あろひろしの本認ぶぎうぎブログ

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つれづれなるままに思いついたことをテキトーに。
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悪い子はいねがー

 

東洋と西洋、いや日本と欧米では同じものでも真逆なことや物がよくある。

文化の違いといってしまえばそれまでだが、奇妙に一致しているのに微妙に違うところが見つかると面白かったりする。

 

先日気が付いたのが日本人も西洋人も「命」を火のついたロウソクに例えること。

火がだんだんロウソクを縮めてゆき、最後に燃え尽きるのを死に見立てるのはまったく同じ。

ここで興味深いのは生命を「火」に見立てるか「ロウソク本体」に見立てるかの真逆の視点に分かれることだ。

落語「死神」をご存じの方はお判りいただけるだろうが、日本ではロウソクは寿命であり「火」が消えるとそこで絶命してしまう。

逆に欧米ではロウソク本体は「積み重ねた人生」と考えられている。だからバースデーケーキのロウソクは年の数だけ立てられてゆく。そしてこれからも増えていけるようにロウソクを縮める「火」を燃え尽きる前に吹き消すのだ。

 

同じ例として、サンタクロースといえばクリスマスイブに良い子にプレゼント配ってまわるおじいさんなのだが、悪い子にはお仕置きのためにやってくる「ブラックサンタ」というのもちゃんと存在しているのがおもしろい。

そう。年に一度、「悪い子はいねがー」とやってくる秋田の『ナマハゲ』とまったく同じコンセプトなのだ。

洋の東西を問わず、子供を戒めるキャラクターの発想が同じことなのが興味深い・・・と思っていたら、実はルーツがかなり近いことがわかってびっくりした。

サンタクロースの元となったのは殉教して聖人に数えられたカトリックの司教セントニコラウスといわれている。

日本の場合、なんと処刑から逃げ延びてきたイエスが日本にわたって東北で死んだという伝説(なんとキリストの墓まで実在する!)から端を発し、その信者の子孫で戦国末期にキリシタン刈りで殉教した人物がルーツぢという。

殉教した人物は聖人になる代わりに埋葬された山の神となったが、子供好きだったという話が転じていつしか子供を連れてゆく→悪い子は連れていかれてしまうという戒めに変わってしまった。

ちなみに「ナマハゲ」は「生剥ぎ」、家族から剝がされ生き別れになるという言葉から変じたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・という与太話でお粗末様でした。

 

 

コロナ禍がなかなか収まらないままもう三年目に突入。

実に(マスクが手放せないこともあり)息苦しい日々が続いている。

 

ところで、昔はこのような目に見えない災厄を「おぬ()」…転じて「鬼」と呼んでいた。

時代が下るに従い、一般的な妖怪をあらわすようにもなり、理解しがたいもの・強大なもの・悪しきもの・倒すべき敵にも「鬼」の字を使うようになった。

 

最近では「鬼滅の刃」のおかげで「鬼」はまたメジャーなものになっているが。

ちなみに「鬼滅…」の鬼はおとぎ話にあるような本来の「鬼」とは違い「吸血鬼」により近い。

さらにぶっちゃけて言えば、「鬼滅の刃」は「ジョジョの不思議な冒険」の13部を和風に焼き直したものだ。

ともに「太陽光に弱い」のはもとより

「近世が舞台」「鬼の血=石仮面」「火をはじめとする呼吸=呼吸による太陽の波紋」「血鬼術の鬼=柱の男」等、「鬼滅の刃」のルーツであることは明白だ。

これは、すでに「ジョジョの奇妙な冒険」が、もはや後進の作家たちのベースとなる基礎認識になっているのだと思うと、荒木先生と同期デビューだった自分としては感慨深いながらも思わず時代を思い知らされてしまう。

 

 

「鬼」といえばおにぎり。

おにぎりとおむすび。どこが違うのか、または単なる言いかえなのか? と調べてみたら、意外や意外。

「おにぎり」の語源はマジで「鬼斬り」だという説にぶち当たってしまった。

 

戦国時代、戦に出陣するときに盃の代わりに兵に食べさせた白米を「敵(=鬼)を斬る」意味で「おにぎり」と呼んだというのが始まりらしい。

そういえば太平洋戦争の時も「鬼」畜米英と呼んでいた。

そして戦が終わり、和睦の時に食した白米を「(和睦を)御結び」と呼んで食していたと。

つまり「おにぎり」と「おむすび」は同じでありながら「対」になった兵の糧食が始まりだったのだ。

 

腹が減っては戦はできぬ。

受験生の夜食のおにぎりは意外とルーツが深かった。

 

 

 

 

という真っ赤なウソ。

今年は軽めでw

長引くコロナの影響ですっかり沈下してしまった観光・旅行業界だが、この春はさすがに我慢が出来なくなってきたのか人出が回復しつつあるようだ。
まあ、長い期間閉じこもっていれば外出などして気分転換したくなるのは、引きこもりを職業にしている漫画家の自分でもさすがに共感できるので、あまり強くは言いたくないが。
というか、「出るな」と言われたら逆に観光のひとつもしたくなるのが人情だと思う。


観光地で思い出すのが(ある程度の年齢以上の方限定だが)ひなびた温泉地の「秘宝館」と「地獄めぐり」だ。
どちらももう残っているのかわからないが、とりたてて特徴のない観光地で何とか人を呼ぼうと知恵を絞った挙句生み出された施設だ。

実は「地獄めぐり」は意外と歴史が古い。(「秘宝館」の方は自分で調べてもらいたい。)
「地獄~」という施設や地名は日本各所に存在している。
これは、仏教の教えを全国に普及させる過程で「死んだらどうなる? どこへいく?」という人類永遠の命題に僧たちがわかり易く「地獄」という概念を持ち込んで説明したところから始まる。

もちろん当時は文字は限られたエリートのものだったから、口だけでなく絵巻物に描いて説明する必要もあり、これが「地獄絵図」と呼ばれるものの始まりだった。
「仏の教えに反するとこんなひどい世界に落とされる」と説く事で、教えや道徳を人々に認知させていったのだ。
そのうち、ひどい状態や光景や場所や事件をたとえる言葉としても「地獄」が定着する。

そして、現代の日本で同人誌の次にフィギュアが登場してきたように、二次元から3Dの娯楽として「地獄」を体感する施設が戦の記憶が遠のいた江戸時代に登場するのは当然の帰結だった。
薄暗いトンネルなどの回廊に地獄の風景を模し、鬼や亡者の絵や彫刻を配置し、怖いもの見たさの観光客を呼び込んだ。
「血の池地獄」「針の山」などを順番に回ってゆくところから「地獄めぐり」と呼ばれたこの施設、悪趣味ではあったが「仏教の教えを広める」施設だという金看板を押し立てて、全国に作られていった。

先ほどもちょっと触れたが、あまり死が日常に近くない時代にしかこういった施設は作られない。明治維新以降、太平洋戦争が終わってしばらく経つまで人々から忘れられていた。
そして昭和の高度成長期、また人々が気軽に旅行する時代になり、客寄せの「地獄めぐり」が復活する。
まあ、大多数は垢ぬけないセンスで、海外からどんどん流入してくる新しい文物に押されてそのままひっそりと埃をかぶっていったのだが。


実は何をとち狂ったか、これを町おこしの巨大テーマパークで作ってしまった例がある。
しかも東京のとなり、千葉県で。
大規模観光施設として正面の門の脇で閻魔大王の像が出迎え、血の池のプールで亡者の気分を味わったり、鬼にボールを当てるアトラクション等や、鬼が亡者を折檻する舞台を見物しながらの食事処などが営業されていた。

さすがに長続きはせず、その跡地は屋内スキー場になったり現在はショッピングモールとして当時の面影は残していないが。

東京近辺に当時住んでいた方ならTVCMも覚えておられるだろうと思う。
『♪船橋HELLSセンター船橋HELLSセンター(亡者が血の池で漂うアニメーション)
長生きしたけりゃちょっとおいで
チョチョンのパ(ここで首を跳ね飛ばされるアニメーション)、チョチョンのパ♪』


・・・・・・お後がよろしいようで。







今回はちょっとローカルすぎたなw

あろひろしのルーツを考えてみる

 

 

「魔法文明が栄えていたら 君は『科学』という『迷信』を信じるだろうか」(映画ドラえもん「のび太と魔界大冒険」予告より)

劇場でこの予告のセリフを聞いたとき、わしは感動し文字通り目から鱗のカルチャー・ショックを受けた。

 

以前からわしの作風に大きく影響を与えたのは星新一のショート・ショートだったということは何度か言葉にしてきた。

もちろんその外に、いろいろな小説や漫画、映画などから影響を受けた。

例えば『価値観をひっくり返す』ということを主に永井豪先生から、『日常にSFを持ち込んでエンターテインメント』を展開することを藤子F不二雄先生から学んだのだが。

今思い返すと、わしの作家としてのテーマというか根底になったのはこの時に代表される感動を誰かに与えたい、「誰かにカルチャー・ショックを与えたい」という思いだった。

 

勿論わしごときがそう簡単にコペルニクスの真似事ができるわけではないが、一部分でも「今までになかったものの見方」をシャカリキになって探す作業の連続がわしの作品作りの根幹だったと思う。

 

まあ、同じシーンやセリフを観てもショックを受ける人もいれば「ふーん?」とスルーしてしまう人もいるから、わざわざカルチャー・ショックを与えたいなどというのは思いあがった発想だったのかもしれないが。

少なくとも未だに「あろひろし」の名前を憶えていてくれる人の頭の中には何か残せたのだろうと思っていいのかな。と判断している。

お久しぶり。

 

 

世の中、自粛と引きこもりの推奨だらけで、一杯やらないとやってられない諸兄も多いかと思う。

そんな時はとっておきの一本の封を開け、お気に入りのタンブラーに注いでひとときの陶酔に憂さを忘れるに限る。

そういえば、このタンブラー、日本での盃の起源は意外に古いことが最近明らかになって来たそうだ。

なんと我々が見知っていたあるものが実はその盃というかタンブラーだったのだそうだ。


 

そのあるものとは「銅鐸(どうたく)」。


 

はじめて縄文時代の遺跡から発掘された時からずっと、これは宗教的な儀式か権力者の象徴であると思われてきた。

人々をまとめるため、その黄金に輝く青銅の銅鐸の神秘的で厳かな響きを使っていたと考えられてきた。


 

だが正直な話、銅製の鐘を鳴らして何が楽しいというのか。青銅が貴重だったとはいえ、ただの鐘の音は鐘の音。

何回か聞いてればありがたみなどすぐに慣れてしまう。

考古学者たちが最初の思い込みのために、修正されるまで長い年月を要してしまった。


 

日本に農耕が持ち込まれたのが縄文時代。

農耕で生活が安定すると次に生まれてくるのはどこの文明でも酒。

最近になって、銅鐸は集落のリーダーが持つ権力の象徴マイ・タンブラーだと判明したのだ。なぜ最近までわからなかったかというと、あれを器にしたとしても単独では自立しないからで、ずっと持っているか床に銅鐸が嵌まるような穴をあける必要があるからだ。

それが古今東西の古代からの酒の飲み方を研究してゆくうちに、研究者は回し飲みや甕から酒を注いで回り乾杯する風習の共通点に行き着いた。

結論として、当時の集落のリーダーたちは各々のタンブラーを首から下げ集会の場に参加し、注がれた酒は飲み干すまでタンブラーを下におろすことができない。つぶれるか酒がなくなるまで延々と酒宴が続く、現代でも世界中で観られる酒の飲み方だ。

同時に長い間鐘の『舌』だと勘違いさせられてきた銅鐸と一緒に出土した細長い棒状の金属片の正体も分かった。

あれはろくな濾過技術がなかった酒の澱や滓を除けたり掻き出すためのヘラだというのだ。

銅鐸の周囲に張り出した「へり」の正体も分かった。

実はビールや酒を冷やして飲むという呑みかたは夏蒸し暑い日本発祥。銅製のマグやジョッキと同じように川の水や井戸水で冷やして飲んでいた。体温で温められるのを遅らせるため両側のひだを持っていたのだ。

盃の両側のひだを持って飲むという呑みかたは古代中国から伝わったと言われている。

それらから逆に、さまざまな大きさの銅鐸があることの理由も想像できる。

大ジョッキ、中ジョッキ、小ジョッキもしくは酒の席での順列。大きさの順に注いで行けば失礼が回避される。日本人ならわかる飲み会について回る順列の問題だ。

そして長い間謎だった1m以上ある巨大銅鐸の使い方も判明した。なんということはない、あれは造り酒屋の看板の元祖だったのだ。


 

そんな銅鐸タンブラー社会は下戸の遺伝子を持つ弥生人の渡来によって衰退していった。

そして二世紀ごろ、突如として終焉する。

原因は男性社会から卑弥呼を代表とする社会の権力構造の女性化による禁酒令だと言われている。卑弥呼が酒乱の弟を追放したというのは、当時の酒文化のパラダイム・シフトを象徴するものだという説もある。


 

そして時代は流れ、昭和から平成・令和となり居酒屋も女性をターゲットにしないと成り立たなくなってきた。

われわれは再びパラダイム・シフトを体験しているのかもしれない。


 


 


 


 

という今年の一杯のジョークでした。