週のはじめに考える 日米安保と2人の首相

(東京新聞 2010年6月20日) http://bit.ly/cgIUey


 五十年の時を隔てて、同じ六月に首相が辞任しました。岸信介氏と鳩山由紀夫氏。二人をつなぐのは改定から五十年を迎えた日米安全保障条約です。

 旧安保条約を改定した新条約が国会で自然承認となったのは一九六〇年六月十九日午前零時です。

 その瞬間を、岸首相はデモ隊が取り巻く首相官邸で、弟の佐藤栄作蔵相(のちの首相)とブランデーを傾けながら迎えました。

 この四日後の二十三日、批准書が交換されて新条約が発効すると、岸氏は「人心一新、政局転換のため首相を辞める決意をした」と辞任を表明します。


◆対等な関係の模索

 その五十年後の六月二日、鳩山氏が首相辞任を表明します。

 自らの「政治とカネ」の問題とともに、辞任理由に挙げたのが、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)返還をめぐる混乱でした。

 安保条約に関連する理由で首相が辞任したのは、この二人しかいません。共通するのは、米軍占領を経て結ばれた安保条約体制の局面を転換しようとしたことです。

 五一年に講和条約とともに結ばれた旧安保条約は、米軍の日本防衛義務が明確でないことや、内乱が生じた場合に米軍が鎮圧できるなど、占領期の名残を引きずる数々の問題点がありました。

 岸氏は「非常に片務的な、不平等的な形」を感じ、改定に乗り出し、実現します。それは「日本が独立国として対等な立場で発言権を持つ」ためでもありました。

 歴史的な政権交代を果たした鳩山氏も「緊密で対等な日米関係」を掲げ、普天間飛行場の国外・県外移設を模索します。

 このことは安保改定や五十年の時を経ても日米関係が対等に至っていないことを物語っています。


◆普天間に宿る本質

 沖縄県に在日米軍基地の約75%が集中し、その配置の変更について日本側に事実上、自己決定権がないことや、在日米軍にさまざまな特権を認める日米地位協定の存在をみれば、平等であると感じられないのは当然でしょう。

 同時に、沖縄の米軍基地の中には本土の反対運動で米軍統治下の沖縄に移転したものもあり、県民は「本土による押し付け」との差別感すら抱いています。

 その負担軽減を求めることは対等への一歩になるはずでした。

 しかし、鳩山氏は普天間については結局、前政権と同じ名護市辺野古への県内移設を選択します。

 県民の期待を煽(あお)りながら、結果的に裏切る。その稚拙な政治手腕ばかりが喧伝(けんでん)されますが、その問題提起は見逃せません。

 鳩山氏は首相辞任を表明した六月二日の民主党両院議員総会でこう述べています。

 「米国に依存し続ける安全保障をこれから五十年、百年続けていいとは思わない。だから県外にと思ってきた。その中に普天間の本質が宿っている。日米同盟の重要性は言うまでもないが、一方でそのことも模索をしてほしい」

 日本は、安保条約への評価は別にして、戦火に巻き込まれず、平和を享受してきました。

 安保体制は冷戦後も「アジア太平洋地域の平和と繁栄の維持」(九六年の日米安保共同宣言)という新たな役割を見いだし、占領期でもないのに外国軍が国内に駐留するという異例の事態も、当然のように続いています。

 しかし、そのことで日本国民は安全保障のあるべき姿についての思考を止めてしまった、鳩山氏はそう言いたかったのでしょう。

 安保改定五十年という節目に、日米両政府は同盟関係を深める「深化」のための協議を進めていますが、真に求められるのは、安保条約をかつて明治政府を悩ませた不平等条約にはせず、両国関係を創造的に「進化」させることです。

 そのためにも、自国とアジア・太平洋地域の平和と安全を守るための外交努力とは何か、自衛隊の防衛力をどこまで整備し、何を米軍に頼るのか、再び思考の大海に船出しなければなりません。

 その際、沖縄県民が抱く差別感と真剣に向き合う必要があります。さもなければ、日本国民としての一体感を喪失し、国家分断の危機を招来しかねないからです。


◆沖縄の苦悩を胸に

 鳩山氏から政権を受け継いだ菅直人首相は二十三日、沖縄全戦没者追悼式に出席します。六十五年前のこの日、日本軍による組織的な戦闘が終結したとされ、米軍の沖縄支配が始まりました。

 沖縄の苦悩に寄り添おうという姿勢自体は評価できますが、実を伴わなければ意味がありません。

 菅内閣では財政健全化など内政問題に重きが置かれそうですが、菅氏には、市民運動家から首相に上り詰めた粘り強さを、対米外交でも見せてもらいたいものです。