先日のこと。

 

私が夜、家でスパークリングワインを飲んでいたら、

 

娘がそのグラスに手を伸ばした。

 

 

あっ!と思ったときにはもう遅かった。

 

倒れて転がり、床に落ちるグラス。

 

飛び散る、ガラスの破片。

 

 

「やっちまった」感あふれる表情を浮かべる娘。

 

急いで娘をその場から離し、掃除する私。

 

「〇〇ちゃん。グラス割れちゃったよ。ママにごめんなさいしよっか。」

 

と、娘に語りかける夫。

 

 

しかし、そこで娘。

 

首を横に振り、うつむく。

 

「〇〇ちゃん。ごめんなさいは?」

 

と繰り返す夫。

 

さらにうつむき、今にも泣き出しそうになりながらも、あくまでも首を横に振る娘。

 

 

私も、

 

「じゃあママと一緒にごめんなさいする?せーの、ごめんなさい」

 

などと誘導してみるものの、全く効果なし。

 

それどころか最後には大泣き。

 

娘、結局最後まで、一度たりとも頑として謝らず。

 

それどころかむしろ「慰めて!」と言わんばかりに甘えてくる。

 

仕方ないので、それを受け入れる私。

 

次第に落ち着きを取り戻す娘。

 

その後、パズルで遊んだりしてるうちに、平常運転に戻る。

 

 

 

娘は現在、2歳半だ。

 

まだごめんなさいがわからなかったり、言えないわけではない。

 

でも彼女は今回、最後まで頑としてごめんなさいを言わなかった。

 

 

私は2,3回聞いて言わない時点で「もう言わないし、いんじゃね?」と思ったんだけど

 

夫は「教育上、本当にここで諦めてしまっていいのか?」と苦悩し、繰り返し説いていた。

 

夫は何も自分の自己満足のために謝らせようとしているわけじゃなく、

 

「娘がちゃんとごめんなさいを言えないと困るんじゃないか?」という彼の愛情ゆえの行動だということを私は理解していたので、

 

そこまで娘に向き合おうとする夫ってすごいなぁと思った。

 

 

でも、ここで私はあることに気付いたのだ。

 

子どもをもつ親がよく口にする、

 

「『ありがとう』と『ごめんなさい』を言える子どもに育てたい。」という言葉。

 

これって、よく考えたら、実はとても変な言葉なんじゃないだろうか。

 

 

だって「ありがとう」も「ごめんなさい」も、

 

自分が心から感謝していたり、心から申し訳ないと思っているときに

 

その気持ちを相手に分かりやすく伝えるための表現として存在しているのだ。

 

だから感謝や謝罪の気持ちがある上に、さらに相手にそれを伝えたい!と思った時に

 

初めて口をついて出てくる言葉なのであり、これは本来

 

気軽に挨拶のように口先だけで使う言葉でも、

 

ましてや人が誰かに強要する言葉でも決してない。

 

 

ありがとう、はまだ良い。人に感謝したら言うというのは分かりやすい。

 

でも、ごめんなさい、というのは何なんだろう。

 

 

「ごめんなさい」は、人に何か悪いことをして謝りたい時に使う言葉だ。

 

でも、どんな人のどんな行動であれ、

 

「何か『悪いこと』をしてやろう」と考えての行動というものは実はこの世にはほとんどなく、

 

たとえそれが犯罪であろうが、普通には考えられないくらいの非人道的な行動であろうが、

 

当事者にとっては、そこには必ず正義があるものだ。

 

 

で、あれば、本来謝る必要などない。だって良かれと思ってやっているのだから。

 

でも現実社会で、私達は自分が悪いことをしたとは決して思っていないときでも、

 

相手との摩擦を防ぐためや今後の関係性を良好に保つために、

 

潤滑油の役割として「ごめんなさい」を使う。

 

もちろんこれは決して悪いことではない。

 

人との関係性を円滑に保とうとする真摯な気持ちの現れであり、素晴らしい文化だと思う。

 

しかしこの潤滑油としての「ごめんなさい」のメリットは、

 

社会性や政治力がかなり身についてからじゃないと、理解するのは難しいんじゃないだろうか。

 

まだほとんど社会性が備わっていないと思われる2歳児が、必要性を感じることはない気がする。

 

 

好奇心でグラスに手を伸ばし、運悪く、それが割れてしまったことに対し、

 

彼女はおそらく1mmも悪いことをしたとは思っていない。

 

怒られそうなシチュエーションであるとは多分薄々感づいているけれど、

 

(めっちゃ「やっちまった・・・」って顔してた)

 

私たちと彼女との関係性において、潤滑油が必要だとは思っていない。

 

だから娘には、私たちに対して謝る理由なんてどこにもないのだ。

 

その自分の気持ちを、彼女は最後まで突き通したのだ。

 

 

そういえば私は昨日も娘にビスケットをくれたお母さんに対し

 

「ありがとうございますー!」と言った上で、娘に

 

「〇〇ちゃんも、『ありがとう』は?」などと促していたが、

 

これも感謝を強要するなんていうのはとても変な話で、

 

感謝したのは私なんだから、私が勝手にありがとうと言えば良いだけである。

 

そこでもし娘自身も感謝の気持ちを感じていたのなら、娘自身が勝手にありがとうと言うだけだ。

 

 

そんなわけで、またまた娘から大切なことを学んだ。

 

私は今後は娘に対して、ありがとうもごめんなさいも一切促さないでいこうと思う。

 

感謝や謝罪の気持ちを相手に伝えることで、他者との間に良い関係性を築く私の背中を見て、

 

そのメリットをもし彼女自身が感じるならば、きっと自発的に言うようになる。

 

そしてもし自発的に言うようにならなかったとして、それが元で彼女が人間関係に悩んだとしても

 

それは彼女自身の人生であり責任。

 

私にはどうすることもできないのだ。

 

課題の分離って、やっぱりなかなか定着させるまで難しいですなぁ。

 

 

 

しかし、ホント日に日に確信を新たにしているのだけど、

 

やはり子どもというのは私たち大人よりも本質的に正しく生きてますね。

 

これからも娘に学びながら、自分を成長させていこうと思います〜〜〜

 

P.S.

実はこの話には詳細&後日談がありまして、コメント欄には記載していたのですが

こちらにも転載したほうが良いのでは?とアドバイス頂いたので掲載します!
>みるくさん

文中では省略してしまいましたが、私がグラスを片付けている時には
彼女もお手伝いしようとしてくれたり、あとは私からも
「これはママの大事なグラスだったから、割れちゃって悲しいな~」とも
「わざとじゃないのはわかってるんだよ、でも割れちゃって悲しいんだよ~」
「ごめんなさいって言ってくれたら嬉しいな」
などと伝えたりしてみたんですけど、やっぱり頑なだったんですよねぇ・・・。

でも実はこの話には後日談があって、
なんと次の日、娘が唐突に
「ごめんなさい」
って言ってきたんです!!!!!!!
驚きと感動で、褒めちぎった上で泣きました・・・・笑

 

〜後日談ここまで〜

 

 

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