カラーレッスンを復活するにあたり、
私のお仕事への想いを随時
書き留めて行きたいと思います。

長文が苦手な方はスルーでお願いします。

今から10年程前、
私がまだ関西にいた専業主婦の頃、
このパーソナルカラーのレッスンに出会い、

「これは、自分の天職になる!」クラッカーと目覚めた目次の日には、

OL時代から貯めていた100万円近くのお金をおろして
学校に既に振り込んでいましたにひひあせる

その頃から、
思い立ったらJust now!爆弾
すぐ行動派の私でした(笑)

思い起こせば、娘がまだ4歳の幼稚園児の頃でした。

前夫は海外出張も多く、とてもハードなビジネススタイルで、飛行機
東京大阪間を行き来していたので新幹線

実家の母に何とか協力して貰い
時間をやりくりしながら
一日7~8時間の講座をぶっ通しで
何日何日も通いました。

私が通った学校は、かなりのスパルタSchoolで、

「どんだけ辛口やねん!メラメラ」とも言える先生達に(笑)、
コテンパンにダメだしされながらも頑張って通いました。

資格までのゴールが見えて来た頃、娘の1000人に一人の原因不明の難病が発覚しました。

40℃以上の熱が抗生物質や、何をしても下がらない病気で、

今の日本ではまだ確実な治療法はなく、血清投与を選択して、
結果が出ない場合、最悪動脈破裂で亡くなってしまうか、

一生後遺症が残り、
走る事すら出来くなる病気でした。

様子がおかしいため、
真夜中に救急車で連れて行き、
何時間も待たされたあげく、
結局原因が分からず、

一旦帰るように言われて、
タクシーを呼ぶのも終わっていると言われ、

40℃以上の熱がある娘を抱いて
朝の5時頃に30分位泣きながら1人で歩いて帰りました。

今思えば、人生で1番辛かった日かも知れません。

結果、次の日に緊急入院となり、
「これで亡くなっても、文句は言いません」と言う同意書も

涙で前が見えず、
手が震えて自分の名前が書けない位ガタガタしながら1人で書きました。

「もう、自分のカラーの学校なんかに行っている場合じゃない!」

先生にも、もう通えなくなるので、しばらく学校には行けない事を伝えました。

「娘が死んでしまうかも?
そんなん絶対嫌や!」と

毎日朝まで家庭の医学を読み
違う病気じゃないかと調べ続けました。

24時間の看病で、短時間だけお風呂に入りに自宅に帰る時しか
1人の時間はなく、

帰っている間に娘に何かあったらと、頭を洗うのもままならない日々でした。

毎日病院へ戻る時、クローゼットにある中から、服を選ぶのですが、

何故かしら?黒やグレーなど暗い色を着ると気持ちまで落ちるので、ダウン

努めて明るい色の服を選び
病院へ戻りました。

そうすると、わずかではありますが、
気持ちが楽になるのを感じ始めました!アップ

「あっ!あたし、やっぱり諦めたくない!

この色の持つ感情効果の力を
1人でも多くの人に伝えたい!

一生の仕事にして、
皆の気持ちを楽しくしてあげたい!」と思いました。


そこからは、気持ちを切り替えて、娘が寝るまでは看病に徹して、

寝てからはまた朝まで、病院の枕元の小さい電気で、カラーの勉強を続けました。

看病も、カラーの勉強も諦めない事で、
自分の気持ちを整理する事が出来、
両方に打ち込む事が出来ました。

結果、娘の血清投与は成功し、クラッカー
無事退院する事も出来、
自宅療養になりました!クラッカー

看病ばかりでは精神的にまいってしまうからと、
また母の協力で学校に戻る事になり、
主席で卒業する事が出来ました!クラッカー

心が折れそうな時に、私を支えてくれたのが、色の持つ力なんです。

いつも走り続けている私を見て、
皆が「どうしてそんなに頑張れるの?」と聞いてくれる時があります。

私はこの時期に比べたら
どんな事でも平気で
全然楽チンで幸せだからなんです。


長くなるので続きます。