尖閣ビデオ問題「力の省庁」職員による「世直しゲーム」を英雄視する危険

歴史の苦い教訓を忘れるな


佐藤 優 国際ニュース分析官
(現代ビジネス 2010年11月17日)  http://p.tl/bTYI


 11月15日、警視庁と東京地方検察庁公安部は、10日から神戸市の海上保安庁が入る庁舎に事実上「軟禁」状態にされ、「任意」の事情聴取を受けていた海上保安庁職員(以下、保安官と記す)の逮捕を見送る決定をした。保安官は16日未明、庁舎を出た。

 本件に関し、庁舎前で弁護人(小川恵司弁護士[第二東京弁護士会])が保安官のコメントを読み上げた。その全文を正確に引用しておく。

<「私が今回起こした事件により、国民の皆様、関係各位には、多大なるご迷惑をおかけしたことをおわび申し上げます。海上保安庁の皆様、中でもお世話になった方々や今回の件でご苦労されている方々に対しては、申し訳ない気持ちで一杯です。

 今回私が事件を起こしたのは、政治的主張や私利私欲に基づくものではありません。

 ただ広く1人でも多くの人に遠く離れた日本の海で起こっている出来事を見てもらい、1人ひとりが考え判断し、そして行動してほしかっただけです。

 私は、今回の行動が正しいと信じておりますが、反面、公務員のルールとしては許されないことだったと反省もしております。私の心情をご理解いただければ幸いです」>

 この声明文の内容は支離滅裂だ。事件を起こした動機が、「政治的主張」でないと保安官は強調する。しかし、「ただ広く1人でも多くの人に遠く離れた日本の海で起こっている出来事を見てもらい、1人ひとりが考え判断し、そして行動してほしかった」というのは、国民に行動を訴えているのであり、政治的主張そのものだ。

 行動を呼びかけているのだから、単なる政治的主張ではなく、むしろ煽動を行っていると見るのが妥当だ。

「公務員のルールとしては許されないこと」を「正しいと信じております」と認識しているならば、この保安官には遵法意識が欠如するということになる。ルールとして許されないとされる境界線を平気で破る人間は、国家公務員としての資格を欠いている。

さらに、この保安官は、報道攻勢にさらされることに怯えているようだ。

<小川弁護士は会見の冒頭で、男性保安官の体調やプライバシーを考慮するよう求めた。任意捜査が続いていることも理由に挙げて、顔を写真撮影したり、実名を明らかにしたりしないよう報道陣に求めた。

 弁護士は会見後、男性海上保安官を伴って庁舎を出た。男性保安官はその際、報道陣に対して深々と一礼。集まった報道陣の「一言ありませんか」という問いかけに、何も語らないまま、タクシーに乗り込み、神戸市内のホテルへと移動した。>(11月16日asahi.com)

 この声明文から浮かび上がってくるのは、自らの器をはるかに超えた行動をし、その影響に当惑している小心者の姿だ。保安官は、実名報道やメディアによる取材攻勢を恐れている。それならば、事件が発覚する前になぜ自ら読売テレビに連絡をとり、取材させたのだろうか?

 自分にとって都合のよいときだけにマスメディアを用いようとする姿勢も卑劣である。この程度の器量の人物を英雄視することはやめた方がいい。


■映像は本当に国民の知る権利に応えているのか

 尖閣諸島沖中国漁船衝突事件に関し、海上保安庁が撮影したビデオ映像を保安官が「ユーチューブ」への投稿したことに関し、これを「義挙」して讃える機運があるが、筆者は強い違和感を覚える。その理由は2つある。

 第1に、この海保職員が流した映像が国民の知る権利に真に応えているとはいえないからだ。この映像は、海上保安庁が撮影した映像の全体ではなく一部分だ。44分という長さだからといって、事柄の本質を勘違いしてはならない。この映像は、海上保安庁という官僚組織による編集がなされたものだ。

 そこには官庁の意図的もしくは無意識の編集意図が加わっている。例えば、中国人船長が逮捕、連行される場面の映像がない。

 そこに海上保安庁にとって「不都合な真実」が映っているのではないかという憶測を招きかねない。今後、中国は情報戦でこの部分を衝いてくるであろう。

 第2は、官僚の規律違反を容認することが、最終的に国民の利益に相反すると考えるからだ。海上保安庁が機関砲をもつ国際基準では軍隊に準じると見なされる「力の省庁」だ。官僚には上司の命令に従う義務がある。武器をもつ「力の省庁」の職員には、特に強い秩序意識が求められる。

 この点から見て、保安官の行為は、官僚の服務規律の基本中の基本に反しており、厳しく弾呵されるべきだ。

 仮に保安官が、尖閣諸島沖中国漁船衝突事件に関する日本政府の処理に不満をもち、思い詰めていたならば、まず上司に「映像を公開すべきだ」という意見具申を行うべきだった。上司により意見具申が却下され、どうしても「義挙」したいならば、海上保安庁に辞表を提出し、一私人の立場として行動すべきだったと思う。

いかなる状況においても、軍隊に準じる「力の省庁」の現役職員による下剋上を認めてはならない。


■五・一五事件犯人への「温情判決」の結果

 「力の省庁」に属する官僚の下剋上について、われわれは苦い経験をもっている。1932年5月15日、政界と財界の腐敗に義憤を感じた海軍と陸軍の青年将校が決起し、犬養毅首相らを殺害した。

「方法はよくないが、動機は正しい」と五・一五事件の犯人たちへの同情論が世論でわき起こり、公判には多くの除名嘆願書が届けられた。本来、死刑もしくは無期禁錮が言い渡されるべき事件であったにもかかわらず、裁判所は世論に流され、被告人に対して温情判決を言い渡し、五・一五事件の首謀者、実行犯は数年で娑婆にでてくることになった。

 この様子を見た陸軍青年将校がクーデターを起こしても世論に支持されればたいしたことにはならないという見通しで、1936年2月26日に約1400名の下士官・兵士を動員しクーデターを起こした。二・二六事件は、昭和天皇の逆鱗に触れ、徹底的に鎮圧された。

 しかし、二・二六事件後、政治家、財界人、論壇人などは軍事官僚の威力に怯えるようになり、日本は破滅への道を歩んでいくことになった。太平洋戦争後の1953年に、五・一五事件に連座した大川周明が、北一輝の真意を忖度した上で、二・二六事件を次のように厳しく批判している。

<北君は、二・二六事件の首謀者の一人として死刑に処せられ、極めて特異なる五十五年の生涯を終へた。私は長く北君と往来を絶つて居たから、この事件と北君との間に如何なる具体的関係があつたかをしらない。

 北君が西田税君を通じて多くの青年将校と相識り、彼らの魂に革命精神を鼓吹したこと、そして彼らの間に多くの北信者があり、日本改造法案が広く読まれて居たことは事実であるから、フランス革命に於けるルソーと同様、二・二六事件の思想的背景に北君が居たことは拒むべくもない。併し私は北君がこの事件の直接主動者であるとは金輪際考へない。

 二・二六事件は近衛歩兵第一聯隊、第三聯隊、野戦重砲兵第七聯隊に属する将兵千四百数十名が干戈を執つて蹶起した一大革命運動であつたにもかかはらず、結局僅かに三人の老人を殺し、岡田内閣を広田内閣に変へただけに終つたことは、文字通りに竜頭蛇尾であり、その規模の大なりしに比べて、その成果の余りに小なりしに驚かざるを得ない。

 而も此の事件は日本の本質的革新に何の貢献もしなかつたのみでなく、無策であるだけに純真なる多くの軍人を失ひ、革新的気象を帯びた軍人が遠退けられて、中央は機会主義、便宜主義の秀才型軍人に占められ、軍部の堕落を促進することになつた。

 若し北君が当初から此の事件に関与し、その計画並びに実行に参画して居たならば、その天才的頭脳と支那革命の体験とを存分に働かせて、周匝緻密な行動順序を樹て、明確なる具体的目標に向つて運動を指導したに相違ない。

恐らく北君は青年将校蹶起の覚悟既に決し、大勢最早如何ともすべからざる時に至つて初めて此の計画を知り、心ひそかに「しまつた!」と叫んだことであらう。支那革命外史を読む者は、北君が革命の混乱時代に必ず来るべき外国勢力の如何に恐るべきものなるかを力説したるを看過せぬ筈である。>

(「北一輝君を偲ふ」『近代日本思想大系21 大川周明集』筑摩書房、1975年、366~367頁)大川周明の言説を真摯に受け止める必要がある。

 保安官のような「力の省庁」の官僚による下剋上の動きを入り口で封じ込めておくことが国益に適うと筆者は確信する。保安官が「英雄」になってしまうと、この機運が官僚組織全体の下剋上を誘発するきっかけになる。

 「力の省庁」の官僚が、「世直し」ゲームを始めても、その結果、「機会主義、便宜主義の秀才型官僚に占められ、官僚組織の堕落を促進することになる」と筆者は考える。この点で自民党の谷垣禎一総裁は健全な秩序感覚をもっている。

<「二・二六も命令無視」映像流出保安官を自民・谷垣氏が批判自民党の谷垣禎一総裁は14日午後、さいたま市で講演し、中国漁船衝突の映像流出事件で神戸海上保安部の海上保安官(43)が関与を認めたことについて、青年将校らがクーデターを企てた二・二六事件を引き合いに出し「映像流出を擁護する人もいるが、国家の規律を守れないのは間違っている」と批判した。

 同時に「二・二六事件でも『将校の若い純粋な気持ちを大事にしないと』という声があり、最後はコントロールできなくなった」と指摘した。

 一方で「政治の責任で解決する姿勢がなかったことが一番の問題だ」と菅内閣の対応を非難。「政権担当能力を失っており、一日も早く退陣させないといけない」と強調した。>(11月14日MSN産経ニュース)

 本件を与党、野党を問わず国民によって選挙された国会議員に対する官僚の下剋上で、これに対して毅然たる反応をとらないと民主主義が国家の内側から腐蝕される危険がある。谷垣総裁の「映像流出を擁護する人もいるが、国家の規律を守れないのは間違っている」という見解は正論だ。


■リークに甘いマスメディア

 マスメディアは、国家の秘密情報を公開した者を徹底的に批判することができない。合法、非合法を問わず、このようなリーク情報なくしてマスメディアが生きていくことはできないからだ。それだから、マスメディア関係者には保安官を擁護しようとする集合的無意識が働く。

 これが国民の判断を誤らせる。筆者は、菅直人政権が、尖閣諸島沖中国漁船衝突事件に関する映像をもっと早い時期に国民に対して公表すべきであったと考える。

 中国に対する菅政権の弱腰外交に対して、筆者は論壇人の中でもっとも厳しく批判している一人だ。

 しかし、それ故に「力の省庁」に所属する官僚による下剋上を看過してよいという暴論には与しない。筆者自身、外務官僚時代には、機微に触れる情報を扱うことが多かった。それ故に、秘密情報を用いた官僚の下剋上が、国家を崩壊させ、国民に不幸をもたらすことについて強い危機意識をもっている。