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twitter考
[社説]
2009年10月 5日 15:59
twitter考

 人間の技術の進歩というのは、人間が本来持っていて退化した能力や、持ち得なくて希求した能力の外部化として発展してきたのだと思う。蒸気機関からはじまる駆動系は、より早くより強力な肉体を確保するためだが、情報通信系については、超能力に近いものを求めている。ビデオはタイムワープを疑似的にでも実現したし、インターネットはテレポートやテレスコープを仮想現実の中で実現した。これらの目指すことは究極的には「不老不死」の追及になる。(情報化社会における不老不死の追及については、橘川の1981年発行の処女作「企画書」をご覧ください)

 さて、今年はtwitterの勢いが凄い。以前から話題にはなっていたが、使う人が少なく、今年になってから急速にユーザーが増えたのだと思う。アメリカでの爆発の影響もあるのだろうが、こういうのは大勢の人がやらないと意味がない。ネットワーク型の情報通信は、臨界点を超えると加速度的にユーザー数が増える。

 僕もはじめているが、すぐに気がついたのが「ああ、これはテレパシー能力の追及だな」ということ。もし僕がテレパシー能力を身につけて、他人の心が読めるようになって、渋谷の町を歩いたとしたら、たぶん、こういう声が聞こえてくるんだろうな、と想像する。「腹、減った」とか「今日、見た映画はつまらんかったな」というような、一人一人の心のままが聞こえてくる。

 そう思ったので、これは他人の声を聞いた方が面白いな、と思い、最初は、全く知らない人ばかりを適当にフォローしていった。知人だと、内容に意味を感じすぎて、普通のメールになってしまうだろうと思ったから。そうやって、タイムラインを読んでいると、まさにテレパシー能力者になったような気分になった。

 そのうち、友人・知人がフォローしたりフォローされたりして、実用的な要素が加わってきた。インターネットの前の時代、僕は学芸大学の事務所にホストを用意してパソコン通信をやっていた。友人・知人ばかりを集めた「CB-NET」というものだが、僕の友人で当時通信が出来た連中だから、物書き、編集者、エンジニア、マーケッター、ポンプの元読者など、内容の濃いい連中ばかりが数百人登録して、それは賑やかなものであった。

 その頃「オープンメール」というのをやっていた。メール機能はもちろんあるのだが、BBSの一部屋を「オープンメール」として、公開の場でメールをするのだ。例えば、僕がA君に、「今日飲もうぜ」と書き込む。それは本来はクローズなメールの中で語られることだが、オープンにすることによって、それを見た、共通の友人が「オレも参加してよいか」とその掲示板で書き込むことが出来る。ネット環境の本質は「公私混同」だと、ずっと思っていたので、そういう混乱をパソコン通信の中で推進してきた。

 twitterの感覚は、パソコン通信の感覚である。友だちの友だちまで含めた人間関係の半クローズ、半オープンなコミュニティである。僕的には、知らない人たちの雑踏を作ろうとtwitterをはじめたのだが、現在は、半分程度は知らない人、半分が知人となっている。いっそのこと、知らない人だけフォローするIDと、知り合いだけのIDとに分けようと思ったが、面倒なので、そのままにしてある。

 ちなみに知らない人のフォローの仕方は以下である。

1.まずは適当に知らない人で面白そうな発言をしてる人をフォローする。その人がフォローしている人のリストから、また、発言の片鱗で面白そうな人を探す。
2.男女は交互にした方がよいと思う。面白いと思った人がフォローしている人は、だいたい面白かったりするが、選ぶのは一人だけで次ぎに行く。
3.そうやって、適当に数十人フォローしといて、あとは、時々、タイムラインを読んで、つまらないと思った人のは、フォローをはずす。知り合いだと、一度フォローした人のフォローをはずすと、いやな気分にさせるかも知れないが、知らない人だから気楽(笑)。だんだんと良質なノイズ空間になる。

 これは、僕が投稿雑誌をやってきて、知らない人からの膨大な投稿を読み続けたという経験があるから、こういう方法論をテストする気になったのだろう。実際、これをやってみると、投稿雑誌の編集長になったような気がしますよ。

 さて、twitterが普及して、もう一つ気がついたことがある。掲示板、メール、ブログまでは積極的に参加してきた人でも、twitterはやる人とやらない人がいるということだ。登録しても、せわしないのでやめたとか、どうも僕には合わない、と拒否する人などが少なくない。この辺の微妙な感覚が面白い。

 僕がやっている「リアルテキスト塾」のメソッドの一つに「考えないで書く」というのがある。文章が書けない、という人に限って、考えるという迷路に入ってしまうことが多いので、そういう人をバカにしたメソッド。詳しくは、省くが、要するに、文書というのは心を動かせつつ反応して書くべきなのである。立ち止まって考えて書く人ほど、twitterには向いてないと思う。ここには、リアルタイムな反応しかないのだから。反応知とでも言うか。

 固定的な自分を大切にする人や、自分の立場を重視する人はtwitterは向いていないと思う。自分を半開きにして、外の世界とつながることの出来る人にとっては、twitterは、ごく自然なおしゃべり感覚を満足させるだろう。自分と世界を融合させることが、たぶん、twitterの本質だと思う。

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出版の未来(4)Twitterと本の役割について
[社説]
2009年12月 6日 04:31
◇僕は自分の人生でやるべきことを19才ぐらいの頃に漠然と思っていて、20代は時代の中心を走り抜ける、と決めた。30才になったら、自分自身がより若い世代に乗り越えられるようになるだろうから、時代から少しずれたところに身を置こうと思っていた。

◇20代はロッキングオンという雑誌と共に時代を走り抜けたつもりだ。そして、30才になった時に、20代の時に得たものをすべて捨てて、身軽になり、単行本を書いた。1980年の「企画書」という本だ。そこから20年間、ほぼ4年に一冊の割で、自分にとって重要な本を出し続けてきた。自分の考えやイメージを単行本にまとめるには、それなりの時間がかかる。4年に一冊と決めたのは直感からだけど、オリンピックが4年に一回というのは、スポーツ選手の力量が熟すのにも、そのくらいの期間が必要なのだということではないか。50才を超えると、更に身軽になり、本を不定期に出し続けているが、自分にとって大事な本は、30代に書いた何冊かの本だ。

◇さて、Twitterの意味だ。僕は「自分が見たもの、感じたことを伝えたい」という内的衝動から雑誌を作ったり本を書いたりしてきた。「雑誌を作りたい、本を出したい」というのが先にあったのではない。僕が今10代だったとしたら、おそらく雑誌は出さないだろうし、本も書かなかっただろう。それは、インターネットがあるからだ。

◇アメリカの若くて優れたエンジニアたちは、かつてはマイクロソフトに入社してOSの開発に従事するのが憧れだった。自分の開発したシステムが世界の人たちに使ってもらえる喜びが得られるのだから。しかし、今はGoogleに入社するのが憧れとなっている。それは、MSで開発しても、自分の開発した技術が世の中に出るのはOSのバージョンアップ時期、すなわち数年先になるからだ。それに対して、Googleで開発すれば、それが優れた可能性があると判断されたら、来月にでも採用される。このリアルタイム感を知ってしまったら、OSのバージョンアップ期間の長さが若い才能にしてみれば苦痛になるということだ。

◇表現する側の要素は、かつては「深める、追及する、完成させる」ということが大事だったけど、それに「速度」という要素がついてきたのだと思う。表現の速度について、最もシンボリックなメディアがTwitterである。思いついてから誰かに伝えるまでの時間的距離がほとんどない。

◇Twitterは旧来型の表現者には抵抗があると思う。旧来型の表現者は、自分の思ったことをまず自分の内部にため込み、熟成発酵させてから、自分なりの表現として世の中に出して対価を得るものであった。思ったり感じたりしたことを、すぐにTwitterに出したら、何かもったいないような気がして、躊躇するのだろう。しかし、問題は「表現をしたいのか(本を出したいのか)」、「思ったり感じたりしたいことを伝えたいのか」ということになる。後者の意識が強い人はTwitterに向いているし、前者の意識が強い人はTwitterに向いていない。

◇さて、さきほど、僕が今10代だったら本は出さない、と書いたが、それは嘘です(笑)。本を出す意味が変わってくるだろうということです。かつてはインターネットがなかったから、雑誌や本でしか、自分の内部の表現衝動やコミュニケーション衝動を発露する場所がなかった。しかし、今は、それはインターネット上にある。衝動的な表現をしたあとで、整理・吟味・反芻した結果としての本の役割は別物だと思う。そして、その行為を実現するには、やはり個人にとっては4年程度の時間が必要なのだと思う。

◇今の出版崩壊は、本来の本を生産するのに必要な時間サイクルを無視して、雑誌のような本を大量に発行することによって拡大した市場が滅びていくということである。村上春樹のベストセラーは、やはり本を出すには、それなりの時間が必要だということを示している。3時間のインタビューで1冊の本を作りだすシステムでは、インターネットに勝てない。アイドルと同じで時代の旬が過ぎたら飽きられる消費物になるだろう。インターネットを使えばいくらでもネタとアイデアを拾って本という形式に落とし込むことは出来る。しかし、そんなものは「本」とは呼ばないのだ。インターネットの時代であるからこそ、本来の本を作るために使われる時間と努力と才能が重要になってくるのだと思う。

◇時代はもういちど、本来の本とは何かを思い出せ、と命じているのだろう。

●橘川幸夫


「ツイッター信者」にその素晴らしさを熱く語られたときの平和で適当なかわし方

http://diamond.jp/articles/-/7884 (DAIYAMOND ONLINE)

 ツイッターほど、はまっている人と興味がない人との温度差が激しいツールはないと言えるでしょう。

 前回でも触れましたが、はまっている人の中には、「ツイッターの素晴らしさをもっと広く伝えなければ!」という使命感を抱いて、ことあるごとに啓蒙活動に励もうとする“信者”が少なくありません。

 その博愛の気持ちは尊いといえば尊いのですが、勧められる側がさほどツイッターに興味がない場合は、どう対処していいのか困ります。今日も全国各地で、ツイッター信者の熱い勧誘を受けて、勧められる側が苦笑いを浮かべているという構図が繰り広げられていることでしょう。

 ツイッターをやっていない側のあなたが、そういう災難にあったときはどう対処すればいいのか。信者の勧誘に対する平和で適当なかわし方を考えてみましょう。

「ツイッター様」を否定するのは危険

 程度の差こそあれ、ツイッターを熱く勧めたがる信者のみなさんは、「ツイッターによってもたらされる新たな可能性」を信じ、そんなツイッターと人より早く仲を深めていることに、ちょっぴり優越感を抱いていると言えるでしょう。どう見ても熱が入りすぎている人の中には、ツイッターに過大な望みを託して、いまいち不本意な現状から自分を救い出してくれる救世主のように見ているように思えるケースもあります。

 いや、あくまで極端な例をあげているだけなので、「俺は違う!」とムキにならないでください。もちろん、私の周囲のツイッター好きのみなさんに対して、私がそういう目を向けているわけでもありません。

 今後の人間関係を考慮した言い訳で話がそれましたが、ツイッターを熱く勧めてくる人にとって、ツイッターにはまっていることが誇りであることは確か。何はさておき、そこを見逃さないようにしましょう。

 たとえば、最近ツイッターにはまっている同僚に、「お前もやったほうがいいよ」と熱心に勧められたとします。楽しさを説かれても、いまいちピンと来ないからといって、

「うーん、よくわかんないなあ。みんなが勝手につぶやき合ってるなんて、なんか気持ち悪い世界のようにも思えるけど」

「そのフォローっていうのをされてても、自分のつぶやきを読んでもらえる保証はないし、知り合いのつぶやきを見逃す可能性も高いわけでしょ。なんか失礼だよね」

 などと、偉大なる「ツイッター様」の仕組みを否定する言い方をしてしまうのは危険すぎます。


ムキになってさらに熱く語ってくるぐらいならまだしも、「ハァ~」と深いため息をつきながら、救いがたい愚か者を見るような目を向けてくるかもしれません。

 まあ、わかり合えなくてもべつにいいといえばいいんですけど、お互い、相手に悪い感情を抱くきっかけになるのは避けたいところです。向こうだって、今の時期たまたまツイッターにはまっているだけで、けっして悪気があるわけじゃないし、人間として何かを失ってしまったわけでもありません。

 一生懸命にツイッターの魅力を語ってくれたら、たとえピンと来なくても、

「なるほど、そういうふうにゆるくつながるっていうのも、ユニークな考え方だね」

 と、独自性に衝撃を受けたかのような反応をしておくのが、大人の包容力であり相手をそれなりに満足させるマナーです。

 そういうふうに言えば喜ぶのはわかっていても、まるでその相手までホメるみたいで抵抗がある場合は、質問に逃げましょう。

「ミクシィとかとはどう違うの?」

 と、ライバルの名前を持ち出してきて、ツイッターの優位性をさらに語らせるもよし、

「なんか書くたびに、いちいち『なう』って言わなきゃいけないんでしょ?」

 そんな歪んだ先入観丸出しの誤解をわざとぶつけて、ひとしきり説明させるもよし。

 いずれにせよ、どうでもいいと思っている気持ちを覆い隠したまま、相手にそれなりの満足を覚えてもらうことができます。

はまりっぷりを批判するのはもっと危険

 まったくツイッターをやったことがないわけではなく、ちょっと前にアカウントを取得してやってみたけど、はまれなくて放置してあるケースも、けっこう多そうです。


そういう状態にあるあなたに、はまっている同僚が例によって熱い口調で、

「まずは、いろんな人を探して100人フォローしてみると、面白さがわかるよ」

「何でもいいからどんどんつぶやくと、そのうち反応が返ってきて楽しくなるよ」

 とツイッター教、じゃなかった、ツイッター界における定番の説得フレーズを説いてきたとします。「ほお、そういうもんなんだ。今度やってみるよ」と適当に納得しておくのはいいとして、つい勢いで、

「しかし、ずっぽりはまってるねー。ツイッターの話をするときは生き生きしてるし」

 などと冷やかしてしまわないように気をつけましょう。はまっている人は、誇らしさの裏側に、多くは無自覚にですけど、

「自信がなくてツイッターにすがっているように見えるんじゃないか」

「根の深い寂しさをツイッターで紛らわそうとしているように見えるんじゃないか」

 といった不安を抱えています。何気ない冷やかしが引き金になって、心の奥の地雷を踏んでしまいかねません。

 そこまでややこしい話じゃなくても、はまりっぷりを感心するセリフの裏側に、

「よっぽどヒマなんだな」

「その分、もっと仕事しろよ」

 というつぶやきの気配を勝手に察知してしまいがち。

 なんせ日頃からつぶやき慣れているだけに、相手の心のつぶやきに対してもきっと敏感です。仮にカケラも思っていなかったとしても(カケラも思っていないケースは稀ですが)、相手はそう受け取るでしょう。


はまりっぷりに対しては、ひたすら、

「オレも早くはまりたいなあ」

 とうらやましがるのが無難であり、相手に対する大人のやさしさ。単なるおためごかしではなく、そのセリフを聞いたときの相手の満足そうな表情を見ることで、大人としての深い喜びも味わえるでしょう。

ツイッターをきっかけに
相手と仲良くなる方法

 仮に、ツイッターの話題をきっかけに相手との距離を縮めたいなら、その場の口先だけではなく、次に顔を合わせたときに、

「あれから、あの人とかあの人とか、50人ぐらいフォローしてみたよ」

 と具体的な実績を話せばバッチリです。

 熱く勧めてきた相手が、上司だったり仲良くなりたい異性だったりした場合は、とりあえず勧められたとおりにやってみて、ツイッターの魔力に魅せられたフリをしましょう。

「やってみると面白いですねー。勧めてもらってよかったです」

 とまで言っておけば、さらに完璧。たとえ動機が不順でも、それをきっかけにはまってくれればこっちのものだし、信者としてはこの上ない喜びを……おっと、最後に本音が出てしまいました。

 曖昧な立場で書いてきましたが、私も何を隠そう、そこそこ熱心にツイッターを楽しんでいる信者のひとりです(ちなみに、アカウントは「otonaryoku」です)。

 この記事は、熱く勧めがちな己への自戒をこめたり、自己防衛の伏線を貼ったりしながら書かせていただきました。そんなことを踏まえつつ、それぞれのニーズや好みに応じてお役立ていただければ幸いです。

 次回も、引き続きツイッターをテーマにしてみたいと思います。飲み会の席などで、いっしょにいる人が頻繁に書き込みを始めた場合の対処法や、自分が書き込みをしたい場合の振る舞い方について考えてみましょう。