長州藩
$碧い宙の蒼い月
生誕:天保6年11月28日(1836年1月16日)
死没:大正4年(1915年)9月1日
長州藩士・井上五郎三郎光亨(大組・100石)の次男として、周防国湯田村に生まれる。
幼名は勇吉、通称を聞多(長州藩主毛利敬親から拝受)。諱は惟精(これきよ)。

 文久2年に御楯組の一員として高杉晋作くんや久坂玄瑞さんらとイギリス公使館の焼討ちに参加するんですが、その翌年、伊藤くんと連れ立ってロンドンに留学しちゃいますwwww 
 そこでこの二人は「同じ日本人同士でいがみあちょる場合じゃない!」と、異国を目の当たりに詩攘夷が不可能であり、開国の必要性を痛感しちゃいます。そう、現代にも言える事です。伝え聞くだけではわかれません、実際に現場を見てみないと判らないんですよね。
$碧い宙の蒼い月
 これが、エゲレスへ行った時に仲良く撮った写真。みんな「まげ」落としてます。七三に分けた頭髪がなんだか初々しいですねww

 翌元治元年。四国連合艦隊が下関を攻撃すると知った井上さんは、伊藤俊輔くんと共に急遽帰国します。
が、この戦で長州は大敗を期し、英国公使パークスと会見し和解調停に奔走します。

 第一次長州征伐の時、武備恭順を主張し、なんと俗論党に襲われ全身20箇所(ずこw)を縫合する傷を負わされ、所郁太郎(医者)さんの手当てでなんと生還しております。なんでも、「芸妓さんから貰った鏡を懐に入れていた」ので急所は外れていたらしい。なんとも強運の持ち主。というか、芸妓遊びをしまくったお陰でしょうか(;´▽`A

 慶応元年正月、晋作さんと共に功山寺で挙兵、山口鴻城軍総督として参戦致します。その翌年の四境戦争では、芸州口参謀として参加し戦勝しております。

 一応、井上さん、これでも上士で小姓役についたりしてるんです。それと、松下村塾生ではありません、念のため。

 美術品収集に熱心で、茶会に招かれた先で気に入った茶碗や掛物を「貰っておく」と言い、半ば強引に奪い取っていた。って、なにやってんですか(まったくもう(;´Д`A

 大正4年、静岡県興津町の別荘長者荘にて死去。享年81歳。