「よしりんと戦争勃発!」佐藤優ロングインタビュー
(サイゾー2008年9月30日取材/構成=荒井香織)   http://p.tl/-xnS

『SAPIO』10月22日号/小学館【関連記事】「小林よしのり vs 佐藤優」──論争ではなく"戦争"が勃発!?

──9月30日現在、「SAPIO」編集部との話し合いはどのような状態ですか?

【佐藤】 手紙でのやり取りをしています。編集部との具体的なやり取りについては、現段階ではノーコメントです。

──「週刊SPA!」しか読んでいない読者からすれば、佐藤さんと小林さんの間に何が起こっているのかよくわからないかもしれません。

【佐藤】 それでいいのです。「週刊SPA!」(9月23日号)で私が書いた記事は、あくまでもフィクションですから。

 私が「週刊SPA!」で書いたことの一つは、編集権の問題です。雑誌にはいろいろな長期連載があります。Aという長期連載者が、Bという別の長期連載者が書いているものはデタラメだと論評している。Aさんの言うとおりだとすれば、Bさんというデタラメな人に長期連載を書かせている雑誌編集部の責任はどうなるのか。こういう問題です。

──小林さんは「SAPIO」(8月20日・9月3日合併号)で3ページを使って佐藤さんの批判をしています。佐藤さんも「SAPIO」に3ページを要求し、「SAPIO」誌上で小林さんに反論する手もあったのでは?

【佐藤】 私は、今回の一件を「論戦」とは意識していません。論戦には二つの条件があります。一つは争点を明示していること。それから、相手に対する最低限の人間としての礼儀があること。この二つが小林さんには欠けている。論争以前の問題なのです。論争以前の問題であるのに、それをあたかも論争であるかの如き扱いで「SAPIO」編集部は掲載した。最初から論戦になっていないわけですから、小林さんが問題なのではない。編集権はいったいどうなっているのか、ということについて私は問うているわけです。

──佐藤さんは敢えてフィクションという形で応えたわけですが、正面から小林さんと論争はしない?

【佐藤】 論争にならないのです。繰り返しますが、「SAPIO」の記事の、どこに争点がありますか? 例えば小林さんは、≪佐藤は、ただただ、自分を「いい人」、わしを「悪い人」と印象操作したいだけなのだ。≫と言っています。私がどこでそんなことを言ったというのでしょう。私の発言を要約していたとしても、これでは要約不適当です。

 それから、マンガの欄外で小林さんは≪わしが沖縄を論じる目的が「金と地位」と佐藤は言うが、生憎わしはその両方とも現状に不満はない。≫と言っている。カギ括弧でくくっているわけですから、「金と地位」とは私の発言の引用なのでしょう。私がいったいどこで、小林さんが沖縄を論じる目的が「金と地位」だと言ったのか。私はそんなことを一度も発言してはいません。

 相手の言ったことを正確に引用する。正確に要約する。そのうえで、争点を明示する。こうした論戦の基本すらできていないわけですから、そんなものは論戦以前の話なのです。論争など、どこにも存在はしない。

 繰り返しになりますが、私が「週刊SPA!」で訴えているのは編集部の姿勢、編集権の問題はどうなっているのか、ということです。小林さんは、私に関してデタラメなことを言っている。そういう記事を、何ゆえに編集部が読者に見せる必要があると考え、掲載する価値があると考えたのかということです。

「『ゴーマニズム宣言』は『SAPIO』誌上において治外法権化しています」と編集部が認めるのであれば、私だって編集権云々とは言わないわけですよ。「ゴーマニズム宣言」が治外法権化しているのであれば、「SAPIO」は編集権のない2ちゃんねると一緒だということになりますからね。

 小林さんは「SAPIO」誌上で、私の言説を「デタラメ」だと言っている。その私は、「SAPIO」に長期連載をもっている。ウソ記事を書くような人間の連載を放置しておくようであれば、「SAPIO」編集部の責任が問われます。しかも私が「SAPIO」で書いている連載は、デタラメやウソが混じっていてはいけない国際情勢分析です。「SAPIO」編集部は、読者との関係においてどう説明責任を取るのか。

──あくまで編集部の姿勢が問題なのであって、小林さんと佐藤さんの間で論戦が起きるような性質の問題ではない。

【佐藤】 その通りです。論戦には争点の明示が必要です。論争をしたい側は、争点を明確にしなければならない。そのうえで、相手に対する人間としての最低限の礼儀がなければならない。この二点が満たされていないものに関して、私は論戦を行ないません。

 それから小林さんは、私が現在係争中の刑事裁判に関して≪呆れた話だ。「国策捜査」で罪をでっち上げられたと言ってる奴が、人に濡れ衣を着せている! こいつの無実の訴えなど、二度と信じてやるものか!≫と言っている。沖縄問題に関する小林さんと私の見解の相違と、私の裁判の無実・有実との関係がいったいどこにあるというのでしょう。

 刑事裁判には、無罪推定の原則が働いています。≪こいつの無実の訴えなど、二度と信じてやるものか!≫と言うわけですから、小林さんは私の刑事裁判が有実、有罪だと考えているのでしょう。雑誌という公器の上でこうした主張を行なう以上、挙証責任が伴います。私の裁判に関する公判書類なりを読んだうえで、上記のようなことを言っているのか。それとも印象批評なのか。単なる感情の吐露なのか。いずれにせよ、こうした主張を公共性を伴う媒体に載せることに関し、編集部はどう考えているのかが問題です。

「所詮マンガなのだから、細かいところまで詰めて考えなくてもいいじゃないか」という説明があるとすれば、それはただの逃げです。

──マンガだから、多少行き過ぎた表現があっても許されるということにはならない。

【佐藤】 政治問題を扱うマンガだからこそ、厳密に詰めなければいけないのです。

──「週刊SPA!」の特別企画「インテリジェンス職業相談」で佐藤さんは、「ラスプーチン」さんや「大林わるのり」さんからの質問に応えるという寓話的手法を使いました。「インテリジェンス職業相談」の続編を掲載する予定はありますか。

【佐藤】 あるかもしれないし、ないかもしれない。今の時点ではなんとも言えません(笑)。重要なのは、読者がおもしろがってくれるかどうかです。

 小林さんは今年春、≪本土の知識人には馬鹿な奴がいて、「沖縄の心ある人には、独立論を唱える人もいる」などと書いていたりする。≫(「わしズム」2008年春号)と言っています。このコメントの背景には、私の顔写真が入った雑誌記事が載っている。名指しではありませんが、私の顔写真が入っているわけですから限りなく名指しに近い。その次の段階として、今度は「SAPIO」で私を名指しして撃ってきた。

 最初に撃ってきたのは向こうだ。西部劇の世界と一緒で、最初に撃ってきた人間には責任があるのです。それならば、こちらとしてもそれなりの礼儀をもって応えるだけの話だ。つまり、無礼なことには無礼なことで対応する。やられた範囲のなかでやり返す。これが私の主義です。

──ケンカの作法として、やられたことはそれ相応にやり返す。

【佐藤】 そういうふうに考えます。相手が無礼な形で撃ってくるのであれば、こちらも無礼な形で応える。言論に対してマンガという非対称な形で撃ってくるのであれば、こちらはフィクションという非対称な形で応える。もし向こうが論戦をしたいと言ってくれば、論戦以外の形で応える。非対称なことをやってくる人には、全部非対称で応えていこうと思っています。ただ、ここで重要なのは遊び心です。読者にとっておもしろいことが重要なのです。

──「小説新潮」(2008年10月号)の連載「功利主義者の読書術」で佐藤さんは、次のように書いています。
≪思想の質とその影響力は、まったく別の問題だ。功利主義者の筆者は、この種の知的水準があまり高くないにもかかわらず、現実に無視できない影響を与える思想(例えば、漫画家が行う歴史や政治思想の読み解き)がもつ危険性について、有識者はもう少し敏感になるべきと思う。≫
 ここで言う≪漫画家≫とは、小林さんのことですか。

【佐藤】 違います。『マンガ嫌韓流』(晋遊舎)を描いた山野車輪さんのことです。私の認識では、小林さんは沖縄に関して排外主義的である。一方、中国や韓国、北朝鮮の領域においては排外主義的な言説が非常に少ない。これは小林さんの名誉のために言っておきますが、韓国や北朝鮮に対する言説において、山野車輪さんと小林さんは本質的に異なります。

 私は今の沖縄の状況は、非常に危機的だと思っているんですよ。このままでは、沖縄と内地の溝は埋まらないくらいにひどくなってしまう。心ある人たちは、沖縄と内地の溝を埋めようと努力しています。沖縄独立論者だって、沖縄のことを真面目に考えているわけです。私が沖縄独立論に反対だということをわかっていながら、彼、彼女らは私に記事に書かせ、シンポジウムに呼ぶ。なぜか。沖縄と内地の溝を埋めたい、と真摯に考えているからです。

 私は琉球新報に「ウチナー評論」という連載を書いています。私が思想的に右寄りに位置する保守的な人間だとわかっていながら、琉球新報は私にコラムをもたせている。これも、沖縄と内地の溝を埋めたいと思っているからです。琉球新報の人たちはリスクを負っている。少しずつリスクを負いながら、どこかで共通の言葉を見出せないか努力しているわけです。一方で、「沖縄は全体主義の島だ」という言説を出している沖縄の知識人がいます。彼らは沖縄での発言力もあるし、琉球新報で発言しようと思えばできるのに、その努力もしないで内地に行って発言してばかりで、リスクを負おうという姿勢が感じられません。私はこのことを言いたくて、「ウチナー論評」でも書いた。それを見た小林さんは、「『沖縄は全体主義の島だ』という有識者」を自分のことだと決めつけて、今回私を攻撃してきたわけですが、はっきり言って小林さんは念頭に置いていない。内地に行って小林さんと連携する沖縄の有識者たちの行動様式を問いたかったわけです。

──『国家と神とマルクス』(太陽企画出版、2007年4月刊行、下記引用の初出は「情況」2006年5・6月号)の中で、佐藤さんは小林さんのことを次のように評価しています。
≪小林よしのりさんは非常に真面目な人物です。他者の言説をきちんと聞いてその内在的論理を正確に捉えようとする思想の構えがあります。≫

【佐藤】 それは崩れました。2年前に比べて今の小林さんは、ずいぶんと変わってしまった。小林さんは西部邁さんと決別しました。かつては西部さんが思想的な組み立てをし、その土俵に乗ったうえで小林さんがマンガという形で表現してきた。その2人の有機的な関連が切れたところから、小林さんの迷走が始まったと私は見ています。

──先ほどの引用に続き、佐藤さんは『国家と神とマルクス』で次のように言っています。
≪それから小林さんは、右派、国家主義陣営の学者と比べて人間としての芯が強い。自分が咀嚼したものしか描かないので、迫力が違います。≫
 この評価も、今では変わりましたか。

【佐藤】 変わった。小林さんは、自分が咀嚼できないようなものについてまでも描くようになった。例えば沖縄の集団自決問題です。私の認識では、この2年の間に小林さんの中で変化が起きた。これは私の推定ですが、小林さんの変化は本の部数にも影響しつつあると思います。

──つまり、小林さんの迷走に読者が愛想をつかし始めているということですか?

【佐藤】 愛想をつかしているかどうかはわからないけれども、読者は小林さんが変わってしまったことに気づいていると思う。

『国家と神とマルクス』で書いた小林さんに関する評価は、見誤ったとは思っていませんし、私自身が事実誤認をしたとも思いません。『国家と神とマルクス』以外にも私は、『論日本』(ブックマン社、2006年10月刊行)という本の解説で小林よしのり論を書いています。

≪小林氏の漫画は、『論日本』のような「絵解き解説本」ではなく、ストーリー性をもった文学作品である。(略)『論日本』では中国のナショナリズムが手放しで肯定されている。これに対して小林氏はナショナリズムの危険性を十分に認識している。≫

 この評価も、撤回するつもりはまったくありません。

──なるほど。2年前の小林さんと今の小林さんは、マンガ家としてのスタンスが変わってしまったというわけですね。いずれにせよ、今回の「SAPIO」の一件に関しては、編集部のチェック機能が衰えているということですか。

【佐藤】 そう。もっと平たく言えば、「SAPIO」の編集権が働かなくなっているのではないですか?という話です。ペンで生きている論壇人の言説が「デタラメ」だと言われるということは、「お前は論壇の世界で食っていけないぞ」と言われているに等しい。私の言説が「デタラメ」だと言うからには、挙証責任があります。要約不適当、引用が不正確、そういう細かいことについて、小役人はうるさいですよ。「ミクロの決死隊」のような仕事は、すごく得意なんだから(笑)。

(2008年9月30日取材、構成=荒井香織)


【追記】

「SAPIO」(10月22日号)の「ゴーマニズム宣言」で小林よしのり氏は、欄外で次のように書いている。
≪佐藤優が「SPA!」の9月23日号で「大林わるのり」って人を、知恵を尽くし、工夫を凝らして、全力で罵ってます。見逃した人は図書館かどこかでバックナンバーを探して、ぜひ読んで下さい。この記事、できるだけ多くの人に見せてあげたいから、どんどん宣伝して下さい。≫