東条英機の米国人弁護士が抗議した「米国の不正」


ジャーナリスト・徳本栄一郎氏
(週刊朝日 2010年08月20日号 2010年8月11日配信) http://p.tl/pC2e


あの夏から65年。日本人から戦争の記憶が薄れ続ける中、日本人7人がA級戦犯として処刑された「東京裁判」で、意外な史実が掘り起こされた。絞首刑となった東條英機元首相についた米国人弁護人が、母国による“勝者の裁き”の不公正さを、真っ向から批判していたのだ。米国の文献などにあたり、ジャーナリスト・徳本栄一郎氏がリポートする。

 全世界を戦火に巻き込み人類史上未曽有(みぞう)の惨劇を生んだ第2次世界大戦、その終結から65年を迎えた。

 1945年8月の敗戦で日本は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下に置かれた。以来5年8カ月、最高司令官のダグラス・マッカーサーは、日本の民主化を推し進める。それは政治・経済から社会体制に及ぶ国家改造と言ってよかった。

 その中で世界の注目を集めたのが、「極東国際軍事裁判」、いわゆる「東京裁判」である。

「満州事変に遡(さかのぼ)る日本の侵略行為を国際正義の名の下に裁く」として開廷した裁判は28名の被告を起訴し、419人の証人を喚問した。そして、48年11月、東條英機元首相らA級戦犯7名に死刑判決が下される。彼らが絞首刑にされたのは偶然か意図的か、皇太子明仁の誕生日、12月23日であった。

 ここ数年来、私は英米の公文書館で占領期の文書を収集してきた。そこで特に興味を引いたのが東京裁判の記録だ。GHQの裁判戦略、被告の尋問記録、関係各国の意見書は迫真性に満ちていた。その中で知ったのが、日本人戦犯の弁護を引き受けた米国人弁護士の存在だった。

“兵士”として日本軍と対峙(たいじ)した彼らは戦後、日本人戦犯の弁護を依頼された。 昨日までの敵を本当に弁護できるのか。米国の政治的ジェスチャーではないのか。日本側は疑いの目で見た。

 しかし彼らは公正な裁きのプリンシプル(原理原則)を貫き通す。そして戦犯処刑後、裁判の“偽善”を痛烈に告発したのだった。

 日本占領が続いていた50年夏、米国の「アメリカン・パースペクティブ」という雑誌にある論文が掲載された。

 タイトルは「勝者の不正・東京裁判」、筆者はジョージ・ブルーウェット。東條元首相の弁護人だった人物だ。11ページの論文は東京裁判の問題を厳しく告発した。

 その最大の論点は裁判自体の適否だった。


■「裁判は偽善だ」 法の平等貫く


 裁判では被告人ほぼ全員が「平和に対する罪」で有罪にされた。これはマッカーサーが出した裁判所条例の定義「侵略戦争を計画、準備、開始または実施する行為、もしくはそれらの行為の共同謀議への参加」によるものだ。

 たしかに、ポツダム宣言は、「吾等(われら)の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加えらるべし」とした。しかし、これは捕虜虐待や非戦闘員の殺傷などを意味し、戦争自体は犯罪としていない。

 ブルーウェットは裁判所条例を「平和に対する罪」に拡大するのは不当とし、そうしたいなら最初からポツダム宣言に入れるべきだと主張した。

 被告人の選定も不満だった。判決では、被告人の多くが満州事変前から太平洋戦争終結まで、「東アジア、西並びに西南太平洋、インド洋及びこれらの大洋上の島々の一部」を侵略する「共同謀議」に参加したという。

〈これら被告人が日本の公人からどんな基準で、どのようにして選ばれたのか、しばしば疑問だった。起訴状の期間は一九二八年から一九四五年に及び、この間17もの内閣が成立した。東條内閣は4名の被告を出したが他の内閣はたった2名だ。存命中なのに1人も被告を出さない内閣もいくつかあった〉(ブルーウェット論文)

 検察が主張する侵略の陰謀があったとすれば、この28名が選ばれた基準は何か。中には、太平洋戦争にほとんどかかわっていない被告人もいるのだ。また真珠湾攻撃前、日米交渉の当事者は野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特使だった。彼らはなぜ起訴されないのか。

 論文は法廷の奇妙な光景にも触れていた。ドイツのニュルンベルク裁判に対し、東京裁判は米国内の関心が低かった。米国民も東條以外の被告人はほとんど知らない。法廷関係者も被告人名をうろ覚えで、本人特定のため座席表に頼る有り様だった。

 ブルーウェットはこう結論づける。

〈(この裁判は)欧米の法律的伝統から逸脱しただけでなく、戦勝国と敗戦国の指導者に明白なダブル・スタンダードを適用した。連合国が日本国民にどんな教育的効果を望もうと、日本国民はこの裁判を法律のまねごとや、偽善として見るだろう〉(同論文)

近年、日本では東京裁判の批判が根強く存在する。戦勝国の主張を額面通り信じるのは「自虐史観」と言われる。この主張と60年前のブルーウェット論文は一部重なる。その意味で彼は“東京裁判批判”の先駆者と言えた。

 ここで重要なのは、ブルーウェットが裁判の問題を指摘しつつ、日本の侵略行為の正当化、弁護はしていないことだ。彼が望んだのはあくまで公正な裁判と東條の弁護だった。次の言葉が如実に物語る。

〈この裁判所条例は米陸軍元帥により発布され、首席検事と弁護人も米国人だった。被告人は米陸軍に拘留され、裁判の経費も米財務省が賄った。再審理も米軍元帥が行い、有罪判決を受けた7人は米国人の手で絞首刑にされた。その結果、この裁判で他のどの国より米国の威信は長期的に大きな打撃を受けることになる〉(同論文)

 彼が承知していたか不明だが、実は東京裁判には重大な思惑も潜んでいた。天皇の戦争責任回避である。

 終戦直後、米国内の天皇への見方は非常に厳しかった。真珠湾攻撃や戦時中の残虐行為から、天皇を訴追すべきだとの声が強く、世論調査ギャラップでは30パーセント以上が天皇処刑を支持した程だ。

 一方、マッカーサーとGHQは円滑な占領に天皇を利用したかった。だが開戦詔書が天皇の名で出された以上、何らかの理論武装が必要だ。そこで考え出されたのが、全責任を東條に押しつける戦略だった。マッカーサーの軍事秘書ボナー・フェラーズは、米内光政元首相にこう語っている。

〈対策としては天皇が何等の罪のないことを日本人側から立証して呉れることが最も好都合である。其の為には近々開始される裁判が最善の機会と思ふ。殊に其の裁判に於いて東條に全責任を負担せしめる様にすることだ。即ち東條に次のことを言はせて貰い度い。「開戦前の御前会議に於て仮令(たとえ)>陛下が対米戦争に反対せられても自分は強引に戦争迄持って行く腹を既に決めて居た」と〉(『戦争裁判余録』)

 米内はこう応じた。

〈全く同感です。東條(元首相)と嶋田(元海相)に全責任をとらすことが陛下を無罪にする為の最善の方法と思ひます〉(同書)


■山下大将守った 弁護士の「正義」


 これを裏付ける文書をバージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館が保管している。フェラーズの部下ジョン・アンダートン少佐がマッカーサーに提出した覚書だ。天皇が開戦詔書に署名した事実を列記し、こう進言していた。

〈結論 詐欺、威嚇または強迫により不本意な行動を取らざるを得なかったと天皇が立証できれば、民主的裁判所で有罪判決を受けることはない。

勧告 (a)占領を平和裏に進めて日本を復興させ革命と共産主義を防止するため、開戦の詔書作成とその後の天皇の立場を巡る事実の内、(天皇に)詐欺、威嚇または強迫が行われていたと証明する事実を収集する。(b)上記の事実が抗弁を十分に立証するに足る物であれば、天皇が戦争犯罪人として訴追されるのを阻止すべく積極的措置を講じる〉(45年10月1日、アンダートン覚書)

 要は、天皇は東條に威嚇され開戦詔書に署名した。自らの意思ではなかったと証明せよとのアドバイスだ。半ば強引な裁判には日米共通の狙いがあったのだった。

 一方、海外でも日本人戦犯の裁判が続いていた。かつての日本支配地域で軍人などを裁く、いわゆるBC級裁判だ。多くの被告が祖国に戻る夢もかなわず処刑されていった。その有名な例が山下奉文(ともゆき)>だろう。

 山下はシンガポール攻略を指揮して「マレーの虎」と呼ばれた陸軍大将である。44年10月に第14方面軍司令官としてフィリピンに赴任する。しかし米軍部隊に追い込まれ45年9月に投降、軍事裁判で死刑判決を受けた。

この裁判では山下に6人の米国人弁護人が任命された。その一人が30代の陸軍大尉フランク・リールだった。

 ハーバード大学卒業後、ボストンで弁護士を開業したリールは陸軍に召集される。そしてフィリピンの民間損害補償に従事していた時、山下の弁護人に任命された。その処刑から3年後、裁判の内幕を明かす著書『ザ・ケース・オブ・ジェネラル・ヤマシタ』を発表したのだった。

 起訴状によると山下の罪状は次の通りだ。

〈日本帝国陸軍大将山下奉文は一九四四年十月九日より一九四五年九月二日の間、マニラ及びフィリピン群島の他の地点における米合衆国及び同盟国との戦闘において、日本軍司令官たりし時、指揮下の兵員の行動を統制する任務を不法に無視し、遂行を怠り合衆国及び同盟国、保護領、特にフィリピンの国民に対する残虐行為及び他の重大犯罪を許した。かくて山下奉文は戦争法に違反した〉(リール著書)

 たしかに米軍がマニラ入城した45年2月、市内では日本軍の暴行が横行した。民間人への強姦(ごうかん)>、処刑が相次ぎ、特にパッシグ川近くのマニラ・ホテルは悲惨だった。米軍に囲まれ自暴自棄の兵士が女性に集団レイプを繰り返した。

 今春、フィリピンを訪ねた際、私も残滓(ざんし)を実感した。地元の年配の男性と話すと「ケンペイタイ」と日本語で発音するのだ。半世紀以上前の恐怖が消えていない証しだ。

 これが山下の指示や承認で行われたなら史上稀に見る犯罪だ。リールらは刑務所に収容された本人と会った。そして意外な事実を知ったのだった。

山下が第14方面軍司令官に赴任した44年10月、すでにフィリピンは米軍の猛攻下にあった。制海権や制空権も奪われ補給もままならない。米軍が迫る中、彼はマニラ撤退を命令した。人口が多く平地の街を守るには大量兵力が必要と判断したのだ。

 ところが市内には約2万の海軍部隊が残っていた。その指揮官は陸軍大将である山下の命令を拒否、米軍との市街戦に突入する。一方、通信網を断たれた山下は、山岳地帯に移動していく。裁判で彼はこう証言した。

〈私が全フィリピン人の虐殺を命じたという証言がありました。私は絶対にそのような命令を出した事はありません。上官からそのような命令を受けたことがなく、私はそのようなことを許さず、たとえ知っていても大目に見ることはないと力説します。これらについて私は天地神明に誓います〉(同書)

 リールらは残虐行為の証人と米国の情報将校が入手した日本側文書で、これが真実と判断した。また法廷のタガログ語通訳が稚拙で正確な意味が伝わっていないことも分かった。最終弁論で彼はこう述べた。

〈山下裁判は生易しい問題ではありません。米軍部隊や空軍、ゲリラに攻め立てられ、上官の矛盾した無理な要求に悩まされ、彼は赴任した瞬間から敗走していました。もちろん捕虜を視察する時間もありません〉

〈我々が彼を裁く時は彼の立場に立って考えなくてはなりません。私は敢えて言います。偽善の起訴、復讐を求める群衆の欲望にだらしなく屈服した起訴、世界を前に我々が有罪と認めない限り、山下大将はこれらに無罪と判明するに違いありません〉(同書)


■「前例なき起訴」 判事からも疑義


 リールが弁論を終え閉廷した時、山下は彼の元へ歩み寄った。そして手を握り締め、

「サンキュー、サンキュー」

 と繰り返した。それは山下が知る唯一の英語だった。だが、リールには今まで聞いた最も雄弁な英語だったという。

 しかし、マニラ軍事裁判は山下に死刑判決を下した。弁護団は一縷(いちる)の望みを託し米連邦最高裁判所に提訴することにした。独立前のフィリピンは最高裁に訴えが可能だったのだ。舞台は米国の首都へ移り弁護団もワシントンへ飛んだ。

 この時の最高裁判事の一人、マーフィー判事の意見が興味深い。彼は日本軍の残虐行為を批判しつつ、こう述べた。

〈(山下は)個人的に残虐行為に参加、または遂行を命令、見逃したために起訴されたのではない。(中略)それは単に彼が指揮下の兵隊の行動を統制する任務を不法に無視し、残虐行為を許したと申し立てたに過ぎない。記録された戦争の歴史と国際法の原則はこのような起訴に全く前例を提供していない〉

〈今のように感情が高まっている時、こうした性質の事件に冷静な態度を取るのは難しい。しかし今こそ、そのような態度が最も必要なのである〉(ともに米最高裁記録より)

 結局、最高裁は多数決で上告を退け、山下処刑を認めた。その3年後の49年、リールは裁判の内幕を明かす本を発表する。

そこで訴えたのは、マニラの裁判官が少将クラスの軍人で、法律専門家ではなかったこと。検察の起訴手続きが拙速だったこと。東京にいたマッカーサーが裁判を急ぐよう指示したことだった。GHQ最高司令官の指示を軍人が無視するはずがないではないか。

 この告発は東京でも大きな波紋を呼んだ。出版直後、GHQはリールに反論する22ページの覚書を作成した。作成者は民政局長のコートニー・ホイットニー准将、戦時中からマッカーサーと行動を共にした側近だ。

 バージニア州のジョージ・マーシャル・リサーチ・ライブラリーで入手した覚書は、リールの主張を「プロパガンダ」と断定していた。

〈弁護士の著者が最高裁判所の判決を拒否したという点で、この本は本質的に米国の法律システムいや米国のシステムへの攻撃である〉(49年11月22日、GHQ覚書)

 そしてホイットニーは山下のマニラ滞在時も残虐行為があったこと、裁判官は法律の素人でなかったことを強調した。また覚書のコピーを全米の大手出版社、法曹機関に送付した。書評を掲載した雑誌に抗議文を送る念の入れようだった。

 BC級裁判の本にしては大袈裟(おおげさ)すぎやしないか。その理由はホイットニーがある編集者に送った書簡で分かった。

〈占領国の微妙な空気の中、このような論点を広めることは一部破壊分子の高圧的喧伝の武器となり、事情を知らない日本人に危険で不安定な影響を与える〉(50年1月14日、ホイットニー書簡)

 この本を日本人が読めば、反米感情が噴き出しかねない。そうなればGHQの占領に支障をきたす。至急、内外のマスコミを抑える必要がある。そのせいか日本語訳が出版されたのは52年6月、講和条約の発効後だった。


■処刑前に残した 大将の感謝の句


 もしマッカーサーが山下の裁判に介入したとすれば、理由は何か。まず言えるのは彼が35年からフィリピン軍事顧問を務め、地元に深い愛着を持っていたことだ。セルヒオ・オスメニャ大統領はじめ政府首脳とも親しかった。

 また、当時フィリピン人にとって、日本の象徴は天皇と山下だった。現地の弁護士団体がハリー・トルーマン米大統領に送った書簡を米公文書館が保管している。

〈フィリピン国民は天皇と多くの仲間が戦犯裁判から免れているのを重大な懸念を持って見ています。山下奉文だけでなく日本の侵略の全指導者を処罰しなければならないと国民は感じています〉(45年11月、フィリピン・ローヤーズ・ギルド会長書簡)

 山下の“不運”はこの空気の中、日本の残虐行為の象徴にされたことだ。その意味で彼の運命は最初から決まっていたのかもしれない。

 リールは裁判をこう結論づける。

〈我々は不正で偽善的で復讐(ふくしゅう)心があった。我々は戦場で敵を破ったが、心の中で敵の精神を勝たせてしまった。(中略)米国は今後も勝利するだろう。正義なき勝利は無意味であり、人類は愛なしに生きられず、弱者を圧迫すれば強者にも自由がなくなることを学ばなければならない。我々が裁くように今度は我々が裁かれるのだ〉(リール著書)

 皮肉にもその後、ベトナム戦争やイラク戦争で米国の威信は大きく傷つく。大国の論理で他国に介入する手法は“偽善”“ダブル・スタンダード”と非難された。その意味でリールの言葉は予言的響きがあった。

 46年2月23日、午前3時。山下はロスバニヨス刑務所で処刑された。彼が遺(のこ)した声明は米国人弁護団への感謝で結ばれていた。

〈マニラ法廷で取り調べられた時、私は常に自分を保護する貴国の善良な将校からよい待遇と親切な態度で扱われた。私は死んでも彼らが自分のためにしたことを忘れない〉(リール著書)

 たとえ憎むべき敵であっても公正な裁きを求める。そして母国を相手にしてもプリンシプルを貫く。東條と山下の裁判は知られざる人間ドラマでもあった。


■参考文献:
『昭和天皇 二つの「独白録」』(東野真著)『山下裁判』(フランク・リール著)