私の半生(1)地獄の扉 | 全てはシンプル

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世界一壮絶人生とDVモラハラギャンブル大好き借金大王独裁者のオット、娘と息子、小5の重度医療ケア児と小4のわんぱく坊主の孫を持つ、モノ、心の在り方、食、生活、思考、全てひっくるめた人生のミニマリストが発信するバラエティーなブログ♡


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よくテレビドラマで「壮絶」とか「波乱万丈」だとか言って再現されているのを見ると 申し訳ないけど
「え!そんな程度?」って思う事ばかり。


私の半生、これが自他供に認めるホントの壮絶人生。


私を深く知っている友達はみんな口を揃えて「何かの再現ドラマで、こんな不幸な人いないよ、と思っていたけど朱ちゃんと知り合って不幸な人がほんとにいるんだなーと思った」と言う。

友達から付けられたあだ名は
不幸の王様。
もはや救いようがない・・・
不幸と言ったら私、私と言ったら不幸
という方程式が周りでは出来上がっていて、
そんな風に見られて思われていたんだなぁと思う。



今のオットと再婚してからは「再婚してやっと幸せになれたと思ったのに更に不幸になったね、やっぱり波乱万丈だよね」と言われる始末。

そりゃ「子供の将来めちゃくちゃにしてやる」とか「可哀想にねぇ~。再婚しないんなら息子は高校行けなくなるよ。」などとさんざん脅されて渋々再婚を決めて婚姻届出す当日すら暴力されて血を流しながら役所に行ったんだから。

女手1つで必死で働いてきた私のカラダがボロボロで働けなくなったこともあった。

役所で婚姻届を出す幸せそうなカップルを見ていて子供の頃からの事を思い出して私はどこまで不幸なんだろうと思ってしまった。



私の両親はよくケンカをしていて母親は父親に殴られたり蹴られたりして泣いていた。

それを見て母親をかわいそうだと思っていた。

私も父親から虐待を受けて育ちいまだに体に傷跡はあるし、折れた骨が歪な状態でくっついてそのまま。

父親は気に入らないとすぐ手が出た。

「風呂に入れ」と言われて「まだ行きたくない」と言えばそれだけで平手が飛んでくる。

いつもとっかえ引っ変え女が来ていた。
その間は私は外に出されていた。

家にはたびたび彫り師がきていた。

肉がえぐれて骨が見えるほどの大ケガをしても金がかかるからと病院に連れていってもらえなかった。
その時の傷もまだ残っている。


小学校低学年のころ、日曜日には朝からパチンコ屋に連れていかれ店内に落ちているパチンコ玉を拾わされた。
店員に怒られてもやらないと父親に殴られる。

何かあれば風呂に閉じ込められ水に沈められる。

いまだに水の張ったお風呂を見るとフラッシュバックが起こり怖くて今だにお風呂はお湯をためながら入るようにしている。

体が弓なりに反り返りるくらい不意打ちで父親に腰の辺りを足で蹴られた時の衝撃で仙骨が歪み飛び出てしまった。

そのために様々な後遺症がある。

子供の頃、母親がどんな人がわからなかった。

いない事が多かったから。

たまに顔を見る母親はいつも寝てた。

そしていつも
「アンタはいらなかったのにおろせなくなったから仕方なく産んだ」
「アンタがいるせいで私がどれだけ人生犠牲にしてきたと思ってんの?」
「早く死ね」
「あんたさえいなければ」
ずっとずっと呪いのように言われ続けながら育ってきた。


だから私は生まれてきてはいけなかったんだと思っていた。

私が居ることで母が辛い思いをしているから私がいる事は悪いことなんだ。

私は産まれてきたらいけなかったんだと思いながら生きてきた。

神社に行けば手を合わせて願うことは「早く死ねますように。」だった。


子供の頃の純粋な気持ちってなに?
子供の頃に持っていた夢って何?

そんなのいまだにわからない。

私にはそんなものなかった。

物心つく頃から夢も希望もなかった。

生きている事で怒られ、女であることで絶望され、私そのものの存在を否定されてきた。

兄がいたけど生後3日で亡くなった。


貧困な生活。


いつも家にある食べれる物を探して1人で食べて1人でお風呂に入っていた。

いつも一人ぼっちでさみしくてさみしくて仕方なかった。


何故みんなお父さんがいるの?

何故、お母さんがいるの?

おばあちゃんってなに?

おじいちゃんってどんな人?

お兄ちゃん、お姉ちゃん、弟、妹、何故、私はいないの?

何故私はいつも独りぼっちなの?

母親の味って何?


子供が好きなハンバーグもカレーもオムライスも作ってもらったことはない。

母親は日曜日いつも昼過ぎまで寝てた。

起こすと怒られるから自分が唯一作れるインスタントラーメンを作って食べていた。

それすらもなかったら何も食べられない。

いつも破れた服を着ていた。

体育館シューズやスリッパや体操服も成長していくにつれてぱつんぱつんになっていたのに小1~小6までずっと同じもので「あんた、チビだからいいよね」と買い換えてはもらえなかった。

学用品も揃えてもらえず学校の落し物箱の中の物を盗んで使ったりスーパーで万引きして調達していた小学生の低学年。

物欲しさでなく買ってもらえなかったから何とかして学用品を揃えないと私は学校に行けないと思い、必要に駆られてやっていたため罪悪感のカケラもなかった。

幸か不幸か見つかったことはなかった。


小学校も中学校も転校している。

両親は私が小2の時の離婚して
母親は住み込みで寮母になった。

六畳2間の部屋は母親の私物で溢れかえっていた。

トイレ、お風呂、電話、全て寮生の男性たちと共用。

この生活が中2まで続いた。

自分の部屋すらない。

友達も呼べなかった。

友達の家に遊びに行くと普通のトイレや自分の部屋があって、羨ましくて仕方なかった。

友達と遊ぶ時、みんな自転車に乗っていた。

私は自転車を買ってもらえなくて自転車で走る友達の後を走ってついて行った。

成長してゆく事にいろんな事が惨めだった。


駄菓子屋でもお菓子が買えるお金もなく「家で食べてきた」と嘘をつき、お店の外にいた。

見かねた友達が「おでん1つおごってあげる」と言ってくれてその時初めて味噌おでんを食べた。

小5の時だった。

ピンクの団子にうずら卵が入ったものにクシが刺さっていた。

味噌を付けて薄いお煎餅に乗せた。

お味噌のいい香りがしてまた味噌をつけたら「味噌は1回だけ!」とお店のオバチャンに怒られた。
友達と顔を見合わせて笑った。

怒られても嬉しくて仕方なかった。

おでんがすごく美味しかった。

こんな美味しいんだー!って思って噛んだらなくなると思っていつまでも舐めていた。

そして、みんなと同じとこで同じものを食べてる事が嬉しくて嬉しくてたまらなかった。


自転車は粗大ゴミから拾ってきた低学年の子供が乗る自転車をようやく小6の時の与えられた。

でも、すぐに壊れ、また自転車のない生活になった。


当時、プラスチック製の水筒にお茶を入れて凍らせて学校に持参する事が流行っていた。

その水筒がどうしても欲しくて母親とスーパーへ買い物に行った時、こっそりカゴに入れた。

母親は私がした事を知っていたのに「これは買いません」とレジで戻し、買ってもらう事はできなかった。


198円の水筒。


母親は自分の欲しい物は何万でも買うのに私にお金を使う事はしなかった。



学校から帰ると訳の分からない百科事典のセットやら、写真集が山積みされていたり、なんでかお琴を習い始めお琴も買っていた。

「このお琴ねー30万もしたんだよー」と届いたお琴を私に嬉しそうに見せてきた。

ヘビースモーカーの母親はいつも幼い私の前で喫煙し私は煙の中で育ったと言っても過言ではなかった。

「あんたも吸う?」とタバコの煙を顔に吹きかけられていた。

部屋の壁も電気の傘も全てがヤニで黄ばんでいた。

タバコをやめてほしいと何度も懇願したがその度に「アンタがいるせいで人生犠牲になって何の楽しみもないんだからタバコくらい自由に吸わせてよ。」と全く聞き入れる事はなかった。

(その何10年か後、母親は自分が肺がんになったとたん、手のひらを返したように「タバコは絶対だめ!止めなさい!」と周りの喫煙者に言い、自らも禁煙した。)

ここの住み込みの生活は母親にとっては天国だったようだがどんどん年頃になってゆく私には地獄だった。


そう・・・


まさかあんな目にあうとは。


子供でも女なんだと思い知らされる出来事が私の身に起こったのだった。。





私の半生(2)へ続く



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我が家の桜は満開です(* ˘ ³˘)♡*