他者性の重要さ | yossy blog

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建築の意匠設計者として設計監理業務に取り組んでます


以下、末恐ろしい記事です。(エキサイトニュースから転載)


頭弱すぎですが こーゆー奴いますね。。 たまに見かける「歩きながら人にぶつかってきて舌打ちしてる人」は当事者か予備軍か… どの世代にもおそらく一定数いるのでしょう。


自分以外の他者との関係性を大切にできない人は、社会では認められないし生きる事ができない という現実を知覚するべきと考えます。 認められたい輩に限って自分本位。 もしも身近にいたら「君ヤバいよ...」と教えて上げないと(笑)

ちなみに他者性の欠落した人は、デザインが気の毒な程ヘタクソだし、人に幸福感を抱かせる人はデザインが上手です。 デザインとは情報や関係性の整理を行い第3者に満足感・幸福感を与えるものですから、当然と言えばそれまでの分かり易い法則です。




公務員が、市長に「死ね!」というメールを送るワケ

http://www.excite.co.jp/News/economy_clm/20120117/Itmedia_makoto_20120117026.html

ちきりん×中田宏、政治家を殺したのは誰か(4):



$吉澤輝のブログ


 中田宏さんが横浜市長を務めていたとき、職員から「死ね!」というメールが届いた。部下が上司に対して「死ね!」というメールを送る? 民間会社では考えられないことだが、なぜ公務員の世界では、こうしたことが行われているのだろうか。

●「死ね!」というメールが届いた

ちきりん:中田さんが書かれた本『政治家の殺し方』(幻冬舎)には、市長になって、大変な目にあったという実体験が赤裸々に綴られていますよね。こういう本を出されることにはものすごく価値がある、と感じました。

 一般論で「新聞記者にこんな人がいますよ」「市役所の中にこんな公務員がいますよ」と書かれても“ふーん”という話で終わってしまう。しかし中田さんが書かれたのは実体験に基づくことなので話がすごく詳細で具体的、その価値は大きいですね。

中田:この本を読んでいただいた読者の中には、「実名で書けばもっとよかったのに……」という人もいました。僕の弁護士は「全部、実名で書いてもいい。判決はすべて出ているのだから」と言ってくれました。しかし僕は、実名を出しませんでした。もちろん名前を忘れたわけではありません。本の中で登場する「市役所にウォシュレットをつけろ!」と言ってきた記者については、新聞社名も名前もしっかりと覚えています(笑)。

ちきりん:個人名を書かれなかったのはいいご判断だと思います。別に個人を責めたいわけではないんですよね。

中田:そうなんです。「罪を恨んで、人を恨まず」――ではありませんが、「構造を恨んで、人を恨まず」だと思っています。公務員の構造は、責任ある立場にいなくても、年齢を重ねると給料がどんどん上がっていく。

 例えば「責任をとらされて、月給40万円」「責任をとらされなくて、月給40万円」。もし僕が公務員でどちらか選ぶかというと、責任をとらされないほうを選びますよ。

ちきりん:そりゃあそうですよね。

中田:公務員の世界のどこが問題かというと、「構造」なんですよ。それは公務員だけでなく、議員も記者も構造が生んでいる。そう思ったので、実名は出しませんでした。

ちきりん:本の中で紹介されていたエピソードで驚いたのは、定年まであと数年という人(公務員)が、ボスである中田さんに「死ね」というメールを送りつけたという話。そんなメールを送ってもクビにならない、だから送る人がいる、という構造があることは理解できるものの、さすがにこれは大人としての常識があまりにも欠けているのではないでしょうか。


 私のいた金融の世界はマーケットで評価されます。政治家だって選挙で評価される。公務員ももう少し厳しく評価されることが必要だと感じます。大学を卒業し、一度試験に合格すれば、その後定年まで法律違反をしない限りナニをやってもお咎(とが)めなしというのはやはりおかしいです。

 「死ね」なんていうメールは上司はもちろんのこと、同僚や部下にも普通は送りませんよね。なぜいい年をした公務員の中に、そんなメールを上司に送る人がでてくるのでしょうか? そういう人の精神構造が信じがたいんですけど。

中田:やはり「構造が生んでいる」と思っています。1つは「処分されない」ということがある。処分されないというのは、公務員の身を最低限担保されているわけで、あとは人間としてのマナーの問題。でも現実には、そうした行動になぜ出るのか。市役所のPCを使って、なぜ「死ね」というメールを送れるのか。

ちきりん:もちろん民間企業でも上司に不満を持つ人はたくさんいます。希望でない部署にまわされたり、評価を下げられたり。それでも「死ね」なんてメールを送る人の話は聞いたことがありません。そんなことをする人っているのかなあ……。

中田:それは「全体と個」がつながっていないからです。組織の発展と自分の発展というものが、民間企業ではつながっているんですよ。会社で働く人は、売り上げというものが条件付けられている。組織の中で生きていく、自分の可能性を広げるためにもその組織の可能性を広げなければいけない。会社全体の売り上げが増え、利益を伸ばせば、自分の給与が上がる。逆も然り。

 例えば食品会社で働くたった1人の人間が、手を洗わなかったために食中毒を起こしてしまえばどうなるか。手洗いしなかった1人だけの処分だけにとどまらず、小売店などに販売していた食品が返品される。会社の幹部は、今後のマネジメントをどうすればいいのか、考えなければいけない。また株価が下がれば、それにどう対応していけばいいのか、考えなければいけない。広報は、どのようなお詫び広告を出せばいいのか、考えなければいけない。結果として、社員全員のボーナスは下がり、ひょっとしたら給与までカットされるかもしれない。

 民間企業で働いていれば、会社が調子のいいとき、悪いときがあるわけだから、それも「運命共同性」として受け止めなければいけない。しかし公務員はその「運命共同性」が全くないといっていい


同じ部署で不祥事が起きても、それが自分の給与に影響するということは100%ない。そういう組織の中で働き続けていると、やはり自分が行う一挙手一投足というのが、周囲にとってプラスになるかマイナスになるか、という行動原理を失ってしまうんです。

 それが結果として、自分の感情だけでぶつけていくことになる。いわば凧の糸が切れたような状態になるわけです。

ちきりん:「それが構造的な問題である」ということは理解はできます。しかしその人は、自分が50歳を超えた年齢で、誰かに「死ね」というメールを送ったことを、例えば自分の子供に言えるのでしょうか? 説明できるのでしょうか? 子供がいないとしたら、自分の親や友達にでもいいのですが、それを言えるのかな? 「オレ、この前、市長に『死ね』と書いたメールを送ってやったぜ」とか平気で言えるのか、すごく不思議です。

中田:たぶん、周囲の人には言っていないでしょうね。

ちきりん:ということは、本人も「この行動は家族や知人には言えないほど恥ずかしいことである」という認識はあるんですね?

中田:あると思います。しかし、このことは今の社会にたくさん見られると感じています。ネットの世界では、匿名でものすごく強烈な表現をしている人が山ほどいますよね。2ちゃんねるもそうだし、Twitterでもよく見られます。ちきりんさんのブログにも、そうした書き込みがあったりするのではないでしょうか。

ちきりん:ありますね。

中田:「あなたの見識を疑うよ」みたいな書き込みが(笑)。

ちきりん:ハハハ。たくさんあります!

中田:匿名性ゆえにやっていることですが、こちらにとっては、その人が男性であるのか女性であるのか。年齢も分からないし、ましてや顔の表情も分からない。

 市役所の人間も、周囲にバレるとは思っていないんです。

ちきりん:その「バレると思っていない」というのが信じられないのです。今時、会社のPCでメールを送ったら、誰が送ったのかということは、組織の長が特定しようと思えば当然バレるというのが常識だと思うのですが……。

中田:実名を出して「死ね」というメールを、僕のところに送ってきても、読むのは僕だけ。「お前、オレの実名を知って何ができるんだ」という論理があるわけです。それは匿名社会に限りなく近いわけですよ。

 処分はされないわけですから。たかをくくっているわけですね。

 名誉のために申し上げますが、そんなメールを送らない職員のほうが圧倒的に多いですから

常識を持っている人が多いですので(笑)。

ちきりん:も、もちろんです。

中田:ただ、なぜ一線を越える人が公務員の中にいるのかというと、運命共同性が低いからです。自分の行動が他人に対して、大きな影響を与えるかどうかについては、長年公務員を続けていると鈍感になってしまう。なので50代の人の方が「死ね」というメールを、送ってしまうのかもしれませんね。

(続く)


[土肥義則,Business Media 誠]


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