイラストを投稿し、いろんな番組のオリジナルの景品をゲットしました。アイドルに興味もないのに、アイドルの似顔絵を描き、テレビに自分の絵と名前が映し出されるのが最高に嬉しくて何度も投稿していました。

子育て中、こども達が幼い頃、仕事を全くしていない期間が5〜6年あり、この頃、絵本コンクールへの出品も毎年していました。
全て落選し、原画すら戻ってこないコンクールもあり、当時まだ高価で質も悪いカラーコピーをとって保管していますが質も悪く、時代を感じます。



私にとって絵は、描く絵そのものが魅力ではなく、雑誌やテレビに掲載されたり映し出されたり、また、絵本として出版されてはじめて喜びとなるのだと思います。(落選ばかりで、絵本が出版されたことは一度もありませんが😅💦)


芸術表現のためではなく、何かの媒体を通して、自分の絵がたくさんの人に見られ、自分もそれを客観的に遠巻きに見るのが大好きなのです。


投稿する以外では、私にとって絵は、無意識に落書きとして思うままに描いて自分を発散する手段でしかなく、芸術作品のレベルまでは達していないのです。


表現する喜びとしては、絵を描くことよりも、もしかしたら、考えたり、綴ったりすることの方が私は好きかもしれません。
絵は、頭の中で思っていた以上に描けることがほとんどなく、頭の中の理想に近づける作業がストレスになるのですが、文章は推敲作業も含めて楽しく感じます。
そして、時間をかけて文章を書ききった時、爽快でスカッとします。

たぶん、絵は一応本業なので、発表に際してはプレッシャーがありますが、文章は遊びで全くの無知なので、気楽で気晴らしになっているのでしょう。

文章のプロともなれば、そのプレッシャーと苦しみは凄まじいものだと思います。文章は、特別に意識しなくとも常に誰かを傷つける可能性を持つ恐ろしい刃物でもありますし、、、
怖いです、、、

その点、絵は表現が曖昧で、解釈の逃げ道がたくさん用意されているような気がします。




長々と綴りました、、😅💦



結論もなく、いきなり終わります😅💦




完全に私の個人的な記録ですので、もし読んでくださった方は、とても根気のよい方です。
長々とおつきあいいただき、ありがとうございました。


家族展を終えて、2週間後の記録として残します。

今後、この記録が何かに繋がることを、少し楽しみにして、、🍀






昨日、京都鴨川にて撮影。