「市民感覚の正義」と検察の「素朴な正義」がひとつになる危うさ (現代ビジネス 2010年04月29日)

伊藤 博敏 http://bit.ly/9JcX4j


小沢捜査に執念を見せる特捜部

検察審査会の議決書には、国民が注目する歴史的事件に立ち会っている審査員たちの気持ちの高ぶりが、十分に書き込まれていた。

「『秘書に任せていた』と言えば、政治家本人の責任は問われなくていいのか」

「『政治とカネ』にまつわる政治不信が高まっている状況下にもあり、市民目線からは許し難い」

「本件については、小沢氏を起訴して公開の場で真実の事実関係と責任の所在を明らかにすべきである。これこそが善良な市民としての感覚である」


 東京第5検察審査会は、27日、小沢一郎民主党幹事長の政治資金規正法違反事件に絡み、小沢氏を不起訴(容疑不十分)とした東京地検特捜部の処分を不当として、「起訴相当」と議決した。

 新聞各社は、一様に、検察審査会の「市民目線」や「善良な市民感覚」といった言葉を抵抗なく受け止め、捜査のプロであり、起訴するかどうかを決める検察に、「捜査を尽くせ!」と、奮起を促した。

 裁判員制度を創設、改正検察審査会法によって強制起訴への道を開くなど、国民を司法に巻き込む司法制度改革によって、司法がプロの世界からアマチュアの感覚を取り入れた世界に移行する動きは続いていた。その結果が、4億円もの住宅資金を動かすのに、小沢氏に報告、了承を得ないわけがない、というのが「市民感覚」だろう。

 しかし、小沢氏の「起訴相当」を厳しく重く受け止める前に、「市民感覚」の是非を問うべきだろう。「市民」が、「法」より「感覚」を優先、「正義」を遂行していいものか。そこには、自らの感情におもねって「正義」を実現しようとする検察と同じ危うさがある。


最初からターゲットを決めて狙う検察捜査
 いうまでもなく、法治国家では「法の前の平等」が認められている。地位や身分や職業に関係なく、「法」によって裁かれ、だから逆説的になるが、脱法行為が横行する。カネと権力を握る者は、いかに「法」を逃れ、「税」を逃れ、自分に有利なように「法」を利用するかに腐心する。

 そうした権力者の監視装置として機能してきたのが検察、なかでも捜査権と公訴権を駆使して「政財官の癒着」に切り込み、政治家の不正を暴いてきた特捜検察だった。

 ロッキード、リクルートなど数々の疑獄を暴いてきた特捜部だが、捜査対象となった政治家や企業経営者は、一様に「検察ファッショ」を口にした。「逮捕ありき」で事件を組み立て、それに沿って捜査、強引に自白を迫り、その自白調書で事件を作りあげる、というのである。

 間違ってはいない。東京、大阪、名古屋の3地検にしか特捜部は置かれておらず、合わせても検事の数は60名前後に過ぎない。これで権力の監視装置など無理な話だ。政治家や官僚すべてに目配りすることなどできない。

そこであらかじめ利権政治家、特定起業に癒着する官僚組織、怪しい企業と睨んだターゲットをリストアップ、内部告発などによって端緒が見つかれば集中捜査する。

 おそろしく恣意的である。しかも、起訴に向けて事件を組み立てるのだから、「シナリオ捜査」となる。また、事件にするかしないかの判断は、公訴権を独占する検察に委ねられている。その基準は事件化が国にとって有益かどうか。そういう意味で特捜案件はすべて「国策捜査」といっていい。

 では検事は、数ある疑惑のなから何を基準に立件すべき事件を選ぶのか。歴代の特捜部長が、就任記者会見などで共通して述べるのは、「権力を利用して不正を働くような強者への怒り」である。そこにあるのは「素朴な正義感」だ。

「小沢捜査」を指揮したのは、佐久間達哉特捜部長だ。「小沢起訴」へのハードルを高くするなど捜査に慎重だった樋渡利秋最高検検事総長、伊藤鉄男最高検次長、大林宏東京高検検事長など検察首脳に対峙、捜査の継続と「小沢起訴」を"進言"したのは、大鶴基成最高検東京担当検事だった。

 大鶴氏が特捜部長時代に佐藤栄佐久元福島県知事を収賄で逮捕、その時、副部長として支えたのが佐久間部長だ。二人は「東北の談合事情に詳しい」という自負があり、それが「胆沢ダム」の工事業者を徹底聴取、裏ガネが小沢氏の政治団体に回っていることを立証し、「小沢起訴」につなげようとする捜査となった。

 ただ、サブコンの水谷建設から「5000万円を小沢事務所の秘書に渡した」という供述は得たものの、起訴された石川知裕元秘書(現代議士)は頑強に否定。「秘書のカベ」を突破することができず、「小沢起訴」を断念した。


大鶴検事の執念
 しかし大鶴検事は諦めない。

 捜査継続を志願、3月1日付で東京地検次席検事となった。直接の現場指揮官ではないが、特捜部長の直属の上司として捜査を支え、指揮することもできる。大鶴次席は、今回の「起訴相当」を読んでいたように、ゼネコンやサブコンに対する水面下の捜査を指示、仮出所(脱税事件で服役していた)した水谷功水谷建設元会長などの聴取を行っている。

 このしつこさの原点ともいうべき大鶴次席の言葉がある。

「不当に利益を貪ろうという人たちは、摘発されないように巧妙な仕組みを作っているのですから、多少の困難を前にして捜査を諦めたのでは、彼らの思うつぼです」

 そこにあるには、不正は許さないという「素朴な正義感」である。

 ここで検察審査会の「市民の正義感」と特捜検事の「素朴な正義感」がシンクロする。これは、ある意味で怖いことである。

 検察が暴走するのは、無罪判決が確実視されている大阪地検が摘発した村木厚子元厚労省局長の事件などでも明らかだ。この暴走は、捜査権と公訴権を持ち、マスコミ本流の「司法記者会」を味方につけているという傲慢さが生んだといっていい。

 そうした暴走は、「法」ではなく「正義」という感情から発する。そして、検察審査会もまた市民目線の「正義」で判断を下すのでは、「グレー」に色分けされた被疑者は、感情によって起訴されることになる。「法」ではなく、「正義」という感情が被疑者を追い詰めることが正しいのかどうかを、論議すべき時に来ている。