「高知白バイ衝突死事故」で考えるマスメディア、ジャーナリスト、ブロガー、市民記者の役割

米国在住ジャーナリスト・岩下慶一
(Media Sabor 2009/02/20)  http://bit.ly/9ssJKD

「高知県の国道で交通機動隊の白バイとスクールバスが衝突し、白バイ隊員が死亡した事故で、「(証拠とされた)バスのスリップ痕は何者かが偽造したものだ」とする証拠隠滅容疑の告訴が不起訴になったことについて高知検察審査会は1月28日付で、高知地検に再捜査を求める不起訴不当の議決をした。」

先月30日、ある新聞に載った記事の要約である。いわゆる高知白バイ衝突事件だ。私事で恐縮だが、今関わっている市民メディアのリサーチの日本の例として、この事件の広まる経過をここ1年ほどチェックしていた。その展開は非常に興味深かった。

まず簡単に事件を要約しておこう。すでにご存知の方は読みとばして欲しい。

2006年3月、高知県高知市で国道に面したレストラン駐車場から出てきたスクールバスが国道の交差点を右折しようとしたところ、県警交通機動隊の巡査長が運転する白バイと衝突し、白バイに乗っていた巡査長(当時26歳)が胸部大動脈破裂で死亡した。

痛ましい内容だが、言葉にすると比較的単純な事故だ。ファミレスの駐車場から出て右折する状況を想像して欲しい。この場合、自分の右方向から来る車と、左方向、自分が合流しようとしている車線の両方の切れ目を狙って車を発進させなければならない。右方向に車がいなくても、左方向から車がくる。左方向に車がないと思えば今度は右から車が数珠繋ぎでやってくる。両方の車線が空く瞬間が中々つかめず、イライラした経験は誰もが持っているだろう。警察側が主張する事件のあらましは、バスの運転手が安全確認を怠り、右から来ていた白バイに気づかずに車両を発進させ、直後に白バイに気づいて急ブレーキをかけたが間に合わずこれと衝突した、というものだ。良くある出合い頭の事故に近い。

一方、バスを運転していた片岡晴彦さんの証言は警察と全面的に食い違う。片岡さんは、右車線の流れが切れた瞬間にバスを発進させ、反対車線のところまで車両を進め、そこで停止して再び安全確認をしていた際に白バイが高速で突っ込んできたと主張している。

つまり、事故当時バスが動いていたかどうかが事件の争点となっている訳だが、バスに乗っていた22人の高校生及び、事故当時自家用車でバスの真後ろについていた校長は、白バイが衝突した時バスは確かに停止していた、と証言しているのだ。

これらの証言を抑えて、高知地裁が採用した証拠は、道路に黒々と残った1.2メートルのブレーキ痕。ブレーキ痕→バスが急ブレーキをかけた→運転手が安全確認を怠った、というのが検察側の主張である。しかし、このブレーキ痕について、多くの人が疑問を投げかけているのだ。まず、バスは駐車場を出る直前一旦停止し、そこから再発進している。急ブレーキをかけた地点までの距離は6.5メートル。重さ数十トンのバスが6.5メートルの距離で、1メートルに及ぶブレーキ痕を残すまでの速度に到達できるのか。(時間のある方は末尾のKBSの動画を参照してほしい) 

また、このバスにはABS(アンチロックブレーキ)が装備されていた。ABS車両の場合、相当のスピードでもブレーキ痕は残らない。1メートル以上のスリップ痕はあり得ないのではないか。更なる疑問は、ブレーキ痕にバスのタイヤの溝がなく、ただ真っ黒なシミである点だ。取材に応じた専門家は、ブレーキ痕にタイヤの溝がつかないことはありえないと証言している。つまり、ブレーキ痕自体が限りなく不可解な存在ということなのだ。

さて、運転手の片岡さんの主張が本当だとすれば、白バイは止まっているバスにかなりのスピードで突っ込んだことになる。そうだとしたら、何故そんな高速走行をしていたのか?

この事件に最初にスポットをあてた瀬戸内海放送は、事件の二ヶ月前、警察庁が各都道府県警に、白バイの緊急走行、追跡追尾走行訓練を行なうよう通達した事実をスクープしている。また、事故前の2ヶ月間、異常なスピードで事故現場となった国道を走行する白バイを一般市民が目撃している事実も報道されている。さらにダメ押しに、事故直前、該当の白バイに100キロ以上のスピードで追い越されたというドライバーの証言も存在する。しかし検察側は、片岡さんサイドが提示したこれらの証言を『第三者だからといって信用できるわけではない』という不可解な理由で採用せず、ブレーキ痕を証拠として認定し、片岡さんに有罪判決を下した。片岡さんは現在高知刑務所に収監されている。

事件の説明が長くなったが、ここからが本題である。この事件は最初、瀬戸内海テレビがニュース内の特集という形で取り上げ、現地では大いに話題になった。情報の断片を集めた結果、事件は一つの仮説---事故は白バイの高速走行訓練の最中に起こり、警察はこれを隠蔽するために、ブレーキ痕を捏造したのではないか---に集約され、ブロガーによってインターネット上に広められた。無数のブロガーが事件を取り上げたことにより知名度はじわじわと上がり、結果としてテレビ朝日やTBSなど、最初は事件を報道しなかった中央のメディアが特集番組を制作し、ニュースは全国区となった。

この辺の流れはインターネット時代ならではである。筆者は昨年の記事(「ジャーナリズムの尖兵か? ブログに見る日米メディア考」http://mediasabor.jp/2007/12/post_274.html)で、米国のメジャーなメディアが報道しなかったトレント・ロット上院議員の人種差別発言を一般市民のブロガーたちが取り上げ、ロットを辞職に追い込んだ事件を紹介したが、高知の衝突事故もこれと同様の経緯をたどっており、ブロガーの力を見せつけてくれた。

気になるのは、いわゆる“シチズンメディア”と呼ばれるブロガーたちと、ジャーナリストの関係である。今月の初め、インターネット・メディア学の急先鋒であるクレイ・シャーキーによる、ネット時代のメディアのあり方について興味深い提言を聞くことができた。

シャーキーは、シチズンジャーナリストのブログを新たなジャーナリズムの誕生だと持ちあげる姿勢は安易だと主張する。彼の提言する新しいメディアのモデルでは、ジャーナリストとアマチュアブロガーの立場は明確に分かれている。ブロガーは数の上でプロのジャーナリストを圧倒的に上回っていて、そのネットワークも情報量も、絶対数の少ないジャーナリストが到底太刀打ちできるものではない。では職業人としてのジャーナリストは不要になるのかと言えば、決してそんなことはない。シャーキーの言葉を借りれば、ジャーナリストは“特別な機能を持つ少数派” だという。彼らの仕事はプロとしての社会的立場を担保にして、あくまで慎重かつ公正に事実関係を見極めることで、ブロガーとはまったく異なる立ち位置にある。

高知の白バイ事件に話を戻そう。今回の事件の断片を集めて、“警察が違法な高速走行訓練を隠蔽しようとしてブレーキ痕を捏造した”と煽るのはジャーナリストのすることではない。どんなに疑いが濃厚だとしても、結論に飛びつきたくなったとしても、ぐっと堪えて一切の憶測を排除し、報道するのがプロの姿勢というものだろう。してみると、検証よりも事件を煽る姿勢が強かったブロガーたちは、ジャーナリストではないことになる。断っておくが、そこに無意味な上下関係はない。知識においても見識においても、そこらのジャーナリストを上回るブロガーはすでに多く存在している。ただ、役割の違いは残る。記事を書いてお金を貰っている身として、“アイツの書くことはいい加減”と言われたら、もはやどこにも使ってもらえないし、原稿料で生活を立てている人間ならだれでも、事実関係の確認と憶測の排除には慎重な筈である。自分の生活を担保に情報を精査しているかどうかがジャーナリストの一つの基準だ、というのがシャーキーの主張であり、これはまったく正しいと思う。

ならば、ブロガーはネガティブな存在かといえば、その逆である。シャーキーはじめ多くの学者は、ブロガーが端緒を開き、ジャーナリストが検証するという新時代のメディアの形を提唱している。人知れず葬り去られようとしている話を見つけて煽り、世論を喚起するのはブロガーだけができることで、ジャーナリストの立場では中々難しい。だが、ジャーナリスト、特にメジャーなメディアに所属している人々は、ブロガーの仕事を完結させられる。公平な目で情報を確認し、巨大メディアの力で社会に問題提起する。すでに米国ではこういう姿勢が定着しつつある。知人の米国人記者はいつもネットで有名ブログをチェックしている。しかしそれだけで記事を書くようなことは絶対にない。興味深いネタを見つけると、すぐに電話をかけるか、直接乗り込んでいく。すべてではないが、米国のジャーナリストはシチズンメディアの検証役という新たな立場にアイデンティティーを見出しているようだ。

高知白バイ事件では、多くのブロガーや市民団体が、この事件を世に知らしめる役割を果たした。これは素晴らしい事だ。インターネット以前だったら闇に葬られていたかもしれない事件をここまで引っ張ったのはまさにこの人たちの功績だろう。様々なブログや掲示板で、多くの人々が事件に対するコメントをした。自動車メーカーのエンジニアと称する人物は、ABSの機能とブレーキ痕の関係を詳細に解説してくれたし、保険会社のオブだという男性は、こうした事件で通常どのような判断が下されるかを説明した。裁判所の判断と証拠の扱いについて詳しい書き込みをした司法関係者と思しき人物もいる。もちろん、彼らの情報が真実であるかどうかは分からない。これらは確かめる必要のある仮情報である。しかし、問題提起には十分な役割を果たした。

では、検証役であるはずのメジャーなマスコミの反応はどうだったか? 多くの週刊誌や、鳥越俊太郎さんを始めとする気骨のあるフリーランスによって仕切られた報道番組はこの事件を特集した。しかし、大新聞やキー局のニュース番組は、事件に殆ど触れていない。日本のジャーナリズムの根幹が、検証役としての機能を果していないのだ。特に今回の高知検察審査会の議決は、事件に再びスポットをあてる絶好の機会だったのに、大きな取り上げ方はされなかった。新しいメディア生態系が出来つつあるというのに、コアの部分が機能していないのである。

こうした中で本当に偉いと思うのは、事件を最初にとりあげた瀬戸内海放送(KSB)の記者兼アナウンサー、山下洋平さんだ。権力を敵に廻すことを恐れず、数々の疑惑を冷静に検証する番組を作り続けた山下さんとKSBのスタッフの方々は、まさに本当のジャーナリストだと思う。中央になかったスピリットがこの地にあったことになる。素直に尊敬の念を現したい。

最後になるけれど、冒頭に挙げた高知検察審査会の議決は、実は法律的な強制力はない。単なる勧告に過ぎず、検察に却下されてしまえばそれでおしまいである。さらに、再捜査が行なわれる期限は今月いっぱい、これを過ぎれば事件を再検証するチャンスはなくなる。この事件を一人でも多くの人に知ってもらい、世論を喚起する一助になれば、という思いがこの文章を書いたもう一つの理由である。