●第二二回 小沢問題をどう考えるか
-検察権力・マスコミ報道との関連で (下)


木村 朗 (きむら あきら、鹿児島大学教員、平和学専攻)   
(NPJ通信 2010年3月1日)    http://p.tl/0UlO


3.検察権力の暴走とマスコミ報道の偏向を止めるために
─えん罪と報道被害の防止策をめぐって

(1) 政権交代によって何が起ころうとしたのか
─水面下での改革潰しの動き
  私は、政権交代をもたらした昨年の総選挙をどのように見るかを、 第十六回評論 「今回の選挙結果をどう見るか-小選挙区制の恐ろしさと憲法改悪との連動の危険性を問う(上)」 および 第十七回評論 「今回の選挙結果をどう見るか-小選挙区制の恐ろしさと憲法改悪との連動の危険性を問う(下)」 で考察している。

  そこでは、「今日のような閉塞状況をもたらした主な原因の一つが、メディアの劣化と言論統制の拡大であることは明白であろう。そして、その大手マスコミがあまり触れたがらない問題で、何よりも問題視する必要があるのが、有権者の民意を正しく反映しない現行の小選挙区を主体とした非民主的な選挙制度のあり方であろう。 “政権交代” をもたらした今回の総選挙の結果を一応は歓迎しながらも、その一方で得体の知れない不気味さを感じているのは私だけではないだろうと思う」 と述べ、「今回の総選挙の結果によって、これまでの地方軽視・弱者切り捨てと対米従属・軍拡路線を本質的な特徴とする自公政権に代わって、既得権益とのしがらみが比較的少ない民主党を中心とする新しい連立政権が出来ること自体は基本的に歓迎・評価している」 「特に、取り調べの全面可視化や裁判員制度の見直し、記者クラブ制度の見直しなどの改革には本格的変革の胎動として期待するところ大である」 ということも明らかにしている。
  そして、最後に 「鳩山新政権の今後の動向を見ていく中で、最も重要なのは、何と言っても 「政治プロセス・政策決定過程の透明性」 の確保であり、情報公開とマスコミ対策であろう。破壊された国民生活の再建と歪んだ日米関係の立て直しをはじめ、記者クラブ制度の見直し、核密約・沖縄基地問題の解決、消えた年金と 「かんぽの宿」 問題の決着、取り調べの全面可視化や裁判員制度・死刑制度の見直しを含む検察 (・警察) 権力への対応など、新政権が取り組むべき課題はあまりにも多く重い」 と結んでいる。現時点でもそのような自分の認識・評価に基本的に変わりはない。

  また、小沢問題を冤罪と報道被害の観点から小沢問題を考察した場合に何が見えてきたかといえば、検察とマスコミが一体化した情報操作による小沢氏の狙い撃ちと民主党叩きの世論誘導が米国の圧力をうける形で行われた可能性、すなわち検察権力のリーク情報を無批判的にマスコミが裏づけを取らないまま小沢氏を犯罪人扱いするような過剰な印象操作・偏向報道を一方的に垂れ流し、その結果、検察の正義を疑わない一般国民がそれを鵜呑みにして小沢批判を強めて民主党離れを加速させるというある意味で分かりやすい構図である。戦後初めての本格的な政権交代による 「変化」 への対応として水面下で起こったのが、旧勢力(小泉流に言えば 「守旧派」 「抵抗勢力」)による既存秩序の維持と既得権益の保持を目的とした改革潰しの動きであった。

  結局、小沢氏を狙い撃ちにした特捜検察による常軌を逸した恣意的かつ違法な強制捜査 (別件逮捕という脱法行為や拷問に近い過酷な取り調べなど) は、3人の元秘書らの起訴と小沢氏自身の不起訴という 「痛み分け」 あるいは 「事実上の司法取引」 (あるいは 「米国が仲介する形での手打ち)」 によってとりあえず 「決着」 したものの、マスコミによる執拗な小沢氏バッシングと民主党叩きは小沢氏の 「説明責任」 と 「幹事長辞任」 をあくまでも求め続ける世間の声や民主党の漸進的な支持率低下(マスコミによる 「世論調査」 自体が 「世論誘導 (情報操作)」 の側面があることは言うまでもないが…) となってあらわれるとともに、鳩山連立政権の動揺と米国との交渉基盤の弱体化などの一定のマイナス効果をもたらしている。

  しかし、こうした 「鳩山連立政権VS官僚機構・自民党・マスコミ (・米国)」 という権力闘争・政治闘争が現段階において本当に 「決着」 したわけではない。それでは、検察権力とマスコミが一体となって小沢潰し・民主党叩きを繰り返している真の理由は何であろうか。それはやはり、本格的な政権交代を戦後初めて実現した民主党連立政権が掲げる政策目標、特に検察・警察・裁判所を含む司法制度改革とメディア改革に求めなければならない。それに、「緊密で対等な日米関係の構築」 を掲げる鳩山連立政権が取り組もうとしている米軍再編・普天間基地問題や郵政民営化・米国債購入問題に象徴される米国との関係の根本的見直しを付け加えることもできるだろう (政権交代直後に米国の保守派によって槍玉にあげられた鳩山民主党党首が総選挙前に書いた論文: 『Voice』 2009年9月号に掲載された 「私の政治哲学」 や、その鳩山氏の外交顧問最高顧問とされる寺島実郎氏の論文: 『文藝春秋』 2009年10月号に掲載された 「米中二極化日本外交のとるべき道」 を参照)。

(2)小沢氏と民主党が攻撃された理由 (その一)
─検察権力の暴走と司法制度改革
  検察当局が民主党を敵視する主な理由としては、1.検察の裏金問題を表に出して全面的に解決する、2.検察首脳部の人事を国会承認案件とする (「検事総長に民間から起用」 「地方検事も米国のように選挙で選出せよ」 との声もでていた)、3.捜査・取調べの全面可視化 (全面的な録音・録画だけでなく、弁護士の同席も含む) を実現する、4.裁判員制度の早期見直しを行う、などの意見が民主党の党内にあり、それが政策化されることを何よりも恐れたのではないかという解釈が考えられるであろう。
  検察を批判する文脈の中でこれらの理由を指摘する論者は多い。

  例えば、ライブドア事件で現在も係争中のホリエモンこと堀江貴文氏は、「特捜部の目標は小沢氏の立件だ。最低でも在宅起訴に持ち込み民主党からの離党と出来れば議員辞職を獲得したいところだろう。しかし本来あり得るべきでない検察からのリークと思われる大手マスコミ報道を見る限りなかなか厳しそうである。彼らは政治家の汚職を摘発し正義を貫く事が正しいと思い込んでいるが、実際は民主党政権による司法制度改革で検察の権益が縮小することを恐れているはずだ。当然表立ってそれを認めることはなかろうが、客観的に見れば司法制度改革を阻止することが彼らの主目的であり、小沢氏は徹底抗戦してその検察と全面対決してほしいところである」 と述べている (六本木で働いていた元社長のアメブロ)。

  また、民主党の中島政希議員は、「民主党が追求する政治主導の政策決定システムは、必然的に官僚機構の安定した階層秩序を破壊する。その行き着くところ、GHQによる戦後改革でも生き残った “検察権の独立” を侵害するに至るのではないか。そのことへの過度の警戒感が、小沢一郎氏の政治的個性と相俟って、彼らを司法合理性の罠に陥落せしめたのではないだろうか」 と述べ、「まず第一に、政党側の憲法上法律上の権限を再生することである。 …第二には、検察権力の正統性が、あくまでも 「国民の信任」 に基づくことを明確にする諸措置を講ずるべきである。 …第三に、取調の可視化や証拠の全面開示のための法改正を断行することである」 と具体的な検察改革を提起している (「司法合理性の陥穽」 中島政希の公式ホームページ、平成22年2月26日)。

  そして、前出の元大阪高検公安部長・三井環氏は、静岡刑務所を1月に出所したばかりの段階 (2010年2月2日) で独占インタビューに応じて、(1) 公安調査庁の廃止、(2) 取り調べの可視化、(3) 残記録の全面開示、(4) 証拠物の全面開示、 (5) 裁判員制度は、民意を反映すべき事件はすべて対象に、という獄中で執筆した検察改革案について披露しているが (「晴耕雨読」)、さらに出所後初の講演 (2010年2月19日) の冒頭で 「これを話さないと前に進まない」 という発言に続けて、検察が本来の使命を果たす組織になるためには 「検察が裏金問題を謝罪し、使った金を返し、身体を清くすることから始めなくてはならない」 として、1.千葉法務大臣が検事総長及び事務次官に対して行政上の指揮権を発動すること、2.樋渡検事総長が裏金作りの有無を法務委員会の証人喚問で明らかにすること、という二つの具体的な解決策を提起している (《THE JOURNAL》 2010年2月20日)。

  フリージャーナリストの高野猛氏は、「鳩山政権の本旨は “脱官僚体制” であり、この政権が、明治以来100年余の発展途上国型の中央集権制度の下で実質的な権力を握ってきた官僚権力とその頂点にある検察権力と血で血を洗う戦いに突入するのは必然である」 とし、法務省・検察庁・特捜部のあり方も含む抜本的な見直しの具体例として、「(1) 取調可視化法の制定による検察の恣意的捜査や冤罪の危険性の防止、次に、(2) 政治資金規正法の改正による企業献金の全面禁止と、それと裏腹の 「虚偽記載」 を口実とした検察による安易な政治家抹殺のテロ行為の防止、さらに、(3) 西松事件に関する民主党の第三者委員会の報告が指摘していたように (INSIDER No.498など)、法務大臣による 「指揮権の発動」 の法的解釈の転換、引いては特捜部そのもののあり方ないし存廃、検察首脳人事の政治主導化など検察庁法そのものの見直し」 などを喫緊の課題として挙げている (INSIDER No.531《HATOYAMA》 小沢政治資金をめぐる革命と反革命─鳩山政権は検察権力の横暴と対決せよ!)。

  この上記の 「特捜部そのもののあり方ないし存廃」 については、同じくフリージャーナリストの江川昭子氏がすでに特捜解体の選択肢も含めて検察のあり方を根本的に再検討する必要性について言及していることが注目される。江川氏は 「東京地検特捜部の判断は常に正しい、のか」 (江川昭子ジャーナル2010年1月19日付) の中で、元福島県知事・佐藤栄佐久氏の事件での特捜検察の失態を例に挙げながら 「このように東京地検特捜部が鳴り物入りで捜査を行い、それをメディアが大々的に報じたからといって、その時点での検察の判断が正しいとは限らない」 と述べるととともに、「今回の小沢氏を巡る事件を捜査しているのは、東京地検特捜部だ。東京地検特捜部といえば、エリート検事の集団。ロッキード事件を初めとする数々の難事件を解決してきた東京地検特捜部が自信を持って捜査を行っているのだから、まず間違いはない」 という声を紹介した上で、「果たしてそうか。もしかして、それは “東京地検特捜部幻想” なのかもしれない」 と指摘している。また、最後に 「もし、どうしても特捜部という形で常設させておかなければならない理由があるなら、きちんと説明をしてもらいたい。そのうえで、特捜部が特捜部を常設させておくことのメリットとデメリットを論議し合うべきだろう。特捜部を聖域とせず、解体も含めて、検察のあり方を議論すべきだと思う」 と踏み込んだ発言をしている (「地検 “特捜部” は本当に必要か」 江川昭子ジャーナル2010年2月25日付 2010年02月25日)。

  さらに、月刊 『マスコミ市民』 の石塚聡編集長は、2010年2月号の編集手帖 「国家テクノクラートとの戦争」 の中で、「いま検察が恐れているのは、政権交代によって (1) 「取調べの全面可視化」 が導入されて今までの検察の悪事がばれること、(2) 外国人に地方参政権が付与されることで国体が崩れると懸念していること、(3) 辺野古移転が頓挫して日・米・中の軍事バランスが崩れることであろう。これらを阻止して民主党政権を潰そうとする極めて政治的な行動であると同時に、検察官僚機構を必守するための自己組織防衛なのは明らかである」 と少し異なった視点からこの問題を捉えている。

  ここでの最大の問題は、現行の司法システムにおいては、「検察の犯罪を糺す機関は存在しない」 という点である。これに密接に関連する問題として、起訴独占主義起訴便宜主義(「起訴裁量主義」 とも呼ぶ)の弊害を最も鋭く批判・告発しているのが、きわめて冤罪の可能性の高い痴漢犯罪の容疑で服役を余儀なくされた経験のある植草一秀氏である。植草氏は自分のブログ (植草一秀の 『知られざる真実』 2010年1月19日付、 鳩山総理 「どうぞ闘ってください」 は正論なり)の中で、「そもそも、日本の警察、検察制度の最大の欠陥は、警察、検察当局に巨大な裁量権が付与されている点にある。 ① 犯罪が存在するのに不問に付す裁量権、② 犯罪が存在しないのに無実の罪を着せる裁量権、が捜査当局に付与されている。これが、警察、検察当局の巨大利権になっている」 と述べ、「マスメディア関係者が引き起こした犯罪がどのように処理されたのかを、すべてリストアップする必要がある。メディアで報道された犯罪が、その後、検察当局の裁量権で、“不起訴”、“起訴猶予” とされて、不問に付されたケースは後を絶たない」 と巨大利権が検察とメディアの癒着の一因にもなっていることを指摘している。

  また、「検察とメディアの行動に五つの大きな問題がある」 として、1.無罪推定原則の無視、2.法の下の平等の無視、3.罪刑法定主義の欠落、4.基本的人権尊重の無視、5.検察の犯罪の放置を挙げているが、いずれも重要な指摘だと思う (検察官が 「勝手に」 作成する聴取調書作成実態 (植草一秀の 『知られざる真実』 2010年1月28日を参照)

  さらに植草氏は、2001年3月に浮上した三井氏の告発による検察の裏金問題の浮上と2002年4月の三井氏の逮捕を契機に、「検察は小泉首相の私的秘密警察の色彩を色濃く帯びることになった」 ことに注目を促すとともに、小沢一郎氏の2006年4月の民主党代表就任以来の小沢氏への一貫した 「狙い撃ち攻撃」 の背後に、「旧田中派支配に対する激しい怨念を抱き続け、検察と高度の取引を実行した小泉政権の暗い影」 を認めている。また、裁判所は検察の暴走を防ぐ歯止めにならないのかという点に関しても 「中立公正であるべき裁判所も政治権力による支配下に置かれている。最高裁事務総局が裁判官の人事権のすべてを握っており、裁判官は良心に従って独立して職務を遂行するが根本から妨げられている」 とずばりと本質を突いている。
  最後に、「検察庁はこれまでの違法な取り調べ、違法な情報漏えいを実行できなくなることから全面可視化に反対しているのだ」 として、検察の不正防止のためにも 「取り調べ過程の全面可視化が必要不可欠である」 ことを訴えているが、評者もまったく同感である (「小泉時代に確立された日本社会暗黒化の構造」 『月刊日本』 2010年4月号を参照)。

 そして、フリージャーナリストの高野猛氏は、検察審査会は、裁判員制度の先駆的形態とも言えるもので、市民から無作為に選ばれた11人の審査員が、 検察の起訴・不起訴の処理に対して不服の申し立てがあった場合にこれを審査して、(1) 不起訴相当 (検察官の不起訴の判断に誤りはない)  (2) 不起訴不当 (検察官の不起訴の判断に疑いがある)  (3) 起訴相当 (検察官は起訴すべきである) のいずれかの判断を下すことや裁判員制度導入にともなう法改正で2009年5月からは、 審査会が同じ件で2度 「起訴相当」と決議すると、検察ではなく裁判所が指定した指定弁護士により強制的に容疑者が起訴されることになったことなどを紹介している。
  また、それに続けて、「(4) 起訴不当」 が欠けていることに触れて、第三者委員会報告書の 「不起訴の場合には、検察審査会……の制度が用意されている。これに対して、不当な起訴がなされた場合、人権侵害の危険性は不起訴の場合より直截的であるにもかかわらず、わが国では制度的手当てがない。そのため、学説上、この点は一種の法の欠陥であるとして、『公訴権濫用論』 が唱えられ」 ているという箇所を引用しながら、「新政権は検察審査会法を再改正すべきかどうかを検討課題とすべきだろう」 と重要な問題提起を行っている (INSIDER No.498 《REGIME CHANGE》 民主党は郷原信郎を法務大臣にしたらどうか/その2 ──第三者委員会報告書の問題提起)。

  しかし、このような重要な問題提起・提言がなされているにもかかわらず、鳩山政権は、捜査・取り調べの全面可視化法案の2年後提出への先送りや、東京地検特捜部による報道機関へのリークを否定する政府答弁書の閣議決定 (2010年1月26日付の鈴木宗男衆院議員の質問主意書への回答) など、当初の改革姿勢から徐々に後退する傾向が顕著になっているが懸念される。

(3)小沢氏と民主党が攻撃された理由 (その二)
─マスコミの迷走とメディア改革の動向
  ここで、もう一つの喫緊の課題に目を転じてみよう。それは、検察改革と並ぶ、いやある意味でそれ以上の決定的な重要性を持っていると思われる、メディア改革に関する問題である。これまで見てきた小沢問題では、検察による恣意的な強制捜査と違法な取調べによる直接的な人権侵害ばかりでなく、検察のリーク情報に依存したマスコミの過剰な偏向報道と、その影響をまともに受けた世間の人々のバッシングという深刻な報道被害が小沢氏とその関係者に対して生じていることは重大である。

  それでは、なぜマスコミはこのような 「検察の正義」 を自明視した一方的な取材・報道をし続けるのであろうか。ここでの最大の問題は、マスコミが検察の監視役ではなく、「検察の正義」 (あるいは 「正義の検察」) という前提を無批判に受け入れて、検察の 「最大の味方」 となってその露払いや煽り役を果たしてしまうことである。

  フリージャーナリストの青木理氏は、検察とメディアの関係について、「検察というのは、まさに権力の中の権力。特にメディアは検察に一切歯向かうことはできない。新聞・テレビにとって検察は最大のタブーといってよい存在だ」 とし、「検察とメディアは完全なる “共犯関係” を形作っている。鈴木宗男氏は 『マスコミは反権力といっているが、本当のところは、権力に踊らされているのではないか』 と問題提起をしていたが、実に鋭い指摘だと思う。マスコミは検察とベッタリの関係に慣れきっている」 と批判するとともに、マスコミが検察に対してこれほど弱腰なのは 「検察が極めて重要な情報源だから」 であり、新聞というメディアが存亡の危機に陥っているのはネットのせいばかりでなく、「新聞が果たすべき本来の役割、権力監視と権力の真相に迫る分析・解説を試みるという役割を果たしていない点に大きな原因がある」 と鋭い指摘をしている (「検察とマスコミは共犯だ」 『月刊日本』 2010年1月号を参照)。

  さらに、「むろん、検察が “世論に風を吹かせる” ために流すリークは大いに問題だが、これもその情報を無批判に垂れ流すメディアの側に問題があると言える」 とし、「検察リークを受けて報道がつくられているというより、むしろメディア自らが進んで検察の提灯持ちに走っている、というのが実態に近いはず」 「事件捜査のムードはまずメディアや世論、あるいは政治の要請によって作り上げられる場合も多い」 と述べ、「今の新聞やテレビでは、検察の動きをいち早く掴んで報じるのが “特ダネ” とみなされる傾向が強い。畢竟、メディアの記者たちは検察官と同じような視線になってしまい、検察側に寄り添って大掛かりな取材を繰り広げる。時には検察の先回りをして世論を煽る。巷間言われているほど検察リークというのはおそらく多くない」 とその原因を構造的問題に求める重要な指摘を行っている (「マスコミよ、目を醒ませ!」 『月刊日本』 2010年3月号を参照)。

  また、月刊 『創』 2010年4・5月号の 「〈座談会〉 検察報道で批判を受けた新聞ジャーナリズムの危機 (桂敬一×原壽雄×魚住昭×豊秀一)」 の中で、魚住昭氏は 「そもそもどんな事件でも、事件報道は基本的に捜査当局の太鼓持ちにならざるを得ないんです。 …それは検察が意図的にリークしている・していないという問題というより、構造的問題であることを押さえておかなければいけない」 とし、「ただ今回は今までの検察報道よりも捜査情報の核心部分の情報、たとえば供述の内容であったり口座間の資金移動であったりという情報がものすごく流れています。しかもかなり早い時期にです。僕が検察担当をしていた経験からすると、時期的にも量的にもちょっと異常なんです」 と語っている。また、原壽雄氏は、小沢事件で 「検察はいつも正義ではないんだ」 という常識が芽生え始め、「検察批判が大衆レベルまで転化した」 ことを指摘し、「小沢不起訴になってから検察の危機が言われていますが、それ以上に、今回はマスコミの危機を露呈させたと言えますね」 とマスコミに警鐘を鳴らしている。

  そして、桂敬一氏は、「今回の報道は、検察の思惑に乗せられたというよりも、民主党政権の実現を快くなく思う新聞が、政権の最大の弱点は “政治とカネ” 問題、とくに小沢幹事長の政治資金疑惑だ、と捉え、そこを激しく衝いていく動きを見せ、結果的に意図せざる検察との協同作業を生み出す状況になったのではないか、と思います」 と本質的な問題を提起している。各論者の指摘はいずれも重要で傾聴に値する意見だと思う。

  このようにマスコミが検察批判をできない理由には、検察とマスコミの関係に見られる構造的問題があることが明らかになったと言えよう。それでは、マスコミが小沢氏や民主党を攻撃する検察に同調・加担する直接的な理由はいったい何であろうか。その理由は、やはり小沢氏や民主党が掲げるメディア改革に求めなければならないだろう。

  ビデオジャーナリストの神保哲生氏は、民主党のメディア改革政策について下記のように伝えている (「民主党政権が実現すると、何がどう変わるか?」 【第5回】 大手メディアが決して報じない、「メディア改革」 という重要政策の中身 DIAMOND online 2009年8月13日)。
  「・政府の記者会見をすべてのメディアに開放し、既存のマスメディアの記者クラブ権益を剥奪する。
  ・クロスメディア(新聞社とテレビ局の系列化)のあり方を見直す。
  ・日本版FCC(米連邦通信委員会のように行政から独立した通信・放送委員会)を設立し、放送免許の付与権限を総務省から切り離す。
  ・NHKの放送波の削減を検討する・・・等々
これらの政策はいずれもマニフェストには載っていないが、民主党の正式な政策だ。記者会見の開放はマニフェスト発表の記者会見で鳩山由紀夫代表自身がはっきりと明言しているし、その他はすべて 『民主党政策集 INDEX2009』 に明記されている。」

  一読すればすぐに分かるように、非常に興味深い内容である。問題は、なぜこのような重要な事実がほとんどの人に知られていないのか、いったいなぜこのような重要な情報をマスコミは報道しないのであろうか、ということである。
  神保氏は、そのことについて、「知られていない理由は、大手マスメディアが民主党のメディア政策をまったくと言っていいほど取り上げようとしないからだ。これらの政策が自分たちに都合が悪いからなのか、それともこうした政策をそれほど重要とは考えていないからなのか、その真意は定かではない」 と述べている (同上)。しかし、もしマスコミがこの情報の重大性を知ったうえで流すことを意図的に阻止していたとすれば自らの保身 (特権・既得権益の保持) のための卑怯な隠蔽行為であり、あるいはマスコミがこの情報の重大性にもし気づいていなかったとすれば自らの無能力を曝け出した愚かな行為であると言わざるを得ない。そして、そのどちらにしてもメディア・ジャーナリズムの自殺行為であることは明らかである。

  民主党の掲げるメディア改革政策の中でも時に注目されるのが、「記者会見のオープン化」 と 「クロスオーナーシップの禁止」 である。民主党は、政権交代後に試行錯誤しながらも、記者クラブ加盟社以外でも記者会見に参加できる 「記者会見のオープン化」 を徐々に進めている。すでに、政権交代後、フリーやネット記者が参加する記者会見の開放は当初期待されたように一挙には実現されなかったが、外務省を皮切りに徐々に進み、 2010年4月現在、外務省・金融庁、法務省、総務省、内閣府の一部 (行政刷新会議)、環境省、首相官邸などでその形態・方法や程度はさまざまではあるが何らかの形でオープン化を実現している。

  まず 「記者会見のオープン化」 であるが、前出の神保氏は、現状の 『会見がオープンになっていなくて、単なる親睦団体であるはずの記者クラブのみにアクセスが認められている』 という状態が問題なんです。現段階では、『記者会見に出られるという特権を享受することで、自らが脆弱な位置に立たされている』 という点が問題です。具体的には 『気に食わないことを言ったり掟を破れば、出入り禁止になるなどの制裁がある』 ので、クラブ構成員は予定調和の範囲内で行動するという仕組みが出来上がっています。1社だけ違うことはやらないし、他の人がある程度を超えていやがることはやらない」 と記者クラブの現状を語るとともに、「会見がオープンになるということは、会見に出られることが特権ではなくなることを意味します。これは、ほんの一面に過ぎません。もっと大事なことがある。それは、『記者がどんなにイヤな質問をしても、それを理由にして会見に出られなくなることはない』 ということです。欧米の会見がオープンな理由は、それだけです。反社会的なことをしない限り、出入り禁止はないということです」 と記者会見をオープン化することの利点を強調している (「テレビがなぜ 「新聞再販」 報じないか 民主新政権のマスコミ政策に注目」:連載 「テレビ崩壊」 第10回<最終回>2009/9/ 6、ビデオジャーナリスト・神保哲生さんに聞く)。

  この問題を神保氏などとともに最も強く主張してきたのが上杉隆氏である。上杉氏は、「確かに、小沢一郎も権力である。だが検察もまた国家権力である。なぜ日本のメディアは、双方の言い分を公平に扱って、読者や視聴者に判断を委ねることをしないのか。なぜ日本の記者クラブは、世界のジャーナリズムで当然に行われている権力報道のルールから逸脱することが許されるのか」 と日本の記者クラブに対する根本的疑問を提起すると同時に、「検察と司法記者クラブで作られる “官報複合体” の影響力は絶大だ。あらゆる事件に対してそこに疑義を差し挟むことは許されない。とりわけ日本のメディアで仕事をする者は全員、その “権力複合体” の前では、黙るか、傅くか、あるいは排除されるのかのいずれかしか道は残されていなかった」 「検察の暴走を報じない日本の新聞・テレビなどの記者クラブメディア。日本は再び、“大本営発表” が蔓延る、あの戦前の暗黒時代に戻ろうとしているのではないだろうか」 と述べて、検察と記者クラブメディアを共生 (癒着) 関係が生み出した “官報複合体” の実態を暴露・批判している (「小沢問題で検察リークに踊らされるメディアへの危惧」 【第110回】 週刊上杉隆 DIAMOND online2010年1月21日より)。

  さらに、上杉氏は、記者クラブの発表報道にようやく疑問を呈しはじめた各閣僚の発言、たとえば、「特捜部にも説明責任がある。何の事件か分からないというのが率直な感想だ」 (中井洽国家公安委員長)、「検察の言うことが100%正しいということは絶対にない。冤罪捜査もいっぱいある」 (赤松広隆農林水産大臣)、「『関係者』 という報道は、何の関係者なのか分からない。検察の関係者なのか、被疑者 (の関係者) なのか」 (原口一博総務大臣)、「あまりにも一方的に情報が媒体に出てくることで不公平感を感じるところはある。弁護士の話が出てこず、一方的に 『関係者の話によると』 とか、少し一方的かなあという気はする」 (平野博文官房長官) を紹介する流れの中で、原口大臣がツイッター上で行った 「つぶやき」 に注目して、それに全面的な賛意を表明している。

  そこでは、海外メディアの 「報道の5原則」、すなわち、原則1 「推定無罪の原則」 (最初から有罪であるよう印象づける報道はしないこと)、原則2 「公正な報道」 (検察の発表だけをたれ流すのでなく巻き込まれた人や弁護人の考えを平等に報道すること)、原則3 「人権を配慮した報道」 (他の先進国並みに捜査権の乱用を防ぐため、検察・警察の逮捕権、家宅捜索権の行使には、正当な理由があるかを取材、報道すること)、原則4 「真実の報道」 (自主取材は自主取材として、検察・警察の情報は、あくまでも検察・警察の情報である旨を明記すること)、原則5 「客観報道」 (問題の歴史的経緯・背景、問題の全体構図、相関関係、別の視点などをきちんと報道すること) が取り上げられている。この原口大臣の発言は、自分の 『関係者』 発言を非難する報道への牽制という意味合いがあったが、海外メディアでは 「常識」 となっているこれらの諸原則から逸脱した報道を繰り返す日本の記者クラブメディアのあり方に対して警鐘を鳴らしたものとして傾聴に値する内容を持っている (「検察という国家権力にすり寄る記者クラブメディアの醜悪」 【第111回】 週刊上杉隆 DIAMOND onlin2010年1月28日より)。

  また、魚住氏は、前述の座談会の中で、「上杉さんは、クラブ所属にはこだわらない、政府はクラブを解散せよ、とも言っていますが、クラブは記者たちの任意組織であって、政府が作ったものではない」 とし、「ジャーナリストたるもの誰にでもメンバーとなる機会を与え、利用できるようにすることこそ、重要な課題なのだ」 と述べ、「もっと多様な記者会を作っていって、それらを統一的なにしていく必要がある」 と具体的な対応策として記者クラブ撤廃よりも新しい記者ユニオンを作ることを提案している。

  これに対して、同志社大学の浅野健一氏は、「日本にしかない記者クラブ制度は、主要報道機関の社員記者たちがフリー記者らを排除する職業差別である」 ので記者会見の開放だけでは問題の解決にはならないとし、田中康夫元長野県知事が2001年に行った 「『脱・記者クラブ』 宣言を高く評価して、「記者クラブがなくなっても、海外にある 『プレスセンター』 『広報センター』 が残ればいい」 「記者の協会 (ユニオン) をつくることを拒んでいるのが記者クラブであり、新聞協会に加盟する大メディアの正規社員たちだ」 「今こそ、記者クラブ解体、脱 『記者クラブ』 宣言を発するときである」 と独自の観点から持論を主張している。いずれも一考に値する貴重な提言であり、各論者の見解の違いはそれほど大きな問題ではないと思われる。

  さて、メディア改革でもう一つの重要課題が 「クロスオーナーシップ規制・禁止」 問題である。この問題で、原口一博総務相は2010年1月14日に、新聞社が放送局を支配する 「クロスオーナーシップ」 を禁止する法律を制定したいという考えを明らかにした。原口大臣は、その日に外国特派員協会で開かれた講演で、新聞・テレビの 「クロスオーナーシップ」 に関する記者の質問に、「マスメディア集中排除原則、これを法案化します。そして、クロスメディアの禁止、つまり、プレス (新聞) と放送が密接に結びついて、言論を一色にしてしまえば、そこには多様性も、民主主義の基である批判も生まれないわけであります。これを法文化したいと考えています」 と答えている (JCASTニュース2010/1/15、)。

  これがもし実現すれば鳩山政権が掲げる改革の最大の目玉の一つになることは間違いない画期的な出来事であるが、新聞・テレビ・ラジオなどの大手マスコミはこの問題をなぜか一切報じなかった。講演翌日の1月15日には総務省で定例会見でも大手マスコミはこの問題を黙殺しようとしたことからも、その激しい反発が窺える。しかし、原口総務相はその場においても、ネットメディア 「ビデオニュース・ドットコム」 の竹内梓カメラマンから唯一出された質問に応える形で 「一つの大きな資本体がテレビも新聞もラジオもとると、言論が一色になる。そういうことはジャーナリズムの世界ではあってはならないと伝えられているわけで、いろんな国が出資規制を置いている。そのことについては、私たちもしっかりと、国会でも議論いただいている。その議論をふまえた一定の結論を出していくということを言ったわけです。主要メディアが報じなかったかどうかは、私のコメントできるところではありません」 と改めてその狙いを説明している(JCASTニュース2010/1/15)。

  この問題について、独立系映像メディア 「アワープラネット・ティービー」 の白石草代表は 「問題はどこまで本格的に踏み込んで規制をするか。欧米のようなクロスオーナーシップ禁止が実現すれば放送業界も大きく変わるだろうが、新聞業界の反発はすごいだろう。現在はまだ大騒ぎになっていないので、騒ぎにならないうちに民放連 (会長は朝日新聞出身) がつぶそうとするのではないか」 と語っている (同上)。

  また、ビデオニュース・ドットコムを運営する神保哲生氏は、再販問題を報道しようとしないテレビの姿勢を問う中で 「本来は再販問題の利害当事者ではないはずのテレビが、クロスオーナーシップのせいで、再販問題について報じられなくなっています。テレビが完全に利害当事者になってしまったんです。逆に、新聞社が権力に弱い放送局を持っていることで、権力の影響を受けやすくなってしまっている。クロスオーナーシップは多くの先進国で禁じられているのですが、その理由は “言論多様化の妨げになる” からです」 と本質的な問題点を鋭く衝くとともに、「唯一、この状況を正す方法は、メディア間での相互批判を担保することです。例えばNHKが民放を、雑誌が新聞を、新聞がテレビを批判する、といったように」 とクロスオーナーシップを禁止する意義を強調している (前掲 「テレビがなぜ 「新聞再販」 報じないか 民主新政権のマスコミ政策に注目」 を参照)。

  このように、鳩山連立政権による 「記者クラブ制度改革」 や 「クロスオーナーシップ規制・禁止」 などといったメディア改革に対しては、既存の記者クラブメディア・大手マスコミ側には大きな抵抗・反発があることは、総務省の表明をTV局や新聞が一切報道していないことからも分かるであろう。しかし、既存の記者クラブメディア・大手マスコミ側が自分たちにとって都合の悪いことは報道しないというのは、あまりにも異常であり、権力の監視・批判と国民の知る権利に応えるという言論・報道機関としての自らの使命・役割を放棄するものであると言わざるを得ない。

  この点について、ITジャーナリストの佐々木俊直氏は、その新著 『マスコミは、もはや政治を語れない 徹底検証: 「民主党政権」 で勃興する 「ネット論壇」』 講談社(2010/2/26) の中で、官邸での記者会見を開放しようとしない張本人として平野博文官房長官をやり玉に挙げる一方で、官邸記者クラブの幹事社だった共同通信の記事を例に 「ここまで嘘を書く通信社を、いったいどうやって信じればいいのだろう?」 と記者クラブ騒動を歪曲・黙殺したマスコミを痛烈に批判している (同書、68~70頁を参照)。そして、「日本では、マスメディアのアジェンダ設定能力はいまでも健在だ」 という事実を認めながらも、「マスメディアのアジェンダ独占は、永遠に続くわけではない。おそらく数年後には、インターネットの影響力がマスメディアのそれを凌駕する時期が間違いなくやってくるだろう」 と宣言している (同書、75~77頁を参照)。

  評者もインターネットの時代が予想以上の早さでやってきていることを実感している。しかし、既存メディア・大手マスコミの言論・報道機関としての役割がすでに終わっているとは考えてはいない。むしろ、現在の存亡の危機を契機にして既存メディア・大手マスコミに従事するすべての人々がこれまでの問題点を率直に認識・反省し、権力の監視・批判と国民の知る権利に応えるという本来の自らの使命・役割に徹するならば、新しいメディアとの役割分担を模索しながら滅亡への道から抜け出して再生・復活の活路はいまからでも十分見いだすことができると確信している。現場で日夜苦闘している多くの魂のあるジャーナリストの奮闘を切に願っている(この点で、最近出された 『東京新聞』 の社説 「週のはじめに考える 権力監視と未来の提言」 2010年4月4日付が特に注目される。この小沢問題をめぐる報道を批判的に検証した社説を読んで、新聞もまだ捨てたものではないな、と感じたのは私だけではないだろう)。

  ここまで、上・中・下の3回にわたって、小沢問題を題材に、冤罪・報道被害の防止という観点から検察権力とマスコミ報道のあり方を批判的に論じてきた。私が、小沢氏や民主党に必ずしも全面的な共感・支持を寄せているわけではないことは、 第十六回評論 「今回の選挙結果をどう見るか-小選挙区制の恐ろしさと憲法改悪との連動の危険性を問う(上))」 および 第十七回評論 「今回の選挙結果をどう見るか-小選挙区制の恐ろしさと憲法改悪との連動の危険性を問う(下)」 を読んでいただければお分かりになっていただけると思う。ただ、少なくとも政権交代後に鳩山政権が取り組もうとしている対米関係の見直し (真の独立国家への志向) や、いままで触れてきた検察改革・メディア改革の中には積極的に評価される方向性・内容が含まれていることだけは確かである。ただ、残念なことに、そうした積極的な方向性・内容を持っていたはずのさまざまな改革案が、大きな壁 (既得権益を死守しようとする旧勢力の激しい抵抗・妨害) に直面して少しずつ後退し、その一部が骨抜きにされようとしていることもまた事実である。

  いま現在、日本だけでなく、世界においても政治・経済・軍事・社会など各分野で地殻変動ともいえる大きな変化が起きようとしている。 21世の新しい秩序をいかにして構築していくか、という問題をめぐって大きなせめぎ合い・権力闘争 (凄まじい既得権益・覇権争奪戦) が日本内外の水面下で行われていることも知っておかねばならないだろう。
  長期の日本滞在歴を持つ優れたオランダ人ジャーナリストであるカレル・ヴァン・ウオルフレン氏 (アムステルダム大学教授) は 「日本政治再生を巡る権力闘争の謎」 という論文(『中央公論』 2010年4月号)で、下記のように現在生じつつある事態の本質を見事に捉えている。少し長くなるが、その要点を紹介したい。

  「いま日本はきわめて重要な時期にある。真の民主主義をこの国で実現できるかどうかは、これからの数年にかかっている。 …国際社会で、真に独立した国家たらんとする民主党の理念を打ち砕こうとするのは、国内勢力ばかりではない。アメリカ政府もまたしかりである。 …民主党政権発足後の日本で起こりつつある変化には、実は大半の日本人が考えている以上に大きな意味がある、と筆者は感じている。 …あらゆる国々は表向きの、理論的なシステムとは別個に、現実の中で機能する実質的な権力システムというべきものを有している。 …日本のシステム内部には、普通は許容されても、過剰となるや、たちまち作用する免疫システムが備わっており、この免疫システムの一角を担うのが、メディアと二人三脚で動く日本の検察である。…検察とメディアにとって、改革を志す政治家たちは格好の標的である。彼らは険しく目を光らせながら、問題になりそうなごく些細な犯罪行為を探し、場合によっては架空の事件を作り出す。 …日本の検察が、法に違反したとして小沢を執拗に追及する一方、アメリカは2006年に自民党に承諾させたことを実行せよと迫り続けている。 …いま我々が日本で目撃しつつあり、今後も続くであろうこととは、まさに権力闘争である。これは真の改革を望む政治家たちと、旧態依然とした体制こそ神聖なものであると信じるキャリア官僚たちとの戦いである。 …日本の新政権が牽制しようとしている非公式の政治システムには、さまざまな脅しの機能が埋め込まれている。何か事が起きれば、ほぼ自動的に作動するその機能とは超法規的権力の行使である。このような歴史的な経緯があったからこそ、有権者によって選ばれた政治家たちは簡単に脅しに屈してきた。」

  ウオルフレン氏は世界史的な視野で現在起きつつある事態の正確な位置づけを行っており、私もこうした見方に基本的に同意できる。現在起きつつある事態が示しているのは、誰が国家を実質的に動かしているのか、あるいは世界の覇権を本当に (非公式に) 握っているのは誰なのか、という世界の権力構造に関わる基本問題なのである。

  最後にお一人の方の言葉をご紹介してこの論評をまとめさせていただきたい。その方は前福島県知事の佐藤栄佐久氏で、「いま、日本は全体主義に向かって突き進んでいます。よこしまな権力はそのままにしておいて何かが起こったとき、一番不幸なのは国民です。その種をつぶしていくには、市民と自治体が心を一つにしてそれを監視し、闘っていくことが大事です。『このまちをどうしていくのか』 というとき、力が発揮できるのは地方自治体と市民なんです」 と述べ、最後に 「いまこそ、民主主義、人権とは何かをもう一度考える必要があります」 と結んでおられます (「言論が一つの色になってしまう危うさ」 平成22年2月7日の講演の抄録より)。非常に含蓄に富んだお言葉であり、暗黒社会を知らぬ間に引き寄せるというかつての過ちを再び繰り返さないためにも、肝に銘じておかねばと思います。

  戦争・恐慌・環境破壊・パンデミック・モラルハザードといったさまざまな危機・災いに見舞われようとしているのが、いまの世界の現実です。このような深刻な状況下ある世界において私たちがこれから明るい未来を開いていくためには、こうした厳しい現実を直視しながら、あくまでも希望を失わずに日本と世界をより良くするために一歩ずつ進んでいくしか選択肢はないことをあらためて確認する必要があります。多くの国民が 「歓迎」 したはずの、あの政権交代が意味したものは果たして何であったのか、鳩山政権の本気度だけでなく、私たちの本気度も問われているのだと思います。

(終わり)
2010年4月5日


〈参考文献の紹介〉
・郷原信郎 『検察の正義』 (ちくま新書)筑摩書房(2009/09)
・郷原信郎 『検察が危ない』 (新書)ベストセラーズ(2010/4/9)
・青木 理 『国策捜査―暴走する特捜検察と餌食にされた人たち』 金曜日 (2008/05)
・新藤宗幸 『司法官僚―裁判所の権力者たち』 (岩波新書)岩波書店 (2009/08)
・魚住 昭・斎藤貴男・大谷昭宏・・三井 環 『おかしいぞ!警察・検察・裁判所―市民社会の自由が危ない』 創出版(2005/08)
・佐藤栄佐久 『知事抹殺 つくられた福島県汚職事件』 平凡社(2009/9/10)
・三井 環 『告発! 検察 「裏ガネ作り」』 光文社(2003/5/7)
・鈴木宗男 『闇権力の執行人』 (講談社+α文庫)講談社(2007/9/20)
・植草一秀 『知られざる真実―勾留地にて―』 イプシロン出版企画(2007/08)
・佐藤 優 『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて』 (新潮文庫)新潮社 (2007/10)
・菅家利和 『冤罪 ある日、私は犯人にされた』 朝日新聞出版(2009/8/20)
・柳原 浩編纂 「ごめん」 で済むなら警察はいらない―冤罪の 「真犯人」 は誰なのか? 』 桂書房(2009/08)
・緒方重威 『公安検察 私はなぜ、朝鮮総連ビル詐欺事件に関与したのか』 (現代プレミアブック)講談社(2009/8/1)
・平野貞夫 『 ロッキード事件 「葬られた真実」』 講談社(2006/7/25)
・江副浩正 『リクルート事件・江副浩正の真実』 中央公論新社(2009/10/23)
・山下洋平 『あの時、バスは止まっていた 高知 「白バイ衝突死」 の闇』 ソフトバンククリエイティブ (2009/11/16)
・田中森一 『反転―闇社会の守護神と呼ばれて』 (幻冬舎アウトロー文庫)幻冬舎(2008/06)
・菅家利和・河野義行 『足利事件 松本サリン事件』 ティー・オーエンタテインメント (2009/9/12)
・魚住 昭 『特捜検察の闇』 (文春文庫)文藝春秋(2003/05)
・石塚健司 『「特捜」 崩壊 墜ちた最強捜査機関』 講談社(2009/4/11)
・宮本雅史 『歪んだ正義―特捜検察の語られざる真相』 (角川文庫)角川学芸出版 (2007/05)
・梶山 天 『「違法」 捜査 志布志事件 「でっち上げ」の真実』 角川学芸出版 (2010/2/6)
・上杉 隆 『ジャーナリズム崩壊』 (幻冬舎新書)幻冬舎 (2008/07)
・上杉 隆 『記者クラブ崩壊 新聞・テレビとの200日戦争』 (小学館101新書)小学館 (2010/4/1)
・神保哲生 『民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるか?』 ダイヤモンド社 (2009/7/3)
・佐々木俊尚 『マスコミは、もはや政治を語れない 徹底検証: 「民主党政権」 で勃興する「ネット論壇」』 (現代プレミアブック)講談社(2010/2/26)
・岩瀬達哉『新聞が面白くない理由』(講談社文庫)講談社(2001/09)
・日隅一雄 『マスコミはなぜ 「マスゴミ」と呼ばれるのか─権力に縛られたメディアのシステムを俯瞰する』 現代人文社 (2008/4/25)
・木村 朗(編 『メディアは私たちを守れるか?―松本サリン・志布志事件にみる冤罪と報道被害』 (市民講座いまに問う) 凱風社(2007/11)