検察よ、少し“傲慢”ではないか


このところ地検特捜部を巡るニュースが相次いでいる。いずれも地検特捜部が追い込まれているので、「特捜部神話は崩壊したのでは」とみる人も少なくないのでは。今回の時事日想は筆者の相場氏が知る検察の姿などを紹介する。

(Business Media 誠:相場英雄 2010年09月16日)  http://bit.ly/aYxwL1  


「厚生労働省元局長と大阪地検特捜部」「小沢一郎前民主党幹事長と東京地検特捜部」――。

 このところ地検特捜部を巡るニュースがかしましい。いずれも地検特捜部が追い込まれる異例の展開となり、“特捜部神話”が崩壊したとみる読者も少なくないはずだ。双方の案件の詳細は他稿に譲るとして、今回の時事日想では筆者が知る検察の姿、そしてそれを巡るマスコミのあり方に触れてみたい。


■出禁の恐怖

 「検査実務を妨害する報道があったため、御社は今後1カ月、定例会見と懇談への出入りを禁止します」――。

 今から10年以上前のこと。当時発足したばかりの金融監督庁(現金融庁)の広報担当者から、筆者の古巣、通信社で金融の諸問題を担当していた取材チームに冒頭のような通達が出された。同庁は旧大蔵省の金融行政部門が分離・独立して設立されたばかり。組織トップには当時の検察から大物OBが就任した。

 筆者を含む取材チームは通達を受け、あんぐりと口を開けてしまった。経済部記者が考える出入り禁止処分とは、経済統計のエンバーゴ(報道解禁時間)破りや、オフレコ破りなどが大半。換言すれば、取材する側とされる側の取り決め・約束を意図的にほごにしたり、隠しマイクで取材したデータを紙面に反映させるなど、明確な形でモラルを逸脱した際に適用されるものが出禁処分だったのだ。

 しかし、当時の金融監督庁は違った。筆者を含めた取材チームはこのとき、金融界の不良債権処理の詳細を追っており、同庁が厳しい姿勢で検査に臨んでいることを詳細に報じた。当然、同庁に対する批判的な要素も多分に含んでいた。取材チームは同庁お抱えのライターではなく、報道記者なのだから当たり前だ。

 しかし、同庁はバッサリと処分を課した。同庁のトップ、すなわち検察OBの強い意向だった。つまり「都合の悪いことは報じてくれるな」という検察スタイルのメディア対応をそのまま使ったわけだ。

 だが、当時の金融取材チームは屈しなかった。取材対象は同庁関係者だけではなく、広く民間金融機関、あるいは金融を専門に扱う弁護士など多岐に渡ったからだ。

筆者は処分を聞き、頭に血が上ったことを鮮明に記憶している。処分後しばらくして、筆者は同庁が某大手金融機関に対して実施していた検査の詳細を、同庁の内部資料とともに写真入りで詳細に報道した。出禁処分を逆手に取り、広報担当者に「書くよ」と仁義を切ることさえしなかった。

 取材チームの他の記者も同様に手厳しい記事を連発した。都合の悪い記事を押さえるという一方的なやり方に、チーム全員が猛烈な怒りを覚えたからにほかならない。


■小沢一郎前幹事長地検関係者への依存度

 これが検察本体への取材だとしたらどうだろうか。社会部の検察担当記者から聞いた話によれば「地検、特に特捜部を取材する際には、一切批判的なトーンは無理」だという。

 特捜部がどのような事件、人物をターゲットに定めているかは地検内部から情報を取るしかない。このため、自ずと地検関係者への依存度が増す。すなわち、「リーク情報を引いてこれるか否かが、記者としての評価に直結する」。

 検察側もこうした構図を熟知しているため、「気に入らない報道は片っ端から出入り禁止にすればよい」(検察出身の弁護士)ということになるのだ。大手メディアの記者は、全社中1人だけ記事をかけなくなる「特オチ」を一番恐れる。この心理を巧みに使ったと言い換えることもできる。

 本稿冒頭に記した大阪、東京の両地検特捜部の案件についても、捜査着手までの数週間の間は、「関係筋」「検察幹部」などの情報ソースからもたらされる、つまり特捜部にとって都合の良い情報しか紙面、あるいはテレビのニュースに登場しなかったのだ。

 「リーク依存度」が極めて高い担当社会部記者の心理を操り、これを報道に反映させた。筆者が経験した金融監督庁の事案から、いやもっと以前から同様のメディア対策の手法が取られていたわけだ。


■切れ者刑事20人の伝説はいずこに

 しかし、こうした強引とも言えるメディア対策の手法は、冒頭の案件が示すように肝心の捜査そのものにも波及し、検察という組織全体を蝕んでいたのではないだろうか。

 筆者は社会部経験がなく、検察取材を直接手がけたことはない。だが、旧知の同僚、あるいは他社の記者、フリーのジャーナリストからは口々に「実地の捜査能力が低下している」との言葉が漏れてくる。

 「ベテランや切れ者と呼ばれる刑事が20人束になってかかっても、特捜部の検事にはかなわない」――。かつて筆者が小説の取材で警視庁関係者を当たっていると、頻繁にこんな言葉を聞いた。彼らの言葉には誇張はなく、検察官の能力の高さを筆者はすり込まれた経験がある。だが、最近の地検、あるいは特捜部の対応を見ていると、ベテラン刑事が発した“伝説”は過去のものだと言わざるを得ない。

 筆者は地検の機能を分散せよ、あるいは解体せよと主張するつもりはさらさらない。ただ、一般国民との間で橋渡しの役割を果たす記者への対応を変えるだけでも、自身に降り掛かってくる批判の雨が幾分和らぐのでは、と一考を促しているだけなのだ。