バリバリの全共闘世代。今も残るセクト主義の匂い [最高権力者・仙谷由人 危険な正体]
(日刊ゲンダイ 2010/9/22)

東大紛争時は救援対策部

「オレの足がもう少し長ければ、総理大臣になれるのに」

これが、仙谷由人官房長官の口癖だという。
「その割には猫背を直そうともしないので、余計に小さく見える。まぁ、これは自虐ネタのようでいて、実は彼一流の自慢なんです。“足の長さ以外はオレが一番”という意味。屈折してますよね。でも、最近はあまり言わなくなりました。次の総理大臣が射程圏内に見えたせいか、菅総理を手のひらの上で転がして内閣を実質的に取り仕切っているという自信の表れなのか。代表選で小沢一郎を負かしてからというもの、唯我独尊にますます拍車がかかっています」(政治部ベテラン記者)
この大官房長官は、きのう(21日)の会見でこんなことを言っていた。
「(脱小沢を)全く意識していない」「マスコミに(小沢系、反小沢系という)レッテルを張られるのは迷惑だ」
よく言うよ、だ。自分が一番レッテル張りをしているクセに、こんなウソを平然とぬかす仙谷とは、どんな育ちの男なのか。
1946年、徳島市生まれ。裁判所書記官の父・昌一と、高校教師の母・真喜子の長男として誕生した。敗戦間もない混乱期で、「自由人」という言葉にちなんで「由人」と名づけられたという。
小・中・高と地元の徳島で過ごし、64年に東大入学。学生時代のあだ名は「ケロヨン」だった。その由来は、「酒に酔って薬局から看板を失敬し下宿に飾っていたから」と、今年3月にラジオ日本の番組に出演した際に答えている。


司法試験受験のために1年留年していた68年、東大紛争が勃発。バリバリの全共闘世代だ。当時を知る関係者が、こう述懐する。
「仙谷は救援対策部で、法律的な相談に乗ったり、逮捕された学生の救援にあたっていました。最前線の闘士ではなかったけれど、彼の言動を見ていると、今もセクト主義の匂いを感じます。自分たちの権利や利益に固執し、対立相手を徹底的に潰そうとする。排斥の根底にあるのは憎悪の感情です。それでいて、東大紛争の年にちゃっかり司法試験に合格してしまったのだから、要領がいい。法曹界では、留年していても、在学中に司法試験に受かるのがステータス。だから、仙谷は、司法試験を目指して受からなかった小沢や、弁理士上がりの菅を今でも見下しているんです」
68年10月の司法試験に合格し、東大を中退。71年から弁護士として活動を始め、主に労組事件や日教組関連の案件を扱った。菅直人と知り合ったのも、弁護士時代だ。全共闘時代の社会民主主義の理論家だった故・安東仁兵衛を介して知遇を得た。社民連にいた菅にカンパしたこともある。菅から出馬を持ちかけられもしたが、仙谷は社会党からの立候補を選ぶ。90年の衆院選に旧徳島全県区から初出馬して、当選。政治家としての道を歩み始めた。(つづく)