郵便不正事件「冤罪報道」は氷山の一角  


牧野洋の「ジャーナリズムは死んだか」
(現代ビジネス 2010年10月14日)  http://bit.ly/d6xnp3


「無罪」が確定してもベタ記事扱いで終わった「ヤミ金資金洗浄事件」外銀元行員の報道被害

指定暴力団山口組旧五菱会絡みのマネーロンダリング(資金洗浄)事件で2004年に逮捕・起訴されたクレディ・スイス元行員、道傳(どうでん)篤--。彼について「資金洗浄の指南役」として記憶していても、無罪を勝ち取ったという事実を知る人は少ないのではないか。

 海外を舞台にした資金洗浄の摘発は初めてで、「ヤミ金融の帝王」梶山進が中心にいただけに、この事件はマスコミで大きく取り上げられた。「指南役」としての道傳にも注目が集まった。ところが、無罪が確実になると、大新聞は道傳のことを忘れてしまったようなのだ。


 前回の記事(「郵便不正事件 なぜ『推定有罪』がまかり通るのか」)では、郵便不正事件で逮捕・起訴された厚労省元局長、村木厚子について「幸運だった」と書いた。刑事裁判の有罪率が99.9%に上る状況下で無罪判決が出たのに加え、大新聞がそれを大々的に報じ、しかも検察側を厳しく批判したからだ。


 主任検事によるデータ改ざん疑惑まで出てきた郵便不正事件を目の当たりにして、道傳は「長期にわたって拘置所で取り調べを受けていた時の光景と重なる」と語る。確かに、最後まで無実を主張し続け、無罪を勝ち取った点で共通する。

 だが、大きな相違が1つある。郵便不正事件では、データ改ざん疑惑が表面化する前の段階から、大新聞が無罪判決を詳細に伝え、被告側の名誉回復を後押ししていた。ヤミ金資金洗浄事件では、被告側が名誉回復したとは言い難い。


■無罪が確定しても職場復帰もできないまま


 村木と道傳は異なる運命をたどることになった。村木は最高検首脳から直接「誠に申し訳なく思っています」と謝罪の言葉をもらい、職場へ復帰した。一方、道傳は国から謝罪も受けていないし、職場へも復帰していない。

 村木の5ヵ月を上回る9ヵ月以上も拘置されるなかで、道傳は多くを失ったのだ。無罪が確定したにもかかわらず、クレディ・スイスからは職場復帰の打診がないばかりか、「お疲れさま」の一言もない。今は電気関連ベンチャー企業の役員を務めているほか、知人と一緒に写真スタジオを立ち上げるなどで、金融界から離れて生計を立てている。

前回も指摘したように、村木は巨大官庁の局長という権力側にあったのに対し、道傳は一介のサラリーマンだったからだろうか。しかも彼の勤務先は、マスコミから「ハゲタカ外資」呼ばわりされることある外資系金融機関だった。それも影響したのだろうか。


 具体的に見てみよう。1審に続いて2審で無罪判決が出たのは2007年9月12日。読売、朝日、毎日、日本経済の各紙は、同日付の夕刊で比較的小さな扱いで報じただけだった。日経は4段見出しの記事であったものの、読売と朝日は1段見出しの「ベタ記事」扱い。文字数にして200字程度、400字詰め原稿用紙の半分だ。

 2審・東京高裁の無罪判決を受け、道傳は投げ込み原稿を用意し、司法記者クラブで配布した。無罪が最終確定したわけではなかったものの、検察側が最高裁に上告する可能性は低かったため、自分の気持ちを世間に伝えたかったのだ。

朝日は同月21日付の1面トップで、郵便不正事件に絡んで主任検事がデータを改ざんした疑惑もスクープ。主任検事に加えて上司2人も逮捕される前代未聞の検察不祥事に発展するきっかけを作り、「検察の組織ぐるみの不正」を追及する急先鋒になった。


 データ改ざん疑惑は、朝日が報道しなければ表面化しなかったかもしれない。だとすれば、いわゆる「発表ジャーナリズム」と対極をなす調査報道のたまものだろう。10月6日にはこの報道で朝日は新聞協会賞を追加受賞した。しかし一方で、村木逮捕時の社説で「厚労省の組織ぐるみの不正」をにおわせていたのも朝日である。

 ちなみに、朝日は2010年度版会社案内の中で、同紙の代表的な調査報道・スクープとして郵便不正事件を取り上げている。同紙の調査報道を受けて大阪地検が動き出し、村木らを逮捕したと指摘したうえで、「朝日新聞は、特捜部のこうした捜査の動向や、事件の構図なども検察担当の記者たちがスクープ」と書いている。

 ただ、朝日は村木の無罪判決後、内容を一部書き変えたようだ。ウェブサイト上にある会社案内では現在、朝日の報道を受けて村木らが逮捕された経緯や「検察担当の記者たちがスクープ」といった表現はカットされ、代わりに「(村木に)無罪判決が出されました。朝日新聞は、逮捕の前後から局長の主張を丹念に紙面化」といった文が入っている。

 郵便不正事件をめぐる報道姿勢で大新聞は豹変したわけだ。当初は「検察応援団」的な報道を展開していたのに、最後は検察たたきに走ったのだ。「水に落ちた犬は打て」といったところか。その点で朝日の改ざん疑惑スクープは痛烈な一撃だった。


■「権力のチェック役」のはずだが


 当コラムで以前に書いた記事(「イラク戦争に火をつけた『大量破壊兵器』スクープッは御用記者の誤報」)の中で触れたコメントを改めて紹介したい。

「権力が盤石な体制にあるとき、マスコミは権力側の主張を増幅して伝える。権力が流す膨大な情報を漏れなくカバーし、紙面を埋め尽くす。それだけで記者は超多忙になり、速報記者に成り下がる。結果的に深堀した取材はできなくなり、権力の応援団になる」

 これは、ジャーナリズム専門誌「コロンビア・ジャーナリズム・リビュー」の編集主幹ブレント・カニンガムが昨年の9・10月号へ寄稿した論文からの引用だ。カニンガムは続けてこう結論している。

「権力のチェック役としてのジャーナリズムはどこに行ったのか。実は、権力のチェック役としてマスコミがフル回転するときもある。権力が失態を演じ、弱体化するときだ。いきなり『われわれは権力のチェック役』と名乗り、権力を徹底的に攻撃し始めるのだ」


 同誌はアメリカの雑誌であり、カニンガムの論文もアメリカのメディアを念頭に置いて書かれている。具体的には、イラク戦争をめぐる報道だ。初期段階で主要メディアはブッシュ政権の御用新聞のような報道を展開しながら、大量破壊兵器が存在しないと判明すると「反ブッシュ」を旗印にするようになったのである。

 ウォーターゲート事件など調査報道の伝統があるアメリカでさえ、権力側のリークに頼る報道が過熱することがあるのだ。ただし、御用記者は信用を失い、追放されるお国柄でもある。ニューヨーク・タイムズのスター記者はイラク報道でブッシュ政権に肩入れし過ぎたため、実質的に解雇されている。

そもそも物事には両面がある。それを無視して一方的な報道を展開し、センセーショナリズムに走れば、いわゆる「イエロージャーナリズム」と変わらなくなる。


 当たり前だが、検察が100%正しいわけではない。逮捕時の報道では①検察側のシナリオとは別に、容疑者の無実を主張する人の見解も必ず紹介する②百歩譲って検察のシナリオだけ紹介するにしても、「~と検察当局はみている」「検察関係者によると~」と検察側の情報であることを明示する――が本来の姿だ。日本の新聞報道ではどちらの点も徹底されていない。

 マスコミ界全体が「検察応援団」になっていたわけではない。雑誌の世界では、週刊朝日が早い段階から独自の調査報道で検察の捜査手法に疑問を投げかけていた。ただ、世論を形成するうえで圧倒的な影響力を持つのは、記者クラブの中心的存在で、取材力でテレビや雑誌など他メディアを圧倒する大新聞だ。


■ニューヨークタイムズのガイドライン


 個人的な体験を振り返ると、ニューヨークにあるコロンビア大学ジャーナリズムスクールに1980年代後半に在学中、指導教官から「反対の立場にある人にも必ず取材し、記事中で紹介すること」と口酸っぱく言われた。情報の出所があいまいで、もっぱら匿名の情報に基づく記事は「信憑性に欠ける」として問答無用でボツにされた。

 同ジャーナリズムスクールは実践的なジャーナリスト教育を売り物にしている。有力紙の現役編集者や記者を非常勤講師として大勢招いているほか、ジャーナリスト経験者で教授陣を固めている。わたしも、在学中は教室内で講義を聞くというよりも、街中に飛び出して取材し、記事を書く日々を送っていた。

 わたしの指導教官には、当時ニューヨーク・タイムズのデスクで、現在は編集局次長のジョナサン・ランドマンがいた。卒業1カ月後の1988年6月16日、同紙は当時の編集局長名で次のような記者倫理ガイドラインを作成し、社内で配布している。

「匿名の政府筋を情報源として使うのはできるだけ避けなければならない。特に、その政府筋が第三者を実名で攻撃する場合だ」


 当時、国防総省ペンタゴンを舞台にした贈収賄事件が表面化していた。マスコミが捜査当局からのリークに頼り、実名で政治家やペンタゴン高官らの関与を報じ、大騒ぎになっていた。

「われわれが捜査関係者から第三者の不正に絡んだ話を聞いたとしよう。その情報を裏付ける証拠は何もない。にもかかわらず、捜査関係者を匿名にしたままで、実名で第三者の不正を報じたら、当局にうまく利用されたことになる。たとえ情報が間違っていても、匿名の捜査関係者は何の責任も負わなくて済むのだ」


 事件報道で「推定無罪」ならぬ「推定有罪」の視点を強く出し、結果的に間違ったら、読者の信頼を失うばかりか、訴訟リスクも負いかねない。そんなこともあり、アメリカの有力紙が情報源をあいまいにしたまま、捜査当局のシナリオをあたかも事実であるかのようにたれ流すことはあまりない。

 日本では今年初め、民主党元代表・小沢一郎をめぐる土地疑惑で検察寄りの報道が過熱したことから、「~関係者によると」ではなく「~捜査関係者によると」と表記すべきとの議論が広がった。それに対し、アメリカでは20年以上前に「~捜査関係者によると」という表現でも不十分と見なされたわけだ。

 匿名の情報源についてニューヨーク・タイムズのようなガイドラインを作成し、社内で徹底している有力紙は日本にもあるだろうか。おそらくないだろう。検察のリークに頼って「推定有罪」的な報道を続けても、恥をかくことはほとんどなかったからかもしれない。繰り返しになるが、刑事事件で有罪率が99.9%にも達しているのだ。

 例外的に無罪判決も出る。その1つが郵便不正事件であり、大新聞は恥をかいた。

村木に無罪判決が出たのを受け、9月14日付の毎日新聞は自らの報道を検証する記事を掲載し、「再認識したのは容疑者側への取材の重要さだった」と自省した。「権力対市民」の構図で見ると、権力側に肩入れし過ぎたと認めたわけだ。


 その意味で村木は幸運だった。大新聞は無罪判決に続いて、主任検事によるデータ改ざん疑惑も大きく報道。検察の捜査手法を批判する一方で、5カ月間も拘置されながら無実を主張し続けた村木の健闘をたたえている。彼女は名誉を回復し、職場への復帰も果たした。

 もっとも、村木は巨大官庁の局長という権力側にあった。一介のサラリーマンの無罪判決だとしたら、大新聞はどう対応しただろうか。しかも、そのサラリーマンの勤務先が「ハゲタカ外資」などと呼ばれてマスコミ受けしない「外資系金融機関」だとしたら、どうだろうか。

 結論から先に言えば、大新聞が無罪判決を実質的に無視してもおかしくない。「推定有罪」で報道してきた事件については、できることなら無罪判決を最小限の扱いにとどめたいという力学も働くからだ。これについては次回で取り上げる。