検察審査会に小沢起訴を議決させた「疑わしき法廷」という「空気」
審査補助員弁護士「選抜」の仕組みにも難点


伊藤博敏「ニュースの深層」
(現代ビジネス 2010年10月07日)  http://bit.ly/awQbWB

 「起訴議決」を受け、「こうなったら徹底的に闘いましょう。これは権力闘争だ!」と、側近議員にこう煽られて、小沢一郎民主党元代表は、うっすらと目に涙を浮かべて「そうだな!」と、応じたという。

 よほど悔しかったのだろう。

 司法試験に挑戦したこともある小沢元代表は、法律知識には自信がある。問われているのは政治資金団体「陸山会」の政治資金規正法違反だが、犯した罪は報告書への記載ミスである。違法なことはしていないし、石川知裕元秘書(現代議士)らに指示もしていない。また、そんな痕跡はないという自負がある。

 事実、検察は不起訴処分とした。それを検察審査会の11名の"素人"によって、なぜ「強制起訴」のような屈辱を受けなければならないのか。昨年3月からの1年以上に及ぶ執拗な検察捜査に耐え、民主党代表選に出馬するなど、「最後の戦い」に踏み切った。その結果、政治生命を断たれることを意味する「被告」の烙印を押されることになった。

 心中、察するに余りある。

 だが、こうなることは予測できた。「強制起訴」を盛り込んだ改正検察審査会法は、プロの司法の場に、アマチュアの「市民目線」を取り入れることを目的に、昨年、施行された。その「市民目線」が、法に則したものではなく、感情によって左右されるものであることを実証したのが、今回の「起訴議決」に至る道のりだった。

 検察審査会のメンバー11人は、くじによって無作為に抽出される。任期は半年。今回、「起訴議決」を出した東京第五検察審査会の審査員は、3ヵ月ごとに半分が入れ替わるので、5月と8月に選ばれた審査員であり、4月末の第一回の「起訴相当」という議決には誰も関わっていない。

 だが、8月から本格化したという審査のなかで、当初から「小沢元代表は知っていたに違いない」という推定有罪の立場に立っていた。それは、地検特捜部と司法マスコミが、「特捜案件」を大きく展開していく時の"刷り込み"の効果である。

 強制捜査から逮捕、起訴に至るまでに、新聞とテレビは有罪を決めつけるように報道。雑誌がさらに焚きつけ、小沢元代表の悪役然としたキャラクターもあって、連日の小沢バッシングが続いた。審査会事務局は、「報道に左右されないように!」と、クギを刺すのだが、刷り込まれた悪感情を跳ね返す術を持つ「市民」は少ない。

議論がそこからスタートするうえに、裁判所の審査会事務局、裁判所が選定する審査補助員の弁護士、捜査資料を提供、捜査過程を陳述する検察の法曹三者が、立場は違えども「日本の秩序」のために連帯した。司法修習で同じ釜の飯を食った"仲間"であることを忘れてはならない。

 日本の刑事裁判は、起訴されると有罪率99.9%という驚異的な数字を誇っている。つまり、起訴されるとほぼ確実に有罪となる。それは検事と判事が同じ価値観を持っていることの証である。審査会事務局は資料を作成、スケジュールを調整、議論の方向性と議決の行方に影響力を行使できる立場にあるが、価値観を共有、人事交流で人間関係もある検察の「小沢起訴」への執念を、裁判所が掬い救い取ったとしてもおかしくはない。

 また、それ以上に重要な役割を果たす審査補助員の弁護士は、その選抜過程に小沢元代表のような政治家に対立しがちな弁護士が選出されるというシステム的な問題がある。

 まず、審査補助員は朝から晩まで審査につきあい、時間を取られるのに日当3万円と薄給である。そのかわりに議決を発表する段階で、審査補助員の名前だけは公表されるので、「小沢事件」のような注目案件では、批判の嵐にさらされる。前回、「起訴相当」を議決した時の米澤敏雄弁護士がそうだ。「自民党寄りの法律事務所だ」という中傷も受けた。

 今回、成り手がいなかったので第二東京弁護士会では、会長、副会長の幹部が検討を重ね、刑事事件の専門家で裁判員裁判にも関わり、第一号の裁判員裁判で被告の代理人を務めた吉田繁実弁護士(元副会長)を一本釣りした。59歳とベテラン。国選弁護士も厭わずにやる人権派である。

 前回、「起訴相当」に審査員の気持ちが傾いた時、米澤弁護士は「暴力団組長のボディガードが拳銃を所持していれば、組長も共謀共同正犯に問える」という判例をもとに法的な裏付けを与えた。

 今回も同様である。「小沢元代表に忠誠を尽くしている石川元秘書らが、小沢元代表に不利な証言をするはずがない」という前提で議論を展開。審査員が「起訴議決」の結論に至るのは明白だ。

 その意向を汲んだ吉田弁護士は、複数の被告による警察官殺害の練馬事件の1958年最高裁判例を示し、犯罪の実行者でなくとも、謀議に参加していれば、共犯として有罪になることを認定したのだった。

 検察の立場は微妙である。「不起訴処分」を覆されるという意味では屈辱だが、小沢元代表が、検察が総力をあげて戦った「田中角栄、金丸信を"おやじ"と慕う金権政治家で、日本のためにはならない」という意識を強く持っている。

 しかも法務・検察への強い対抗意識のある小沢元代表は、側近とともに検察人事に介入しようとし、取り調べの可視化を法案化するなど、検察秩序の破壊者と映る。

 自分たちは捜査に失敗、「小沢起訴」を断念した。その代わりを検察審査会に委ね、「強制起訴」で被告にし、政治的影響力を削いでもらいたいというのが本音である。

 小沢元代表に罪を犯したという証拠、証言があるわけではない。疑わしきは法廷に、という新しい司法の姿かも知れない。ただ、そこに流れるのは、「小沢はワル」「ワルだから法廷で裁いてもらう」という「空気」である。司法マスコミと特捜検察が「空気」を醸成、それに審査会事務局も審査補助員も審査員も流された。

 「法の下の平等」は、「法」に則して裁かれることで、はじめて公平を担保される。政党助成金の使い方も含めて、小沢元代表の周囲に「怪しい賭けの流れ」があるのは確かだが、「怪しい」が起訴材料となってはならない。だが、「市民目線」にこだわる限り、どうしても「感情」に支配される。

 極論すれば、「あの人は人相が悪いから」と、裁かれてしまう危険性のあるのが「感情司法」である。その危険性を我が身に置き換えて、小沢問題を再考すべきではないだろうか。