ゆきのこれまでを語る
『ナチュラル&ホリスティックなライフスタイルへの道のり』シリーズ

ベルこれまでのおはなし


今回は少しダークな内容なので
ダークサイドな話はちょっと…という方は
ご遠慮くださいませ


今回は私の両親や家族関係のこと。

私の信念や活動にとても大きな影響を与えているのは幼少期からの家族関係にあります。

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私は左下。見た目も性格も母似な私です



私が物心ついたころには両親は不仲でした。

結婚前から両親の間に亀裂があったそうで
(なんで結婚したんだーって感じですが)
特に母の父への不信感があったみたいですが
結婚後に深刻化したみたいです。


私の子どもの頃の一番古い記憶は
母と父が喧嘩して、
いつも強くて優しい母が声を荒げて泣いていて
妹もつられて大声で泣いている場面。

私は、とっても悲しく、
何もできない自分がどうしていいかわからず
泣くこともできずただ呆然と突っ立ていた気がします。


その次の日母は失踪。
どこに連絡ができず、とっても不安な気持ちになったりします。

その後、母は1人でガソリンを車に積んで
隣の県まで行って自殺しようとしたそうです。
結局は、自分でうちに帰ってきましたが。


昔から夫婦共に同じ食器を使いたがらないばかりか
隣の席にも座りたがらない。
あからさまにそれを態度にだす。

それでも父は何も変わらない。


トヨタとかの車のCMでみた
4人乗りの車の前の席に
お父さんとお母さんが座って
後ろに子どもたちが座って楽しくお出かけする…という光景に
どれだけ憧れたことか。

母は車の中でさえ
父の隣には座らなかったのです…



小さいながらでも
お母さんには幸せになってほしい
お母さんには笑顔でいてほしい
だから離婚してほしい。
我慢することがあっても、我慢するよ。

と何度も伝えたけれど
うんと言ってもらえず。

時折、母が
「お母さんはあなたたちに大学にも行ってほしいし
不自由させたくない
2人は私の生きがいだから…」
と言っていたのが
すごく重くつらかったです。


だって、じゃあお母さんが不幸なのは私のせい?
生まれてきてよかったのかなぁ?
と、子どもながらに思ってしまいます。

母は、大学に進学したかったけれど
経済的な理由で大学は諦め看護学校に進んだため
こどもには大学にいかせたい気持ちが強かったようです。



それはよく知っていたし
皮肉にも離婚しなかったおかげで
私と妹は何不自由なく生活できていましたが
どこか心が満たされない、母の顔色をみながらビクビクする幼少期でした。


私がブログでも、どの講座でも
『ママの笑顔が一番大事。
知識や世の中でよいとされてることなんて二の次。
ママの笑顔が家族の土台です
と言っているのは
こういう幼少期がバックグラウンドにあるからです。



ちなみに母は、あからさまに父を嫌っていましたが
その原因はずっと教えてもらえませんでした。



もっと複雑な家庭やそもそも家族に恵まれなかった人もたくさんいるこの世の中
子どもながら冷静な私はそのことは頭でよくわかっていましたが
心は繊細で不安定な子どもでした。

どこか家庭環境で満たされなかった気持ちは結婚してからも続きました。


ただ、こういう過程に育ったおかげか
人一倍自分で温かい家庭を築きたい
旦那さんとずっと相思相愛、
尊敬しあって、厚い信頼関係を持ち続けたい、
年とっても手をつないでデートしたい、
父として子どもたちを大切にしてくれる人がいい
…と幼い頃から想い描いていたのでした。


20代で一番私がやり遂げたということは
小さいころから想い描いていた旦那さんと出会って
温かい家庭を築き
愛する人の子どもを産んで
3人仲良く幸せに暮らしていることだと思っています。


最後話はそれましたがまだまだつづきます

ゆき