時代の風:激暑の中の経済怪談=同志社大教授・浜矩子


(毎日新聞 2010年8月8日)  http://p.tl/nXJu



 ◇魔のわなをどう避けるか


 夏といえば怪談である。激暑で干上がりきったエコノミストの頭脳にも、怪談がひんやりと潤いを与えてくれる。

 怪談にも各種あるが、実録型の古典的なものに「田中(たなか)河内介(かわちのすけ)」(池田彌三郎著「日本の幽霊」中公文庫ほかに収録)というのがある。明治末期から大正初期のころ、向島の百花園で怪談会が開かれた。泉鏡花をはじめ、多くの文人や芸術家が集まったと記録されている。

 参加者の一人が、勤王派の国学者で惨殺の憂き目にあった田中河内介の最期について語り始める。ところが、話があるところにさしかかると、そこから先に進めない。どうしても振り出しに戻ってしまう。それを何度も繰り返すうちに、その語り手はついに力尽きてあの世行きとなる。だまし討ちに遭った田中河内介の怨念(おんねん)が、語り部を出口無き言葉の迷路に追い込んだ。

 あるところまで行くと、どうしてもそこから先に進めなくなる。また振り出しに逆戻り。封じ込められたその世界から、二度と再び出ることはできない。この無限ループの怖さを題材にした怪談は、世の中に結構多い。

 エコノミストの世界も、時として、それと同じ恐怖の世界と化すことがある。例えば、ドルの話をしている時だ。必ず、次の基軸通貨は何かという話題に進む。はたまた円かユーロか人民元か。いやいや、この際、世界単一通貨だろう。あれこれ話しているうちに、結局はやっぱりドルしかないかというようなことで、振り出しに戻る。

 そんなことはないはずだと筆者は思う。そもそも、基軸通貨の時代は終わったと確信する。だが、なかなか、この通貨談議的無限ループの呪縛を突破できない。まだまだ、修行が必要だ。

 「西瓜(すいか)」という気味の悪い話もある(日下三蔵編「岡本綺堂集~青蛙堂鬼談~」ちくま文庫に収録)。西瓜だったはずの風呂敷包みの中身が、開けてみると女の生首になっている。放っておくと、また西瓜に戻っている。思い切って西瓜を断ち割ってみると、中から一匹の青い蛙(かえる)と、幾すじかの女の髪の毛が出て来る。

 エコノミストも、魔が差すといろいろなものを別のものに見間違えてしまう。バブルを好況だと見立てたり。危険がいっぱいの証券化商品を、グローバル金融の福の神だと思い込んだり。デフレ懸念が強いのに、インフレ到来を恐れたり。

 迷走するのは、ことの本質に迫る気迫と冷めた目が足りないからだ。そんなことではダメである。西瓜だか生首だか判然としない物体などは、一刀両断に断ち割る。そして、その内なる真理をえぐり出す。その気概と技が求められる。熱中症にかかっている場合ではない。

 怪談話に涼を求めているうちに、日本の長期金利がやたらに下がってしまった。10年物国債の利回りが7年ぶりに1・0%を割るという状況だ。アメリカのデフレ懸念が全般的な金利下落を予想させた。その上、円高嫌気で株からの逃避資金が国債に集まった。その経緯は分かる。

 だが、国々の財政破綻(はたん)が心配される状況の中で、国債にカネが集まるというのはいかにも奇異だ。今、国債を買ってしまって、いざ、手放したい時に皆さんはどうするのだろう。いずれ、フットワークの軽い投資家たちのやることだ。逃げ足も上手で速いに違いない。そう思いたい。だが、ここでまた、もう一つの怖い話を思い出してしまった。

 今度は洋物である。題を訳せば「壺(つぼ)入り悪魔」(The Bottle Imp)といったところだ(Marvin Kaye編「Masterpieces of Terror and the Supernatural」Warner Books収録)。小悪魔を中に封じ込めた壺を買うと、願いが何でもかなうようになる。ただし、死ぬ時にこの壺を保有していると、死後は必ず地獄行きと定められている。だから、ありったけの願いを大急ぎでかなえてもらって、早々に壺を売り抜けるに限る。

 それも別段いいだろう。何しろ、何でも思い通りにしてくれる壺なのだから、高値で引き取る相手がいくらでも出て来るに違いない。願いはすべてかなったうえに、ちゃんと利ざやまで稼げるのである。壺入り悪魔様々だ。

 ところが、ここに一つの大きな落とし穴が隠されている。壺を手放す時には、必ず、仕入れ値よりも安値で売らなければならないのである。少しでも買値を上回る価格で売ると、たちどころに壺は売り手の手元に戻って来てしまう。

 買値が高いうちは問題ない。100万円で買ったものを99万9000円で売ることは造作ない。だが、壺が人から人へと転売されていくうちに、仕入れ値はどんどん下がる。ついに1円となってしまったその時、どうやって壺をさらに安値でたたき売るのか。たとえ、99銭で買う愚者がいたとしても、銭という金銭単位はいまや実質的には存在しない。それを表示する硬貨もない。

 いくら安値の薄造りで逃げ切ろうとしても、いずれは限界にぶち当たる。そして、誰かが地獄行き。転売不能な壺を最後に持たされるその人は誰か。国債相場の成り行きをみながら、真夏の夜の悪夢に肝を冷やす。=毎週日曜日に掲載