「この判決は裁判官が検察に投げたインコースギリギリのクセ球」


郷原信郎氏(名城大学教授・弁護士)
(THE JOURNAL 2010年9月18日) http://bit.ly/dzDgP8


 村木厚子さんへの無罪判決についてですが、無罪という結論は予想外でもなく、当然の結果です。それよりも私が関心があったのは、裁判官がこの判決の中でどこまで検察批判をするのか、検察の捜査に関する問題がどこまで指摘されるのか、ということでした。


 そこで200ページ以上にわたる判決文を読みましたが、どこにも検察批判らしき文言はありませんでした。全体として、淡々と検察官側の証拠と弁護人側の指摘する証拠との信用性比較、証拠評価を行っています。その結果、村木さんの犯罪を証明するだけの証拠がないといういう結論を淡々と導いている。いささか拍子抜けをしたようなところもありました。検察官請求証拠の却下決定の時も検察の捜査手法の問題をいろいろと指摘されていましたので、これまでの経過を考え、検察が勝手にストーリーを積み上げ、それに合う調書を無理矢理取ろうとしたことに問題があると思っていました。なので、その部分への指摘がまったく出てこないというのは物足りなさを感じたわけです。


 裁判所がこういった冷静で客観的な判決を下して、検察批判をしなかった理由には2つ考えられます。

 一つは、検察と裁判所の関係に配慮して、検察を刺激したくなかったということ。いままで特捜が起訴した事件はほとんど有罪だったわけで、たとえ一審で無罪でも控訴審でひっくり返る。その意味で、裁判所は特捜の事件に対して検察に甘く、今回もそうだったということです。これが一つ。


 もう一つは、検察批判を控えた判決の方が検察を控訴断念に持ち込む上で最も効果的で、戦略的にベターだと考えたという可能性です。判決の最大の目標について「一審で確定させたい」という強い目的意識から、淡々と証拠評価をするだけにとどめた。それ以外のことは一切書かなかい。その方が検察からケチをつけられて反発される余地もなく、検察も控訴しにくくなるというのがもう一つの可能性です。

 問題はどちらがメインの目的なのかということですが、もちろん、第一の理由もある程度考えられていることは否定できないと思う。従来の検察と裁判所の関係から考え、裁判所としては必要以上に検察を刺激したくないという配慮が働いていることは間違いない。


 しかし、私は第二の理由が重要ではないかと考えています。検察の立場に立って考えたとき、この淡々と、本当に冷めた筆致で200ページも書かれた判決文を見て、「控訴趣意書を書け」と言われるとつらい。これまで村木さんの事件に関する本も出ていますが、新聞でも書かれているように「検察が思い違いしていた」「捜査経過が不自然」という点を指摘すると、証拠そのものではなくて捜査に関わる問題となります。そこのところは、自分たちの(捜査方法という)テリトリーの問題ですから、検察からの反論が可能なのです。


 検察批判を徹底的にした例が(日歯連ヤミ献金事件の)村岡兼造さんに対する判決ですが、ああいう判決は検察から批判される余地がある。それで高裁で見事に逆転されてしまった。そういう意味では、主観的な要素をいっさい排除し、冷めた目で検察の証拠と弁護側の反証を比較し、公判の証拠と検察の証拠とを比較して「無罪」と言われた方が検察にとってはこたえる。控訴するのも大変だと思います。


 そう考えると、この判決を「検察との勝負を避けた敬遠気味のボール」と見るか、あるいは「インコースギリギリを狙ったクセ球」とで見方が分かれると思います。そこは私は、裁判所がむしろ「検察にとって一番打ちにくい球を投げた」と評価しています。たしかに、もっと検察批判をしてほしいという気持ちはありますが、控訴されないことを優先したときには、こういう判決の書き方もあるのだろうと思います。