その5日の午後、著名な政治ジャーナリストが、会うなりこう尋ねた。
 「小沢一郎不起訴を朝日、毎日、共同に流したのは、樋渡だって、ホント?」
 いまや事件通でなくても知っている検察のトップの名だ。そんな具体的な名前がメディアの側から挙がっていること自体に驚かされた。実際は、ぶら下がりと呼ばれる、各社の取材に見通しを答えたというのが真相のようだ。だが、昨年の西松建設事件以降、「小沢一郎VS検察」の図式が、どれほど喧伝されたであろうか。年が明けると「最終戦争」の物々しい4文字がメディアを賑わす。
 「心は熱く、頭は冷静」であるはずのジャーナリストたちが、こぞって「小沢贔屓」いや「民主党贔屓」と「特捜贔屓」というより「アンチ小沢」に分かれて場外乱闘を繰り返す。「それリークだ」「疑惑解明だ」そして、双方が、「政治的」を口にする。小沢贔屓側が、「民主党政権を潰すための恣意的、意図的、政政治的謀略捜査だ」と批判すれば、片や特捜贔屓側は、「小沢は疑惑のデパート。疑惑があれば、その解明に乗り出すのは当然の職務だ」とエールを送る。これでは、客観報道は望むべくもない。

望むべくもない。「いやいや報道に元々客観性など存在しないんだ」との声が聞こえて来そうだ。
 マスメディアの機能のひとつに、いまや形骸化した権力監視があるが、政治権力と検察権力双方に対して本来の権力監視を発揮できたのか。それらを検証すべく、旧知の検察担当記者、デスク、元特捜関係者、さらに現役の検察幹部にも話を聞いてみた。
 まず、「リーク報道」の有無である。私は、「検察リーク」説に懐疑的な一人だった。と言うのも17年間司法記者クラブに籍を置いて、「リーク批判」が出るたびに、「リークとは何か」、何度も首を傾げた経験を持つからだ。
 大辞林によれば、「Leak」の意味は、秘密や情報を意図的に漏らすこととある。つまり特捜部が小沢捜査を思い通りに運ぶため、「情報操作」を行っているのではないかが問われているところだ。正直に言って自分の体験から、「検察に都合の良いように、意図的に情報が漏らされた」と気づいた事件は、17年間で1件だけである。
 それは1986年7月から8月にかけて捜査が行われた平和相互銀行事件の時のことである。この事件の背後には、竹下登の金屏風事件があり、竹下まで

事件を展開させたい特捜部の現場グループと、早く終結させて住友銀行との合併に尽力したい法務・検察幹部との水面下での対立があった。
 事件は関係者の起訴をもって8月に終了と思っていたが、特捜検事から耳打ちされた。「実は、まだ捜査はやっていて、秋からの第二弾を準備している」そこで、起訴当日のニュース原稿に、「起訴後も特捜部は、さらに捜査を続ける模様」という観測記事を書いてしまった、いや書かされてしまった。住友関係者や別の検察サイドからも抗議や注意が来た苦い思い出がある。しかし、このことは「リーク」だったのか、それとも夜討ち朝駆けに疲れた記者の顔を見て、「現場派」(たしか特捜・梁山泊と言われていた記憶がある)の検事が同情して、思わず漏らしてくれたのかも知れない。それでも、どこかに「書かせよう」とする意図が働いていたことは否定できないだろう。
 当時の検察担当記者は、平均睡眠時間4時間から6時間、ほぼ年中無休。午前1時半の朝刊締め切り時刻が取材終了の目安という生活を3年も4年も続けていたが、我が身を振り返って「リーク?」してもらった記憶は皆無だ。

確かに取材源からネタも情報も取った。それは、政治記者、経済記者同様、正当な取材活動の中から培った人間関係がベースになっていて、相手にとっては何のメリットもない、いやいろいろな意味でデメリットの方が大きかったと思う。たしかにこちらから持ち込んでいく情報もあったが、むしろ人間同士の信頼関係からネタをとることが出来たのであって、意図的に、あるいは情報操作のために漏らすという意識を彼らは持っていなかったと断言できる。というのも情報は、いつも端(は)布(ぎれ)のような小さなもので、それだけではとても生地(記事)として成り立たず、さらに別の端切(情報)をいくつもいくつも継ぎ足さねば、まともな生地(記事)に仕上がらない。
 「リーク」批判について司法記者の多くが反論しないのは、言っても解って貰えないだろうという諦めと、そんなことを今更説明しても仕方がないといった醒めた感覚からだと思う。外部の人、取材したことのない人に、いくら検察取材の過酷さ、それは肉体的だけでなく、取材の難しさ、問答の難解さ、時間の取り方(夜討ち朝駆けのタイミング)、さらに取材対象の気むずかしさなど諸々あるのだが、説明のしようがない。
 「そんなに簡単にリークしてくれるというのなら、一緒に毎晩夜回りに付いてくるといい」と言ってみたところだろうが、やはり無駄だなと妙に納得してしまう。
 今回もそんな思いで外から、「リーク批判」を聞いていた。それが先月、旧知の編集委員とお茶を飲んでいて、その話に及んだとき、今回は些か、いや大いに事情が違うと言うのだ。す

今回もそんな思いで外から、「リーク批判」を聞いていた。それが先月、旧知の編集委員とお茶を飲んでいて、その話に及んだとき、今回は些か、いや大いに事情が違うと言うのだ。すぐに親しい司法記者に直に話を聞いてみると即座に反応した。
 「そうなんですよ、地検の誰々、最高検の誰々が完全に情報を操作していますよ」
 なぜそんなことが断定できるのかと問うと、「アイツ酷いんですよ。そこにも、あそこにも同じ話をしていて、書くように煽るんですよ」という。
 また新聞社の司法キャップは、あっさりこう話してくれた。
 「いままで記者に対応していなかった幹部が、『もっと書け』とけしかけるんですよ(笑い)。こりゃ相当焦っているなと思いました」
 我が耳を疑った。それだけ捜査が順調に行っていない証拠だと思った。そんなときほど、脆弱な部隊長は、進軍ラッパを吹き鳴らして気分だけでも高揚させたくなる。しかもマスメディアが飛びつきたくなるようなネタをぶら下げてくる。これは書かざるを得ない。という図式が定型化する。
 しかし東京地検特捜部である。最後の最後で「ワリシンお持ちですね」と、かつての金丸信捜査と同じ隠し球があると確信に近いものがあった

それがとうの昔になくなってしまった「特捜神話」であり「特捜部幻想」だった。こうした「幻想」を引きずりながら、「小沢批判キャンペーン」は、ドンドン過熱し、拡散していく。が、年が明けて、1月も後半になると、「どうもトーンが落ちてきたなと感じることが少なくなかったんです」(前出・司法記者)。