「市民目線」の検察・裁判の恐怖  (日刊ゲンダイ2010/10/7)

リンチで抹殺されそう 小沢一郎の運命

─彼は不法に金を集め、その金で子分を増やして権力を握ってきたといわれているが、最強の検察の捜査で一切犯罪はなかったと2度もその無実が照明されている。


─彼は本当にそれほど悪党なのか

これを魔女狩りと言わずして何と言うのか。


民主党の元代表、小沢一郎に対するメディアの大バッシングである。朝日新聞は5日の社説で「自ら議員辞職の決断を」とこう書いた。
〈審査会は議決の要旨で、秘書に任せており一切かかわってないとする小沢氏の説明について、「到底信用することができない」と述べた。疑惑発覚後、世の中の疑問に正面から答えようとせず、知らぬ存ぜぬで正面突破しようとした小沢氏の思惑は、まさに「世の中」の代表である審査員によって退けられたといえよう〉
朝日だけではない。毎日は「自ら身を引け」と書き、日経は「最低でも離党を」と迫った。

この書きっぷりには驚いてしまう。彼らの「辞めろコール」の根拠は検察審査会の2度目の議決だ。平均年齢30・9歳、11人のシロウトが「検察官が起訴に躊躇した場合、国民の責任で法廷で黒白つけるのが検察審査会の役割」などと豪語し、「疑わしきは起訴」という暴論を振りかざした結果である。
冷静なメディアであれば、まず、この乱暴をいさめるべきだし、百歩譲って、それが検察審査会の役割だとしても裁判はこれから始まるのだ。それまでは推定無罪ではないか。
それなのになぜ、「議員を辞めろ」と迫るのか。呆れ返った論法だ。



◆まるで北朝鮮か戦前の日本のよう


元検察官で名城大教授の郷原信郎氏は検察審査会の結論に驚き、その後の報道にゾッとしたという。
「検察審査会の議決の中身はいい加減で、勝手に審査対象を逸脱した事案を加えたりしています。審査補助員の弁護士がまるで分かっていないのでしょう。私は議決が無効になり、公判までいかないと思いますよ。ところが、この議決をメディアは小沢叩きに利用している。

─密室で議決する検察審査会にこそ可視化が必要

これから裁判が始まるのに起訴相当が出たことだけを取り上げて騒いでいる。これはメチャクチャな話です。そもそも、小沢氏の疑惑は検察が暴走に次ぐ暴走を繰り返し、何とか立件しようとしたが、力尽きた案件です。そうしたら2段ロケットのように検察審査会が出てきてまた暴走した。メディアもまたきちんと中身を検証せずにイメージ、雰囲気だけで書きまくっている。これでは魔女裁判と一緒です」
恐ろしい国だ。まるで北朝鮮や戦前の日本を見るようだ。トチ狂っている朝日は天声人語(6日付)でも畳み掛けた。
〈国会での説明を避けてきた小沢氏には自業自得だろう。いやしくも政治家なら、お白州の前に赤じゅうたんの上で説明責任を果たしてはどうか〉〈民主党の代表と首相になりそこねたのは、国民にとっても小沢氏にとっても幸いだった〉


朝日は小沢を市中引き回しにして、さらし首にでもしたいのだろう。
その朝日は一方で、村木事件で大阪地検の主任検事がフロッピーを改ざんしたことをスクープした。検察のデタラメを最もよく知っているメディアが小沢には冷静さを欠き、異様な悪意で攻め立てる。要は小沢が気に入らないのだ。汚いカネを集め、子分に配り、数の力で隠然たる力を行使する「古いタイプの政治家」と決め付けている。小沢はそんなに悪党か。数の力こそ、民主主義ではないか。改めて、この国の大マスコミには背筋が寒くなるのである。
今度の議決では「市民目線の怖さ」も思い知らされた。シロウトが国民の代表ヅラして、小沢の政治生命を絶とうとしている。


どう考えたっておかしな話だ。鈴木宗男前衆院議員は「検察審査会にも可視化が必要」と語ったが、本当だ。
「鈴木狙い、小沢狙いで来ているんです。検察が青年将校化し、彼らが小沢氏を有罪にするために審査会でも説明する。こういうことが日本中で起こっている」(鈴木宗男氏)
いまや、検察審査会は暴走検察の隠れみのになっているのだが、その歴史は実は古い。
戦後、検事の公選制など急進的な司法の民主化を迫ったGHQに対し、法務省は検察審査会や検察官資格審査会をつくることで、矛先をかわそうとしたのが発端だ。そのため、検審は長らく形だけの組織だったのが、2001年に司法制度改革推進法が成立し、見直されていく。裁判の民主化、市民参加、スピード・効率アップが叫ばれ、検事が独占していた公訴権に市民が意見できるように2009年5月、検察審査会に強制起訴の権限が付加されたのである。このとき、裁判員制度も施行となったが、恐ろしいのは日本の社会が一連の司法改革とてんでマッチしていないことだ。

◆日本ではなじまない市民裁判の怖さ

「陪審員制度が定着している米国とそうではない日本では国民性、歴史だけでなく、民主主義の成熟度、国民の意識、ポピュリズムの感覚、訴訟のあり方と、すべてが違う。それなのに最高裁は米国に研修に出かけて、真似た制度をつくった。このこと自体に問題があるのです」(名古屋大特任教授・春名幹男氏)
小沢グループとは一線を画する民主党の衆院議員・中島政希氏もこう言う。
「推定無罪がハッキリしていて、裁判でひっくり返ることが日常茶飯事の米国と違って、日本は起訴されると社会的にダメージを被る。そんな中で検察審査会がかくも大きな議決をしたことには違和感を覚えます」
米国の猿真似でスタートしたものの、日本では市民にまず、覚悟がない。正しい判断を出すための教育システム、社会環境も未成熟だ。そんな中、フライングのように市民裁判がスタートし、日本の政治を左右するような重大議決が行われてしまった。

小沢が無罪になっても誰も責任を取らないし、その間、日本の政治は迷走する。裁判が長引き、小沢が政治生命を失えば、万事休すだ。
市民目線の裁判なんて、日本じゃ100年早いのだ。東京新聞で元裁判官の秋山賢三氏はこう書いていた。
〈くじ引きで選ばれた法律知識のない市民に容疑者を強制的に起訴する権限を与えた検察審査会制度には反対だ。検察官による起訴は、人権を侵害する行為。起訴されれば、公務員なら休職、民間企業なら解雇されるなど社会的制裁を受け、裁判が長期化すれば負担も大きい。市民に起訴権限を与えることは、冤罪を生む可能性を高くする。市民が起訴の権限を持つよりも、検察官による起訴を監視しチェックする機能こそが必要だ〉(6日付)
メディアがかくも冷静さを欠いている日本では、市民が予断と偏見を持ってしまう恐れも強い。そんな状況下での市民裁判ほど恐ろしいものはないのである。