なぜ開戦に?ハルノートに隠された驚愕の真実 | 日本と中国の真実に迫る!

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長谷川です。

 

11月26日は
1941年、同日にアメリカから日本に
【ハルノート】が通達された日です。

 

 

ハルノートは、石油などの物資の供給を止められた日本に対し
日本列島以外の領土を手放すように迫った「最後通牒」でした。

 

 

〇最後通牒「ハルノート」とは?

 



コーデルハル国務長官


1941年11月26日、当時、日本が受け入れられない過酷な条件を提示してきました。

 

その内容とは・・・

1.日本軍の支那、仏印からの無条件撤退


2.支那における重慶政府(蒋介石政権)以外の政府、政権の否定(日本が支援する南京国民政府の否定


3.日独伊三国同盟の死文化(同盟を一方的に解消)

 

詳細 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-50/1941_haru_noto_shosai.html

 

日本に対し大陸における権益を全て放棄し、
明治維新前の日本に戻れと言うことを意味していました。

 

〇日本は柔軟な案を持ち合わせていた…

 

 

「ハルノート」の代わりに日本が出した案について

振り返ってみます。

 

まず、1938年の支那事変以降
日本は、アメリカ、イギリス、シナ、オランダにより
経済封鎖を受けていました。(ABCD包囲網)
そのため、石油、ゴムなども入ってこない状態に。

 

 

 

日本は、対応策としてフランス領インドシナに進駐し
東南アジアを独立させ、その後、貿易圏を作ろうと考えていました。

しかしアメリカとの通商も元に戻れば何の問題もない。

そのため日本は、対米交渉のため
アメリカが呑めるだろう案を持ち合わせていました。

 

その内容

 

「甲案」とは…

 

1.日支(日本と支那)に和平が成立した暁には

 

支那に展開している日本軍を2年以内に撤兵させる。


2.シナ事変(日中戦争)が解決した暁には

「仏印」(フランス領インドシナ)に駐留している兵を撤兵させる。


3.通商無差別待遇(自由貿易)が全世界に適用されるなら、太平洋全域とシナに対してもこれを認める。

 

4.日独伊三国同盟への干渉は認めない

 

と言う内容であり更に「甲案」での交渉決裂に備えて
日米戦争勃発を未然に防ぐための暫定協定案として「乙案」も用意してありました。

 

 

乙案とは…

 

 

1.欄印(オランダ領インド=現インドネシア)での物資獲得が保障され、アメリカが在米日本資産の凍結を解除し、石油の対日供給を約束した暁には南部仏印から撤兵する

 

 

2.更にシナ事変が解決した暁には仏印全土から撤兵する。

 


 


教科書などでは

「日本が侵略し、一歩も譲らなかった」
そんな風に書かれていませんでしたか?

 

こうやって一つ一つ見ていくと
全く異なることがよくわかります。

 

 

日本は、アメリカが妥協できる策を模索していました。

 

アメリカがこの案を呑むならば、仏印から撤兵すると明記していました。

なぜこの甲案乙案をアメリカが呑まなかったのでしょうか。

 

ハルノートが提出され・・・

 

 

大日本帝国は
ハルノートの楔(くさび)を断ち切り
自衛のための戦争へと進むため、大きく舵をとります。

 


〇戦争しか道は残されていなかった…

 

東京裁判でのパール判事の言葉を紹介いたします。

「アメリカが日本に送ったのと同一の文書を他国に送れば
非力なモナコ公国やルクセンブルク公国でさえ
必ずアメリカに対して武力をもって立ちあがっただろう」

 

加えて当時、外務大臣だった東郷元外相の言葉も紹介いたします。

「米国は従来の交渉経緯と一致点をすべて無視し、
最後通牒を突きつけてきたのだ。
我々は、米側は明らかに平和解決への望みも意思も持っていないと感じた。

蓋しけだし、ハル・ノートは平和の代価として
日本が米国の立場に全面降伏することを要求するもの
であることは我々に明らかであり、
米側にも明らかであったに違いないからだ。

日本は今や、長年の犠牲の結果をすべて放棄するばかりか、
極東の大国たる国際的地位を捨てることを求められたのである。

これは国家的自殺に等しく、この挑戦に対抗し、

自らを護る唯一の残された途は戦争であった」

 

このハルノートを突きつけられた日本は

戦争しか道が残されていなかったのです。

 

〇ソ連のスパイ「ハリーホワイト」が詳細を書いた…

 

その原稿を書いたのはハル長官自身ではありません。
財務省補佐官のハリー・ホワイトなる人物でした。

 



・ハリー・ホワイト

 

それをルーズベルト大統領が気に入り、「これでいけ」ということになり、
ハル長官から野村大使に手渡されたので、

 

以後「ハル・ノート」と呼ばれるようになりました。

ハル・ノートを書いたこのハリー・ホワイトは、
共産党員であり、ソ連のスパイであったことが、戦後明らかになりました。

また、ルーズベルト大統領の周りには、
ハリー・ホワイトだけでなく数多くのソ連スパイや工作人、協力者が存在したことが、
戦後アメリカが解読に成功したソ連の情報文書(『ヴェノナ文書』)で判明しています。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 


実はコーデルハル自身も
日本へ案をだそうと考えたとき
史実で出したハルノートより
日本に妥協点を見いだせるものだったという説もあります。

 

 

第二次世界大戦は
コミンテルンに踊らされ
勃発したといっても過言ではありません。

 

いずれにしても
このハルノートにより歴史が一気に戦争へ
傾いてしまったことは
11月26日に記憶する必要性があると
強く感じます。

 

 

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