検察審査会は西部劇映画のリンチか
(日刊ゲンダイ2010/4/26)

◇検察庁が不起訴にした犯罪を法律のシロウトの一般人が強制執行して有罪にするなら司法官庁は初めから不用
検察の不起訴処分の当否を判断する「検察審査会」(検審)が連日、話題を集めている。昨春に改正検察審査会法が施行され、検察官が独占してきた「起訴権限」に市民感情を反映させるようになったが、そもそも事件について「法と証拠」にのっとって起訴、不起訴を判断するのは検察の仕事だ。法律に素人の一般人が起訴と判断して有罪にできるのなら、司法官庁は必要ないんじゃないのか。
◇この国の検察はそれほど腐敗しているのか
検審は、くじで選ばれた任期半年の市民11人が、検察官が不起訴処分とした事件を審査。不起訴が妥当なら「不起訴相当」、不適当なら「不起訴不当」か「起訴相当」と議決する。昨年5月の改正法で、「起訴相当」を受けた検察官が再び不起訴にした場合、検審が8人以上の賛成で「起訴すべき」と議決すれば、裁判所指定の弁護士が検察官に代わって起訴することができるようになった。
「日本の検察官の起訴独占主義は独特の制度です。戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は、米国のように起訴権限を持つ大陪審や検事公選制の導入を求めたのですが、日本側が猛反発した経緯がある。代わりに検審が導入されたものの、改正法施行前までは議決に法的拘束力がありませんでした。近年、司法制度改革が叫ばれるようになり、裁判員制度と同様、『司法に市民の目を向けさせる』狙いもあって今の制度に変わったのです」(法務省担当記者)
「特高警察」と化した一部のカン違い検察官と、身内に甘い法務官僚の“非常識"に市民常識を反映させることは画期的だし、重要だ。しかし、ここで疑問が生じる。はたして、素人がどうやって黒白をつけるのかだ。
「検審の判断が捜査資料に基づくなら、検察の処分と変わるはずがない。というより、同じ証拠資料で判断が百八十度違ったらそれこそおかしい。一方、市民感情を優先して判断するなら、何も証拠はいらない。これはちょっと恐ろしい。一歩間違えれば、西部劇映画のリンチになりかねません」(司法ジャーナリスト)
「検察審査会の午後」の著者で、検審に詳しい作家の佐野洋氏もこう言った。
「検審では審査員らがいろいろと意見を言っているようなイメージがあるが、選ばれた人に取材すると、事務局側の説明資料に沿って淡々と審査が進んでいくようです」
事務局の“意向"や、世論のムードに流されかねない危険性があるのだ。
審査手順もマチマチだ。
「関西地方のある検審では、不起訴相当以外を選んだ審査員は理由を記入しないといけないため、不起訴相当の結論が出やすいといいます。一方、関東地方のある検審では、単純に起訴相当などを選ぶ無記名投票式。東北地方のある検審では挙手です。同じ『不起訴相当』『不起訴不当』『起訴相当』議決であっても、やり方が全然違うのです」(前出の法務省担当記者)
事故発生からきのう(25日)で5年を迎えた兵庫県尼崎市のJR福知山線脱線事故では、神戸第1検審が「起訴相当」の議決を下し、JR西日本の井手正敬元相談役(75)ら歴代社長3人が業務上過失致死傷罪で在宅起訴になった。また、議決が月内にも出る見通しと報じられる鳩山首相や民主党の小沢幹事長の資金管理団体をめぐる政治資金規正法違反事件も、検審がひっくり返す可能性がささやかれている。
しかし、検察の「怠慢」や「暴走」を止めるはずの検審が、原告にすら審査期日が明らかにされず、過程も見えないままでいいのか。そもそも検察がキチンとした捜査をすればいい話である。そんなに検察は政治に弱いのか。配慮するのか。素人が検察の判断を繰り返し否定するようでは、検察への不信感は消えないのだ。