検察庁法の起源  http://bit.ly/caF4Yr


誠実な刑事局長答弁
 小沢一郎民主党幹事長の政治資金規正法違反捜査をめぐる検察と民主党との抗争は、検察側が小沢氏の不起訴を決定したことで、一応沈静化した。今回の一連の出来事を単なる司法的現象と理解するのは浅薄にすぎるだろう。御厨貴東大教授はいみじくもこう指摘している。
 「検察が政治的動きと無関係に捜査するというのは建前にすぎない。議員の逮捕は国会が始まる直前であり、国会審議を通常の状態では行わせないと検察側が宣言したようなものである。この意味で、検察が先手を打って政治に介入してきたという印象を受ける。つまり小沢氏と検察の対決は、むきだしの権力者同士による政と官の対決と見ることができる」(『中央公論』平成22年3月号)
 私も、これは政治史的に見て、政と官の権力闘争と見るほうが正鵠を得ていると思う。では何故、このような権力闘争が生じたのか。
 

今回は、検察庁法の起源をたどることで、この問題を考えていきたい。
 先日、予算委員会の分科会で「検察庁法」の解釈について、法務省の西川刑事局長に聞く機会があった。検事総長も事事務次官も通常は国会答弁には出てこないので、検察関係の問題には刑事局長が責任を持って答えるのが慣例となっている。そこでこういう問答をした。
 まず「検事総長は民間人でもなれるか」との問いには「なれる」と。これは異論のないところだ。続いて「国会議員はなれるか」と聞くと「憲法上排除すべき理由はない」と。これも正しい。国会法上に議員の兼職制限の規定があるが、この改正は前例があるので障害にはならない。問題は「法務大臣と検事総長は兼職が可能か」との問いだ。私は直ちに否定するかと思っていたのだが、刑事局長はこう答えた。
 「検察庁法15条によりますと、検事総長、次長検事、各検事長は一級として、その任免は内閣が行い、天皇がこれを認証するということでございますので、基本的には内閣が決めるということでございますので、内閣がお決めになるということだろうと思っております。」
 内心「ほぉー」という感じだった。西川氏はまじめな刑事局長だな、と至極感心した。私は彼が14条を盾に即否定すると予想していたので意外の感に打たれたのである。  
 検察庁法の15条を主にして解釈すれば、内閣が良しと判断すれば、兼職も不可能ではないということになる。他方、14条を重しとして解釈すると、指揮権を有する法相と被指揮権者である検事総長が同一人で良いかという問題が生ずる。だから私は、西川刑事局長が、15条のみに言及したことを高く評価した。
 議院内閣制の諸国には例があるように、法務大臣が検事総長を兼任することは、検察組織への民主的統制にとって意義あることだ。日本でも検察改革を議論するときに頭から否定するようなことがあってはならない。
 かつて私は、終戦直後の検察庁法制定過程について関心をもち、可能な限りの文書(注)に目を通したのだが、その過程で様々な議論があったことを知った。
 「検事総長はその地位に於て(或は国務大臣として)閣議に列席し、議会に出席し、国会に対して検察につき直接責めに任ずべきものとすること」
 これは昭和21年3月に司法省が管下の諸機関を対象にして意見を徴集した際(臨時司法制度改正準備協議会)の、東京民事地方裁判所のものだ。議院内閣制つまり政党政治の原理からいえばこれが正論だろう。
 司法法制審議会でまとめ役を務めた兼子一らも、検事総長と司法大臣の兼任、検事総長の閣僚化を主張しており、司法法制審議会の最初の会合(昭21・7・12 )では、「司法省を存置する場合、検事総長を司法省の長官とする考えはどうか」と問題提起がなされていた。
 また、その分離が決まった後の「第一次検察庁要綱案」(昭21・7・24)では「検事総長の任命は国会の推薦又は承認を必要とする」とされ、それが司法法制審議会で否定された後も「第二次検察庁法要綱案」(昭21・8・5)で「検事総長は参議院の承認により」と改めて提案されている。
 敗戦後、司法省の少壮官僚たちは、検察の民主化を求める在野の憲法私案やGHQの意向を強く意識してこうした「要綱」を起草したのだが、司法法制審議会に集められた戦前的思考の司法界の大家たちによって、検察へ民主的正当性を付与する条項は次々に削られていった。


戦後検察庁法の思想
 検察庁法制定当時の検察内部の意見は「検察庁は内閣の外に立つ独立機関たるべしという意見が圧倒的だった」(出射義夫『検察の面でみた刑事訴訟法の25年』―『ジュリスト』昭49・1・1 )。彼らは、昭和戦前期の「検察権の独立」の観念に強く支配されていたので、戦後憲法のもとで政党内閣が常態化し、政党出身の司法大臣が検察組織に君臨することを病的に警戒していた。
 他方において、在野には戦前の検察ファッショ復活への警戒感が根強く、また何よりGHQ(占領軍最高司令部)が検察の民主的統制に強い関心を持っている以上、統帥権の独立にも似た検察権の独立を表立って維持することは難しいという判断も、司法省内にはあった。
 そうした政治状況の中で、実際に出来上がった「検察庁法」は、政党出身の司法大臣を容認する代わりに、検事総長の任命には国会の関与を排除し、また司法大臣の監督権限を制限する条項(現14条)を設けて、検察への「一般」的指揮権を認める一方、個々の捜査については検事総長を通じてのみ指揮できる、という妥協案に落ち着いたのだ。
 今もそうだが、当時の検察官僚の政党への不信感、警戒感は相当のものだった。
 「検察庁法の制定される以前には、政治体制が異なっており、多年検察実務の運用になれた検事出身者が検察内部から司法大臣に就任する慣行があったため、内閣の政治力が検察に不当な影響を与えるような考慮は必要なく、したがってかかる規定をおく必要はなかった。…司法大臣の検察に対する指揮権を認めないか、検事総長が司法大臣をかねる制度を設ければ、政党の不当な政治力が検察に影響を及ぼす懸念はなくなるという考慮はないではなかったが、憲法改正草案は内閣総理大臣に国務大臣の任命、罷免の権限を予想していたので、内閣総理大臣が閣僚中に罷免できないものを置くこと、あるいは法務行政について内閣に責任を負わぬ司法大臣を置くことは、明らかに憲法に抵触することであり、実現できないことだと考えた」(最高検察庁中央広報部『検察制度10年の回顧』―『法曹時報』第10巻第1号所収)
 要するに、軍部大臣現役制のような政党内閣に左右されない(国会に責任を負わない)司法大臣ならいいが、憲法上それは無理なので、司法大臣と検事総長を分離したということだ。そこには、司法大臣を政党に取られても検事総長ポストだけは検察官僚で死守するという執念があった。
 「検事出身者が検察内部から司法大臣に就任する慣行」とは、五・一五事件により政党内閣の時代が終焉してからのことである。それまでは、松田正久、原敬、横田千之助、小川平吉など、政党領袖が就任することがめずらしくなかった。
 戦後検察庁法の「思想」は、政党内閣の時代を「否」とし、昭和戦前期の官僚・軍部内閣時代を「可」とするものであったことを知らなければならない。
 言いかえれば、検察庁法は、新憲法の「議院内閣制(政党政治)」の原理と、戦前からの「検察権の独立」論の妥協の産物であり、それ故いずれの論理が優先するかは極めて曖昧に作られている。
 政党にすれば、油断しているとたちまち検察ファッショが息を吹き返してくるかもしれない、逆に検察官僚にすれば、政党からの検察権干犯の危機に常にさらされている、双方がそのように意識せざるを得ないような微妙な均衡の上に成立しているのである。
 なんらかの要因によって、検察庁法の曖昧さに由来するこの微妙な均衡が崩れるとき、大きな政治的抗争に発展することになる。その例が、遠くに造船疑獄、近くに今回の小沢事件があるということだ。

『近代日本の司法権と政党』
 

では、「検察権の独立」論とは、何時、如何にして生まれたのか。
 戦前の「裁判所構成法」では、検察組織(検事局)が裁判所に付随するものとされ、裁判所と検事局の人事・行政を統括する司法省の権限は強大なものだった。旧法下の検事局はもともと捜査を担当する機関ではなかったのだが、明治末年の日糖疑獄や大逆事件の捜査を通じて、その政治的影響力を拡大していった。それを主導したのが平沼騏一郎である。
 司法部は、藩閥に代わる統治勢力として成長してきた大正デモクラシー期の政党にとって、「統帥権の独立」を主張する軍部とともに、政党政治確立の前に立ちはだかる胸壁となった。
 三谷太一郎著『近代日本の司法権と政党』(昭44)は、政治的影響力を増す検察勢力と、これを抑制しようと奮闘する原敬の政治指導を描いた日本政党政治史研究の傑作である。
 「司法部は明治40年代から大正前期にかけて、政治的疑獄への積極的介入を通して一個の政治勢力に成長する。…司法部はこの間に官僚閥・軍部・政党とならぶ、いわば第四の政治勢力となる。そしてそれに伴なって、『司法権の独立』は積極的な政治的意味をもつにいたる。平沼を先頭とする検察権の台頭は『司法権の独立』が『検察権の独立』を含むものとして観念せしめるに至る」「『司法権独立』の広義化、あるいは政治化は、昭和期にはいるとますます進行する」
 司法権の独立は検察権の独立へと拡大解釈され、ついには、統帥権の独立に等しい攻撃的政治イデオロギーと化して、帝人事件に象徴される検察ファッショを誘発することとなった。
 大正7年、政友会を率いて初の政党内閣を組織した原敬は、一方において『陪審制度』の導入によって司法部の政治的影響力を抑制しようと図り、自ら司法大臣を兼任してこれを推進し、司法部の利益を代弁する枢密院と果敢に戦った。
 他方で、司法部の実力者平沼騏一郎やその子分の鈴木喜三郎を懐柔することで、司法部を親政党勢力化することを目指した。原内閣は裁判所構成法を改正し、検事総長を親任官とする道を開いた。これによって検事総長の地位は、司法大臣、大審院長と並んだ。それは原が「司法部の熱心なる主張」に応えたものだった(『原敬日記』)。
 「原が日本において、『政党政治』という政治体系を組織するためには、それぞれ『司法権の独立』および『統帥権の独立』によって守られた司法部と軍部をその従属体系として包摂することが必要」だったのである。
 原敬は「憲法政治は多数政治なり」と言った。憲法政治あるいは立憲政治とは、今の言葉で言えば議会制民主主義ということだ。原にとって立憲政治の確立とは、全ての統治機構に政党化を貫徹することに他ならなかった。
 原が目指した、軍部と司法部を政党にとっての非敵対勢力とする企図は、一旦は成功したかにみえた。原敬没後、軍部から田中義一が、司法部から鈴木喜三郎が政友会に入党し、それぞれ総裁となって「政党制そのものを維持する責任を負わされ」。しかし、「彼らは政党制を擁護する一貫した信念と能力を欠いていた」。彼らによってむしろ「政友会は陸軍や親右翼的な平沼系の影響を受けやすくなり、政治的主体性を弱める」結果を招くこととなった。「両者はともに政党制を安定させ定着させる役割を期待されながら、逆に政党制への反乱を誘発する役割を果たしたのである」。
 政友会田中内閣時の昭和3年には、裁判所構成法の抜本的改正が検討され、裁判所法案と検察庁法案が起草された。これは枢密院の反対で結局成立しなかったが、名称も示す通り現行検察庁法の起源となったものである。
司法大臣の権限についてはこう規定されていた。
 「第21条 司法大臣ハ公訴ノ実行ニ付検事ヲ指揮ス
検事総長以外ノ検事ニ対スル指揮ハ検事総長ヲ経由シテ之ヲ為ス、但シ緊急ノ必要アルトキハ此ノ限ニ在ラズ
前項但書ノ規定ニヨリ指揮ヲナシタルトキハ司法大臣ハ検事総長ニ其ノ指揮ヲ為シタル事項ヲ通告ス
第25条 司法大臣ハ検察庁ヲ監督ス」
 戦後検察庁法の司法(法務)大臣の検察への指揮権規定(14条)は、この昭和3年の案より、政党の立場から言えば、後退している。つまり「緊急ノ必要アルトキ」の規定がない。因みに、第二次検察庁法要綱案(昭21・8・5)には、そのまま入っていたのだが削除されたのだ。終戦時の政党の力が弱く、改正案作成が司法省関係者中心に行われた結果だ。
 改正案が起草された昭和3年は、戦前の二大政党交代による政党内閣の全盛期だった。政党の力が相対的に強力であった政治状況を背景とし、検察の独立を企図する司法部と、検察権の抑制をめざす政党との、同床異夢の帰結ともいうべきものであり、また両者の勢力均衡を反映しものとも言えるだろう。
 満州事変以降、政党と、軍部および司法部との力関係は逆転する。統帥権と司法権の猛威の前に政党は息の根を止められ、明治憲法下の日本は破局の淵に追いやられたのである。


認証官の府
 終戦後GHQの強い意向を反映した憲法改正により、司法権の独立は「裁判所の独立」と定義されたため、「裁判所構成法」は改正を余儀なくされ、「裁判所法」と「検察庁法」に分離された。
 検察庁法は 昭和22年3月18日に衆議院で趣旨説明、19日より委員会審議、23日に委員会採決、27日衆議院本会議で可決している。まことに短時間の審議で驚くが、他の憲法付随法案も皆この程度の審議で可決成立している。戦後改革とは、憲法改正自体もそうだが、こういう即製の国会審議で出来上がったものだった。
 したがって、先に述べたごとく、検察庁法と裁判所法の内容は、国会で政党政治家によって議論されたものではなく、司法省内部の議論とGHQ(占領軍最高司令部)との折衝の過程のなかで出来上がったものである。 
 GHQからは、裁判所の司法省からの人事・予算を含む完全独立はもとより、検事の公選制や国民審査、任期制などが提案され、これらを回避したい司法官僚との間で虚々実々の駆け引きが行われた。検事公選制度の代案としてできたのが検察審査会制度だった。
 敗戦により、「検察権の独立」論は公然とは語られなくなったが、実際に出来上がった検察庁法は、検察機構への民主的統制というGHQの指示を巧妙に回避し、「検察権の独立」という検察官僚年来の願望を色濃く反映したものとなった。
 昭和憲法体制下においては、検察機構は行政の一機関であり、会計検査院のように憲法が定める内閣から独立した機関ではない。
 世間では、検察が余りに大きな力を持っているので、現行憲法が検察の権限について規定しているのだと誤解している。しかし、現行憲法が検察について触れているのは、ただ一か所しかない。それも第77条二項に「検察官は最高裁判所の定める規定に従わなければならない」と、ついでのように出てくるだけだ。
 また検察庁法は「憲法附属法」でもない。裁判所法が枢密院の諮詢に付せられたとき(昭22・2・13)、入江俊郎法制局長官はこう断言した。
「裁判所法は裁判所に関する基本的な法律で憲法に附属した法律であるが、検察庁法はそうではない。ひろい意味の行政機関に関する法律で、新憲法に附属する法律ではない。従って検察庁法は枢密院御諮詢の手続きはない」
 それにもかかわらず、検察庁には検事総長以下8名もの認証官が存在する。これら検察庁の認証官は、大使公使のように憲法に具体的な規定がないだけでなく、会計検査官、人事官、公取委員長のように国会の承認人事にもなっていない。憲法の精神に照らして、まことに奇妙なことだ。こういう官庁は他にない。検察庁は、国会から超然とした「認証官の府」として継続しているのである。
 前掲『検察制度10年の回想』には、検事総長以下の幹部検察官が「認証官」になれた経緯が語られている。
 「この着想は極めて機敏に行われたため、総司令部との折衝や法制局との協議は極めて順調に進められた。後において認証官の設置を希望する官庁が少なかったにもかかわらず、その実現を果たし得なかったことを思えば、検察庁法立案にあたった関係者の明敏さには敬意を払わざるを得ない」「総司令部は当初天皇の認証する官というものにそれほど深い関心を持っていなかったもののようであり、その折衝に対しては、さしたる異論もなく承認を与えてくれたのである」
 要するに、認証官の位置づけが定かでなかった憲法制定直後のドサクサに紛れて、また天皇という伝統的権威へのGHQの無理解に付け込んで「機敏」に認証官にしてしまったということだ。
 しかし、この機敏さによって、憲法上の存在でもない検察庁の幹部たちは、国務大臣や最高裁判事と同格の権威をもって日本の統治機構の一角に君臨することを得たのである。


現代に生きる「検察権の独立」論
 以上のように、戦後改革でもっとも変わらなかったものをあげるとしたら検察組織ということになる。「統帥権の独立」は過去のものとなった。しかし「検察権の独立」論は、いまも生き続けている。
 もちろん、検察庁も公然とはそんなことは言わないし、検察庁法の解説書にも、そんなことは書いてない。検察庁法についての解説書というのは数えるほどしかない。現在の一番権威ある解説書は伊藤栄樹(のちの検事総長)が昭和38年に書いた『検察庁法逐条解説』だが、さすがに「検察権の独立」などという言葉は出てこない。
 問題なのは、法務総合研究所が検察職員の研修用として編集している小冊子『検察庁法』である。法務総合研究所は法務省の中の機関であり、毎年「犯罪白書」を作っているところだ。この第2章第2節として「検察権の独立(行政権、立法権との関係)」と、堂々と書かれている。内容は伊藤の解説書の要約だが、見出しを殊更「検察権の独立」としているところが異常だ。日本の検察官は、この本によって、検察庁法を学び、捜査現場に出て行っているのだ。
 「司法権独立の主眼は、司法権の行使を政治的影響から自由にするところにあるといってよい。…刑事司法の公正を期するためには、検察権についても司法権独立の精神を能う限り推及されなければならない」
 「司法権は、裁判権のみならず、検察権をも包含するものとして之を広義に解し、…この広義の司法権を行政権威から独立せしむることが緊要なのであって、検事の公訴権行使が行政的威権に左右せらるるが如きことありては、司法権の独立に動揺を起し、破綻を生ずるにいたるのである」
 前者は法務総合研究所『検察庁法』からの引用であり、後者は三谷太一郎が『近代日本の司法権と政党』に引用した昭和15年の大審院検事佐々波佐次郎の論文である。70年の星霜を隔てても両者の説くところはまったく一致している。検察権の独立論は今も生き続けているのだ。
 佐々波論文を引用した後、三谷太一郎はこう書いている。
 「このように意味内容を拡張した『司法権の独立』は、場合によっては『統帥権の独立』とも同義となりうる政治的イデオロギーとしての性格をもってくる」…「『統帥権の独立』に依拠していわゆる『軍ファッショ』が生まれたように『司法権の独立』に依拠していわゆる『司法ファッショ』が生まれたことは、特定の政治状況の下においては、両者が同一の機能を営む積極的な政治イデオロギーに転化しうる可能性を示唆している。すなわち両者はともに本来防衛的守勢的であったものが攻撃的なものに転化したこと、他からの政治的介入を排除するイデオロギーであっものが、逆に他への政治的介入を正当化するイデオロギーに転化したことにおいて共通性をもつものだといえよう」
 昨年からの小沢一郎氏の政治資金をめぐる検察の捜査は、「現代に生きる検察権の独立論」が、小沢一郎という現状破壊的な政治的個性に触発されて、その本来の防御的性格から攻撃的性格に転化したものだった――というのが、一日本政治史研究家としての私の解釈である。
 そして一人の政党政治家としても、検察権の独立という本来政治介入を排除する論理が、容易に他への政治介入を正当化する論理に転化するということを忘れてはならない、と確信している。それは検察官一人ひとりの正義感や良心を信じていることと矛盾することではない。
 それ故に、政党政治家は、検察官僚の論理に巻き込まれて、検察庁法の改正をタブー視するようなことがあってはならないのである。政党政治家は、検察組織が検察権独立の陥穽に陥らないよう、常に検察庁法の正当性を問い続けなければならない。
 原敬同様、小沢一郎氏もまた、あらゆる統治機構に政党化を貫徹することを議会制民主主義の完成と信じているかのようである。私はそれを間違ったことだとは思っていない。しかしそれは、自らを政争の局外にあると自負している官僚機構(検察庁、宮内庁、内閣法制局など)と深刻な軋轢を生み出すこととなる。その意味では、政党化の貫徹を正義と信ずる小沢氏の軌跡は、原敬のそれによく似ているのである。
 ただし、原敬がその死後に残したものは、私産ではなく、浩瀚な『原敬日記』のみだったことは特筆しておかねばならないだろう。

(平成22年4月17日 中島政希 記)