中ソ諜報「ムサシ機関」私が率いた 元陸将補が証言

(asahi.com 2010年8月1日5時1分) http://bit.ly/daVlLE


 冷戦期に米軍と共同で情報収集活動に当たった自衛隊の元情報機関長が、朝日新聞の取材に応じ、国内外で行っていた諜報(ちょうほう)活動や創設の経緯などを明らかにした。民間人になりすまし、旧ソ連や中国などの共産圏諸国に出入りする人々から軍事情報を聞き出すのが主な活動だったという。同機関の存在は、金大中氏拉致事件などにからんで注目されたことがあるが、直接の責任者が証言するのは初めて。

 明らかにしたのは、陸軍士官学校出身で、陸上自衛隊の情報部門で長く旧ソ連担当を務めた元陸将補の平城(ひらじょう)弘通さん(89)。現在は東京都内で不動産業を営んでいる。

 1964年から2年間、情報収集の実動部隊だった「陸幕第2部特別勤務班(別班)」の班長(2佐職)を務めた。陸幕第2部が公刊情報の収集や電波傍受を行っていたことは防衛省も認めているが、諜報活動に従事した別班の存在については一貫して否定してきた。別班は部内で「ムサシ機関」と呼ばれ、在日米陸軍の情報部門と秘密裏に連携した。

 平城氏によると、情報協力をめぐって在日米軍の情報部門と陸幕第2部との協定が結ばれて米側との共同機関が創設され、56年から米軍の指導のもとで情報専門家を育成する訓練が始まった。米軍がもっていた偽装の仕方や人的情報の集め方などの基本ノウハウを身につけたという。

 拠点は東京郊外にあった米軍施設のキャンプ・ドレイク(現・朝霞駐屯地)。ここに米側の情報部門「500MIグループ」があり、61年、さらに共同責任で合同工作を行うことでも合意、62年から実践活動に移行したという。

 「日系の米側将校と意思疎通を図るため、慣れないゴルフを一緒に重ねた」と話す。


日米ともに要員は15人前後。国内で写真店や小さな商社などを経営して、中ソや北朝鮮、北ベトナムなどに出入りする日本の商社員や漁業関係者などに接近し、日本への敵対行為の兆候などがないか情報収集をしたという。

 例えば、シベリア抑留者の現地墓参団の参加者に関係者を装って近づき、ソ連国内の写真撮影や地図の入手などを依頼した。

 また将来は、海外に住む日本人らの間に「独自の情報源と連絡網を作ることを目指していた」という。

 平城氏が活動した60年前後は、冷戦構造の東西対決が深まった時期にあたり、中国が金門島に砲撃を加え米第7艦隊が出動した第2次台湾海峡危機(58年)や、米ソが対峙(たいじ)したキューバ危機(62年)などが起きている。

 機関員になると自衛隊との一切の接触が禁じられたが、「陸幕第2部長の指示を受けた連絡幕僚から受ける形」で陸幕の指揮を受けたという。

 収集した情報は日米双方に提供され、防衛庁(当時)の防衛計画の立案に役立てられたほか、米太平洋陸軍(ハワイ)と陸幕の極秘の情報会合「JA会議」などで、米側の偵察衛星画像や通信傍受情報と交換されたこともあった。

 運営資金は60年代には「月額100万円程度」(60年当時の大卒の国家公務員の初任給は約1万2千円)。陸自と米陸軍から支給された資金などでまかなったという。

 ムサシ機関がいつまであったのかについては「ある時点で途絶えたという話を最近聞いたが、確かめようがなく、わからない」という。

 同機関については、日本共産党の赤旗が、「影の軍隊」として73年の金大中事件に関与したのではないかとの疑惑を70年代に報道したことがあるが、平城氏は「任務は国内での対外情報収集だけ。謀略や破壊工作、海外活動をしたことはない」と否定する。

今回、内幕を明かした理由については「邪悪な謀略機関というイメージを払拭(ふっしょく)し、国家の正当な情報収集活動だったことを明確にしたかった」と話している。

 80年に防衛庁を退官した竹岡勝美・元官房長は「初耳だ。自衛隊が独自の秘密情報組織をもつことは認められるはずもなかった」と話す。

 平城氏はムサシ機関にかかわった当時の陸自幹部らを実名で登場させ、その内幕を描いた著書を9月に講談社から出版する予定。(編集委員・谷田邦一)