検察審査会の小沢一郎氏“強制起訴”議決の意味


山崎 元 [経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員]
(DIAMOND online 2010年10月6日) http://bit.ly/9Czall


■「重い」のはむしろ検察批判だ

 検察審査会は、小沢一郎氏の政治資金を巡る事案で二度目となる「不起訴不当」の議決を発表した。この議決を受けて、小沢氏は強制的に起訴されることになる。

 発表時期に少々意外な点はあったが、第一回目の議決と同じ結論であり、こうした内容の議決が出ることには大きな違和感はない。本件は大いに疑わしいので、法廷ではっきり白黒をつけるべきだ、という市民の感覚に沿ったものだ。

 小沢氏自身、あるいはその周辺から、かつて検察審査会に対して、法律の「素人」が起訴・不起訴を決めることに違和感があるとの発言があったと報じられているが、これは不適当だ。そもそも、検察審査会の趣旨は、一般市民、即ち素人が、その常識と論理に照らして、玄人を自称する検察の判断をチェックすることにある。

 検察が決して無謬でも万能でもないことは、厚労省の村木厚子元局長が無罪になった郵便不正事件を見るだけで明らかだろう。

「議決の要旨」を読むと、検察審査会が証拠を判断した論理が述べられているほかに、たとえば、再捜査について「検察官は再捜査において、被疑者、A、B、Cを再度取り調べているが、いずれも形式的な取り調べの域を出ておらず、本件を解明するために、十分な再捜査が行われたとは言い難い」と述べている。これは、内容的に検察の捜査が怠慢で納得しがたいとの批判であり、重く受け止める必要があるのではないだろうか。


■検察無謬神話を卒業せよ

 本議決は村木氏の事案の影響を受けたものではないが、村木氏の件では検察の強引な捜査の不当性が問われ、本件では捜査と判断の消極性が問われている。

 推測するに、検察も、当初は本件を起訴して有罪に持ち込みたかっただろうが、起訴しても有罪を勝ち取れない場合のダメージの大きさを懸念して、不起訴を決めたのだろう。


プロである検察官は起訴した場合には有罪でなければならないと考えているようだが、一方、熱意と常識を持った素人たる検察審査会は、十分疑わしいので検察がベストを尽くした上で結論は裁判で得たらいい、と考えた。

 正しいのは素人の方だ。罪の有無を検察が決めるという考え方はおかしい。

 起訴事案の有罪判決率99%という日本の検察の過去の歴史には、それなりに評価できる面もあるが、こうしたレコードを守るために、疑わしい事案の司法判断を、検察だけの判断で排除するというのは不適切だ。冤罪を避けるべきことと同様に、罰すべきを見逃す不正義も避ける必要がある。

「議決の要旨」の「国民は裁判所によってほんとうに無罪なのか有罪なのかを判断してもらう権利がある」との記載について、「権利」という言い方がおかしいとの意見があるが、公務員たる検察官は、真実は裁判で決めるとの前提に立ってベストの努力をすべきだ、との国民の代表からの意思表明だと解釈すれば違和感はない。

 検察審査会への批判として「無罪になる可能性がある人も強制起訴され、冤罪を生みかねない」という声が『毎日新聞』(10月5日朝刊、24面。小泉敬太社会部長署名記事)に紹介されているが、冤罪を生むのはむしろ「検察が起訴したのだから、有罪でなければならない」との驕りを伴ったプレッシャーの方ではないか。

 検察審査会は「検察官が起訴を躊躇した場合に、いわば国民の責任において、公正な刑事裁判の法廷で黒白をつけようとする制度」と自らについて説明している。現行の制度では、どんなに嫌疑が濃厚な容疑者でも(たとえば、巡視船に体当たりするような「ならず者船長」でも)検察が起訴を見送れば処罰されない。検察は過剰な裁量権を持っている。正義の公平性の観点から、何らかの歯止めが必要であり、実施方法等に要改善点があるかも知れないが、検察審査会はこの役割を果たすものだ。「国民の責任において」裁判で争うことに不都合はない。


■大手メディアの混乱

 一方、主要各紙を見る限り、メディアの論調は混乱している。

 建前として「推定無罪」の原則を述べ、裁判で決着すべしという検察審査会の趣旨に理解を示しつつも、「起訴=罪人」という従来の先入観を卒業できないのか、あるいは論理以前に小沢氏を排除したいのか、各紙の社説は、小沢氏に対して、自発的な議員辞職ないし離党といった引責を勧告している。

 たとえば、『読売新聞』(10月5日)の社説は、大手紙の中では表現がマイルドだが「刑事被告人になりながら、従来と同様に政治活動を続ければ、国民の政治不信は増幅されよう。刑事責任の有無とは別に、その政治的・道義的責任は重いといわざるをえない」と述べている。

 しかし、刑事被告人と悪人は同義ではない。今回検察審査会は、嫌疑が濃厚だと判断したが、裁判の場で黒白をつけるのが適当だと言っているのであって、小沢氏の有罪を断定したわけではない。

 また、より重要なのは、検察審査会では新聞社が知らなかった新たな事実が出たわけではないことだ。読売以外の各紙も含めて、小沢氏に「責任を取れ」と言うなら、自ら取材した事実に基づいて、根拠を示すべきだろう。事実に変化がないのに、いきなり責任論を語り出すのはメディアとしておかしい。

 各紙は、結局のところ、小沢氏を政治的に退場させたいという思惑と、起訴の段階で刑事被告人を悪人扱いして報じたいという欲求との狭間で、「十分疑わしきは、裁判で決定すべし」という検察審査会の常識的論理を消化することができずにいるようだ。

 奇しくも、無罪となった村木氏の事案を通じて検察に絡む問題が噴出しているが、「起訴が直ちに有罪を意味するのではない」という当たり前の原則をメディアは再確認すべきではないだろうか。

 もちろん、政治家や官僚など権力者に対する批判を、取材した事実に基づいて行うことは悪くないし、それこそが、本来、メディアに期待される役割だ。但し、事実は自らの取材の責任において述べるべきもので、事実の保証を検察に求めるのは筋違いだ。同時に、この態度には、村木氏の事件のような検察の暴走を後押しする危険がある。


■小沢氏の立場

 小沢氏は議員辞職も離党もしないだろう。

 自らの潔白を主張しているのだから、今回の検察審査会の議決によって身を引くことは、自らの主張と矛盾しており、政治的な影響力の決定的な低下を招くだろう。

 但し、検察自体の信頼性が疑われているのだから、「検察が白(不起訴)と判断したのだから、自分は潔白だ」という主張は、もう通用しない。

 取り調べに協力しているのだから、別途説明する必要はないという態度を取り続けることは、小沢氏個人の好みとして自由だが、彼が自らの主張する政策を遂行していく上では、もはや不適当なのではないか。今や、国会の証人喚問の場などで、自らの潔白を国民にいかに納得させるかが、彼の政治的力量だ。小沢氏は議決の発表を受けて「これは権力闘争だ」と述べたと伝えられているが、政治家としては、裁判以前にこの段階こそが闘争の場だ。むしろ積極的に戦うべきではないか。

 民主党は、現段階で小沢氏をどう処置したらいいか扱いあぐねているようだが、むしろ小沢氏に国民に向けた説明の機会を提供する目的で、民主党自身が小沢氏の証人喚問を請求すべきだ。小沢氏と対立しているとされる枝野副幹事長あたりは弁護士資格もお持ちだし、適切な質問ができるのではないだろうか。

 国会による事実の究明と小沢氏自身による説明、あるいは公判の判決を待たずして、小沢氏の除名を決めたり、離党を勧告したりすることは、論理的にもおかしいし、検察審査会の議決趣旨にも反する行為といえるのではないだろうか。