新聞は小沢氏を追い込めるのか


花岡信昭の「我々の国家はどこに向かっているのか」
(BPnet 2010年10月21日)  http://bit.ly/diQdek


■粛々と進む強制起訴の手続き

 検察審査会の2度にわたる議決によって強制起訴されることになった小沢一郎氏(元民主党幹事長)は、起訴議決の執行停止や指定弁護士選任の仮差し止めを申し立てたが、東京地裁はこれを却下した。

 小沢氏は行政訴訟も起こしているが、「仮処分」申請が退けられたことで、東京地裁による指定弁護士の選任が確実になった。東京地裁は第2東京弁護士会に検事役を務める指定弁護士の候補者3人を推薦するよう依頼している。

 いずれも法的に認められた司法手続きであり、小沢氏側の対応を非難するのは当たらない。こういうことは粛々と進めるのがいい。

 検察審査会の2度目の議決では当初の告発に含まれていないことも「犯罪事実」として認定されており、この点についての疑念も出ている。そうした点も含め、司法の場で黒白をつけていけばいい。

 それにしても、とあえて書く。検察審査会の「起訴議決」が出て、主要紙のほとんどは小沢氏の議員辞職を求めた。だが、小沢氏にその気配はない。このまま小沢氏が辞職しなければ、新聞各紙は「負けた」ことになりはしないか。新聞に小沢氏を追い込むだけの力は備わっているのか。

 「小沢氏、強制起訴へ」を伝える10月5日付の各紙のコピーをカバンに入れて、ときおり引っ張り出しては何度も読み返し、ずっと考えてきた。

 結論的に言えば、政治家の進退を決めるのは有権者である。いかに犯罪容疑が濃い人であっても、選挙で選ばれれば議員になることになんら問題はない。繰り返すが、政治家からその職を奪うことができるのは唯一、有権者だけである。

 そうでなければ、選挙を基盤とした議会制民主主義は成り立たない。その厳粛な事実に、新聞はどこまで介入できるのか。その重い命題が頭を離れない。


■産経、朝日、毎日は見出しで辞職を迫る

 10月5日付各紙の社説の見出しを見よう。

 ・産経新聞  潔く議員辞職すべきだ 「形式捜査」検察はどう答える
 ・朝日新聞  自ら議員辞職の決断を
 ・毎日新聞  小沢氏は自ら身を引け
 ・日経新聞  「小沢政治」に決別の時だ
 ・読売新聞  小沢氏「起訴」の結論は重い

 こういう順番にしたのは、「議員辞職せよ」と迫る度合いの濃い順に勝手に判断したものだ。産経、朝日、毎日は見出しで辞職を迫っている。日経、読売は若干トーンが異なる。

 産経の見出しで「潔く」とつけたのは、違和感が残る。潔いかどうか、そういう情緒的次元で議員辞職という重い決断を迫るというのは、ほとんど意味がない。

 ついでに、「形式捜査」検察はどう答える・・・というのも分かりにくい見出しだが、本文を見ると、検察審議会の議決で、特捜部の再捜査について「形式的な取り調べの域を出ておらず十分な再捜査が行われたとは言い難い」としていることを指したものらしい。

 本文で辞職を迫った部分では「今こそ自ら進んで責任を認め、潔く議員辞職し、政治生活にピリオドを打つべきだろう」としている。

 朝日は冒頭で、「小沢一郎・元民主党代表は今こそ、自ら議員辞職を決断すべきである」と、えらくすっきりとした書き出しだ。

 毎日は末尾で「『古い体質』を象徴する政治とカネの問題を抱える小沢氏が与党の実力者として影響力を保ち続けることは問題がある。国会での究明と同時に、出処進退について、自らけじめをつけるべきである」と書いている。これが「自ら身を引け」という見出しにつながっているわけだ。


■日経と読売はストレートに辞職を迫らず

 日経も末尾で「『親小沢』と『反小沢』という不毛な対立軸で、国政をこれ以上停滞させぬよう、小沢氏は静かに身を引いた方がいい」とするが、「辞職せよ」と迫るスタンスとは若干異なる。

 読売は冒頭部分で「強制起訴により、法廷に立たされる民主党の小沢一郎元代表の政治的責任は極めて重大だ。小沢氏にけじめを求める声が強まるのは確実で、民主党の自浄能力も問われよう」としている。

 読売の場合、本文中で議員辞職を求めるという直接的な表現はない。一定の「たしなみ」が感じられる記事となっている。この基本姿勢が、前述した筆者の感覚と同じものなのかどうかは、紙面を見る限りでは分からない。

 しゃれのようになって恐縮だが、新聞は「紙」ではあるものの「神」ではないのである。小沢氏をどう批判しようとも、言論の自由の観点からはいっこうにかまわない。だが、神に代わって断罪するがごとき態度は、いかがなものか。

 新聞の指摘を受けて小沢氏が自ら議員辞職するのであれば、新聞は重要な役割を示したことになる。だが、辞職しない場合は、「犬の遠吠え」にも近く、それは新聞の持つべき権威や信頼を損ねることにつながるのではないか。

 毎日はこうも書いている。

 「小沢氏に私たちは国会での説明責任を果たすよう、これまで何度も主張してきた」

 何度も求めてきて実現しなかったというのは、新聞の力の欠損を自ら認めることになりはしないか。「書きっぱなし」「主張しっぱなし」で、あとはどうなろうとかまわないということになってしまう。

 言論機関の雄であってほしい新聞が、はしなくもその脆弱(ぜいじゃく)さを証明することになってしまうのは願い下げだ。


■小沢氏の政治的パワーはいまだ衰えず

 国会で説明責任を果たしてこなかった、という言い方がまかり通っている。まさにその通りなのではあるが、むしろ、小沢氏の証人喚問や政治倫理審査会への招致を実現できなかった政治のパワー不足こそが問題なのではないか。

 政治家の証人喚問はこれまで何度も行われてきた。小沢氏も1993年、東京佐川急便事件で証人喚問に応じている。元自民党幹事長という立場だった。

 そのほか、中曽根康弘(元首相)、竹下登(元首相)、細川護煕(前首相)、山口敏夫(元労相)、村上正邦(前自民党参院議員会長)、鈴木宗男(前衆院議院運営委員長)各氏ら、多くの政界要人が証人喚問の場に立ってきた。

 いずれも、証人喚問を実現させるための政治力学が働いた結果である。小沢氏の今回の一件で、これが実現できないまま今日に至っているのは、小沢氏の政治的パワーが「国会」よりも上回っているということにほかならない。

 小沢氏に議員辞職を求めることに関しては、故江藤淳氏を思い出さずにはいられない。

 産経新聞の連載コラム「月に一度」に、1997年3月3日付で「帰りなん、いざ―小沢一郎君に与う」と書いた。このコラムは87年から99年まで続いたものだ。


■思い出される江藤淳氏の名文

 コラムが始まったころ、江藤氏と交わしたやりとりを覚えている。「新聞の1面コラムだからね。ずいぶん緊張したんだ。編集サイドで検討した結果、タイトルが決まって『月に一度』でどうか、と言ってきた。これでほっと肩の力が抜けた。それなら書けると思った」

 繊細な文学者である江藤氏らしいものの言い方であった。

 江藤氏は慶応の10年ほど先輩である。だから君づけの一文となった。新進党の内紛を見てこう書いたのだ。

 「今こそ君は新進党党首のみならず衆議院の議席をも辞し、飄然として故郷水沢に帰るべきではないのか。そして、故山に帰った暁には、しばらく閑雲野鶴を友として、深く国事に思いを潜め、内外の情勢を観望し、病いを養いつつ他日を期すべきではないか」

 江藤氏の言わんとしたことは、これにより、小沢対反小沢の呪縛から脱して、不毛の構図が解消するという点であった。

 いまの小沢氏が置かれた状況とは違うが、小沢氏を中心とした対立構図の解消のためにいったん身を引けという提言には共通するものがあるようにも思える。


■政治は情緒ではなくリアリズムから評論すべきだ

 申し訳ない言い方になるが、江藤氏はやはり文学の人なのだ。その文学的感性から「帰りなん、いざ」の表現が生まれたのである。

 政治はリアリズムの世界であって、権力闘争の場だ。政治記者をやってきた感覚からすれば、「政治家は棺桶に片足を突っ込むまで、ギラギラと政治力を保ち続けなくてはならない」のである。

 一度身を引いたら、誰も寄り付かないし、政治力は見る間に減耗してしまう。それをとことん承知しているからこそ、小沢氏はこういう立場に追い込まれてもなお、政治生命をかけた最終戦争に挑んでいるのだ。

 その冷徹な政治の現実、実力政治家のすさまじいまでの闘争心を知りつくさないと、小沢氏のいまの行動は理解できまい。新聞が果たすべきは、その構造の徹底分析と評価であって、なにやら高みからものを言うような姿勢は、いかにも浮世離れしたものに見える。