米国に宦官にされた国、それに気づかぬ国民

戦後65年、自分を自分で守れない“子分”は厄介者に


小川 剛義
(JB PRESS 2010.08.13)  http://bit.ly/9Ca8je


最近、我が国周辺では安全保障に係る話題が世界の耳目を集めている。韓国哨戒艇「天安」爆沈事件と北朝鮮の関わり、台頭する中国の軍事力への警戒。今の北東アジアには短期的にも中期的にも安全保障上の課題が山積している。


■騒がしい東アジアの中にあり、安全保障が議論されない唯一の国

しかし、最近の国会でそのような話題が論議されることは少なく、先の参議院選挙ではほとんど議論にならなかった。国家として安全保障に関する認識がすっぽり欠落しているのではなかろうか。

 そして、それをおかしいと思っていない国民やマスコミの論調。日本とは実におかしな国だと、最近つくづく思う。

 多くの国民、そして国家を方向づけする責任を持つ政治や実際に施策を打ち出していく官僚が、自らの安全保障意識の欠如に違和感を感じない。

 気づいていてもどうすべきか思慮できない、そしてこの分野を無視しても誰からも何ら批判されない、そのような状態が今の日本ではなかろうか。

 最近の総理大臣の施政方針演説では、安全保障関連がどれだけ語られているのだろうか。安全保障や外交は国の専管事項であり、国家の安全を確保するということこそ総理大臣が一番意を払わねばならないことであるのに。


■放っておけば絶滅不可避の天然記念物?

 これは、進歩的知識人と呼ばれた人々が理想論を唱え非武装中立を主張した時代から、1970年代、「水と安全はただ」の国と評された時代を経て、何ら変わっていない。

 国際政治が現実の冷厳たる力のせめぎ合いであることに目をつぶり、理想だけを唱えていれば国家の安全保障は達成されると思っている国がこの世界に存在していることが、むしろ天然記念物のようなものだ。

 米軍普天間基地移設問題で、当時の鳩山由紀夫前首相が強調したのは沖縄住民の思い、当時の3党連立政権の枠組み、そして日米合意の重みであって、そこには米海兵隊を沖縄に駐留させ、抑止力を維持すべきかどうかという我が国の安全保障上の議論はほとんど聞かれなかった。

 2010年4月になり、いよいよ結論を迫られた時、「学べば学ぶほど沖縄の米海兵隊の抑止力が必要と分かった」との率直な言葉が首相の口から出て周囲を唖然とさせたが、その抑止力が何を意味するのか、その背景や細部理由は説明されないままであった。

もちろん、総理としての見識はお持ちであったと信じたいが、それが我が国の将来の国益のため、安全保障にとって最適であると周囲を説得し、反対を押し切るに足る信念に昇華するまでには至っていなかったと推察する。


■米国は日本と膝突き合わせて議論したかったはず・・・

 結果、この問題では軍事的合理性のある案の作成という検討の視点がすっぽり抜けており、「なぜ日本に米軍が、まして海兵隊が駐留し続けなければならないか」という大前提が曖昧にされたままでの検討でしかなかった。

 米国は、仮に日本がそこまで言うなら、日本やアジア太平洋地域全体の安全保障を今後どうするかという観点から話し合いたかったに違いない。

 我が国の安全保障をこのように確保し、この地域の安定に日米でこのような安全保障上の協力をしたいから、普天間はこう移転したいと言うならば、米国も論議の席に着いたであろう。

 しかし、安全保障に関する鳩山首相、そして民主党政権の戦略が不明確であるため、討議することを言い出せなかったのではなかろうか。

 客観的な調査で定評のある米国議会調査局(CRS)は、今年6月に上下両院議員の法案審議資料として作成した報告書「日米関係=議会への諸問題」中で、「日本の民主党政権との間に総合的な戦略認識で溝があり、日米同盟の堅持の基本への深刻な懸念がある」と述べた。


■力がつくまで時間稼ぎをしてきた中国

 尖閣列島領有権問題も危うい。

 尖閣列島は我が国固有の領土であることは客観的に見て疑う余地なく、従って「中国が何を言おうと交渉するには適わず」として無視する姿勢であるのだろうが、「言わなくとも分かるはず」なのは日本社会内での話であり、国際政治の舞台では通用するわけがない。

 国として主張すべきことをきちんと言わないと、無言は了承とも取られかねない。1978年、日中平和友好条約批准書交換のために来日した中国の当時の鄧小平副主席は、「この問題は将来の世代にゆだねよう」としてその場での交渉を回避した。

 当時は日本の力が強く、交渉すれば押し切られることが見えていた中国が、将来力を蓄え交渉の後ろ盾としての力がつくまで時間稼ぎをしたと考えるのは邪推に過ぎるであろうか。

何しろ相手は、よく戦略を練って長期的にコトをなす国であり、かの孫子の国である。


■相手に警戒心がなく油断している時こそ攻撃せよ!

 「孫子」には次のような有名な一節がある。「強にしてこれを避け、・・・(中略)・・・、其の無備を攻め、其の不意に出ず。・・」(計篇三)

 (解説:敵が強い時はそれを避け、・・・敵が無防備になったところを攻め、敵の不意をつく・・・)

 すなわち、敵が強い時には避けて身を引き、敵が弱くなったり、警戒しなくなり油断している時に不意に攻撃することが肝要であると述べている。

 もし我が国が相手国の主張を無視するならば、実効的支配を明らかにする有効な手立てを講じ、領域侵害を排除する術をしっかり定めておかないと、竹島の二の舞いになりかねない。安全保障観がなければ、それだけの覚悟は出てこないであろう。

 対外的な場合だけではない。国内の課題においても我が国では安全保障からの視点が欠如しがちである。


■ITの活用ばかり見てセキュリティー問題を無視し続けた

 1990年代後半、欧米では「情報戦争」が盛んに取り沙汰され始めた。この時期、我が国は2001年に情報通信技術(IT)利用を振興し、IT立国を目指すことを目的に総理大臣直轄でIT戦略本部を立ち上げ「e-Japan計画」を打ち上げた。

 しかし、ここではいかにITインフラを整備し、広範な分野でITを利用した事業を興していくかが熱く謳われ推進され、ハッカーなどITを悪用する輩からIT社会を防護する「情報セキュリティー」にほとんど触れることなくセキュリティー対処が後手に回ってしまった。

 我が国がIT戦略本部の下に「情報セキュリティ政策会議」を設置し、セキュリティーにも力を入れるようになったのは、欧米に遅れること約10年、2005年以降である。

 今年7月のゆうちょ銀行のATMトラブルなど、原因探究に当たって、サイバー攻撃を受けたという可能性にも配慮するということは外国では一般的ながら、我が国ではどの程度考慮したのであろうか。

もし可能性の1つに挙げることに頭が働いていなかったとしたら、これも安全保障感覚の欠如の一例であろう。サイバー攻撃はいつ起こっても不思議ではないのだから。


■テロはいつでも起こり得る、これが世界の常識

 あるいは2005年4月、107人の死者を出したJR福知山線脱線事故。この大惨事のニュースを知った米国の友人が、「テロではないか?」と問い合わせてきた。

 このような大事故に際して、すぐにテロ行為を疑う国もつらいが、そのような視点での考察が欠落している国も嘆かわしい。

 今やテロは決して海外だけで起こるものではなく「すぐそばにある危機」であり、そのような社会に暮らしていることを我々はもっと認識し、為政者は深刻な関心を払うべきである。

 安全保障とは非常に多様な概念であるが、平たく言えば国家の生存や独立、財産など死活的な国益(vital interest)に対する脅威、万一の危機に備え、またその場合を想定して先行的に手を打ち、コトが起こらぬように抑止し、また何らかの手段を用いて防衛することである。

 しかし我が国は言霊の国。万一のことを口にしたらそのことが現実になるような思いに駆られ、思ってはいても口にしないことが多い。そのためにリスクや最悪の状況にあえて触れない、準備をしないのでは逆に怠慢である。


■戦前の日本には鋭敏すぎるほどに安全保障の意識があった

 グローバル化が叫ばれ、各国が融合し合い協力し合って、ともに安定と繁栄を享受することを目指そうとする機運が世界のいろいろな場面で高まっている昨今だが、その過程では、まだまだ多くの摩擦が生じ、争いが起こりかねない道を通らなければならぬことを覚悟しなければならない。

 その際に、国家を危険に晒すことがあってはならない。安全保障はそれを担保する術である。

 戦前までの我が国は、むしろ鋭敏すぎるほどに安全保障の意識があった。

 明治維新は、つまるところアジアに押し寄せてくる欧米諸国の強い力に脅え、我が国が属国や植民地にならぬよう体制の立て直しを図ったものであり、その後もロシア南下の脅威、欧米の影響力の脅威などから我が国の国益をどう維持するかに頭を悩ませ続けてきた。

しかし戦後、米国により教育改革が断行され、義務教育ではもちろん、大学に至るまで安全保障や軍事について全く教えなくなった。


■米国の深慮遠謀を見抜けない為政者にリーダーの資格なし

 そして60余年、その教育を受けてきた世代が日本の指導層を占めるようになった昨今、現在のように安全保障への無関心、無感覚が生じている。

 これが当時の米国の深慮遠謀であり大戦略だったとしたら、それに唯々諾々と従ってきたこれまでの為政者の責任はあまりにも大きい。

 鳩山前首相は「友愛」を外交の中心理念に掲げた。「対等な立場でお互いを尊重し、尊敬し合う」ことだそうだが、外交とは机上で握手しながら机の下では足を蹴とばし合うのが本質である。

 「友愛」だけではあまりに一面的である。国家を危機に陥らせない安全保障のセンスがあるなら、必ずヘッジ(リスクを回避するための保険)をかけるべきである。

 中国が主張する第2列島線(伊豆諸島を起点に、小笠原諸島、グアム、サイパン、パプアニューギニアに至るライン)付近にある沖ノ鳥島を聖域化することは、中国にとって対米戦略上不可欠で、逆に中国が外洋に出ることを扼している第1列島線付近に位置する与那国島など先島諸島などについても、中国の長期戦略にとっては必須の獲物である。


■シーパワーを失えば国力は急速に衰える

 これらも日本が我が国固有の領土であることをしっかり主張し、行動しなければ危ういことになる。

 そして大切な海洋権益を失いかねない。それは米国のアルフレッド・セイヤー・マハンがその著『海上権力史論』で論理を展開した「シーパワー」を失うことにつながり、我が国がその国力を萎める大きな要因になる恐れがある。

 米国は、今年2月に発表した2010QDRの中で、米海空軍が共同でJoint Air-Sea Battle Concept(JASBC)の検討を開始したことを公にした。

 対北朝鮮や対イラン政策上、中国の協力が欠かせない事情から、従来のQDRと異なって対中国関連の表現が非常に抑制的になっていると言われているQDRではあるが、中国の接近拒否(Anti-Access)、領域拒否(Ant-Denial)戦略に対処し、西太平洋地域における米国の関与力を保全するためのヘッジ戦略は海空軍共同でしっかりと創り上げようというものである。

この戦略の中で我が国が果たす役割は大きく、期待されているはずである。仮に我が国の貢献が期待できないとするなら、今後の日米関係に深刻な影響が出るに違いない。


■ヘッジ戦略は採るものではなく、選択肢を決めるもの

 世界各国は理想論をぶち上げつつも、きちんとヘッジ戦略を採って万一の場合に備えている。「ヘッジ戦略を採る」と言うからおかしくなるのかもしれない。

 ヘッジ戦略は、その方策を採る、採らないという問題ではなく、採るに当たってどのような選択肢を採るのかというのが通例である。国家の存立をギャンブルに賭けるわけにはいかない。しかし我が国ではヘッジ戦略を採るか否かの議論になっているように思える。

 最悪の状況でも国家を危機に陥れないよう、備えの手を打っておくのが為政者として当然の責任であり、国民もそれを踏まえたうえで国政を任せる。

 ところが「国民の代表」として、また最近は政治主導を強く唱えて政策をリードしようという志のある政治家が、安全保障への配慮に全く欠け、見識を持っていないとしたら、この国の行く末は寒々としたものがある。