明日(あす)からできる、司法改革~♪ 大高正二氏

(JANJAN 2010年 11月 15日 01:23) http://p.tl/Zfz0


 ――裁判官は、国民の税金による雇われ人(公僕)です。ですから法廷では開廷にあたって、「これから、憲法や法令に則(のっと)って、公正な裁判を心がけます。どうか、主権者である国民のみなさん、この法廷が真実究明の場になっているかどうか、見守っていて下さい」という心持ちで、裁判官こそが、傍聴席に向かって頭を下げるべきなのです。

 ややもすると、高い位置から傍聴席を見渡し、裁判全般について決定権を握っているようにも感じられる裁判官について、こう言うのは、毎日東京地裁前でマイクを握る、大高正二さんだ。大高さんは、自身の裁判経験から、「いかに日本の裁判がいい加減に行われているか」「デタラメ裁判が横行している」と実感し、上記のように、裁判に対する考え方を国民の側で少し変えるだけで、裁判のありかたも違ってくるはずだと説く。

 ――私たちは今、裁判所にマインド・コントロールをされているようなものです。裁判官は憲法や法律に則(のっと)って国民の生活を守るために判決を書いてくれている、こちらが出した書面はすべて丁寧に読んでくれている、目の前の不条理を裁判所は正してくれる、――そんなふうに思っていないでしょうか。〈学校で習ったり書物に書いてあったりする司法制度〉と〈現実の裁判所のデタラメな実態〉、このふたつをよく見比べて、私たち一人ひとりが、裁判制度、裁判所、そして裁判官のありかたについて意識を変えて行かなければ、日本の司法は変わりません。司法改革だの、裁判員制度だの、上からの、見せかけの改革にだまされてはいけません。私たち一人ひとりが、次に述べるようなことを実践して行けば、必ず司法の現場は変わっていくはずです。

 大高さんは、午前中から昼過ぎまで、東京地裁前でマイクを握る。マイクを握って一部の裁判官がいかに「デタラメ判決」を書くのかを訴え始めたのが約12年前からだという。その時は不定期だったらしいが、4年前からはほぼ毎日裁判所前で通行人に呼びかけている〔注1〕。大高さんの主張のいくつかに耳を傾けてみよう、きっとその中に身近な司法改革のヒントがあるはずだ。


   ◇◆◇裁判所の現状◇◆◇

(1)「よく聞こえません」に裁判官の驚きの対応

 ――ある裁判を傍聴していた時のことです。国が被告の裁判で、国側の代理人が意見を述べようとする時に、その女性は声が小さくて、言っている声が聞き取りにくかったのです。それで、私は言いました、「声が小さくて聞こえません」 すると裁判官は何と言ったと思いますか……、傍聴席に向かって「静粛に!」と言ったのです。

 ――傍聴席から、「声が小さくて聞き取れません」との声があったら、裁判官は法廷で発言している人に「もう少し大きい声で話してもらえますか?」と声をかければ済むはずです。それを傍聴席に向かって「静粛に!」つまり「黙っておれ!」というのは、いかにも傍聴に来た人間をばかにした発言でしょう。要は、傍聴に来る人間などに、法廷での発言など聞かせなくともよい。とにかく形だけ“裁判めいたもの”を進行させて、早く判決文を書いてしまえという本心がありありとうかがえるのです。

(2)判決に追われる裁判官、その“裏技”

 ――現在の民事裁判では、書面のやりとりがほとんどです。裁判官は、「あなたは○○を陳述しますか?」と尋ね、聞かれたほうは「はい、陳述します」と答えます。肝心の陳述する(述べる)内容は、その時に提出する準備書面、陳述書などに書き記して、「裁判官はあとで目を通す」ことになっているわけです。

 ――「裁判の効率化」のために、そのような方法が採用されていると説明されています。しかし、私の経験からすると、中にはほとんど書面を読んでいないとしか考えられない裁判官もいるのではないかというのが率直な感想です。

 裁判官が双方から提出された書面を読まない――とは聞き捨てならないことだが、これにはもう少し説明を要する。

 まずは、一般的に裁判官が抱えている訴訟件数の多さだ。裁判所の規模にもよるが、裁判官は、だいたい平均して年間200件から300数十件の裁判を担当するという。その膨大な訴訟件数について、裁判官の業界用語で、〈赤字〉〈黒字〉という言葉があるそうだ。持ち込まれる裁判件数と、自身の処理件数の速さを比べて、処理件数の方が多い場合が〈黒字〉、自分の処理スピードを超えて訴訟が持ち込まれる場合が〈赤字〉である。当然のことながら、後者の〈赤字〉の場合、どんどんと裁判が持ち込まれて、仕事が追いつかなくなってしまう。

 現在裁判官が抱える案件の多さからすると、原告・被告双方の書面を隅々までていねいに目を通していると、抱える裁判件数についてとてもではないが処理できなくなるという声も聞かれるほどだ。

 そこで編み出されたのが、裁判官の裏技だと大高さんは言う。

 ――裁判官は、まず、どちらに勝たせるか、目星をつけます。個人が国を訴えている場合は、国を勝たせますし、社員が大企業を訴えている場合は、大企業を勝たせます。裁判で国を負けにしたら、その影響ははかり知れないです。高裁以下の裁判官人事は、最高裁が握っており、最高裁の人事は、政府(内閣)が決定します。最高裁の裁判官は、政府(国)に対して「最高裁判事にしてもらった」という恩義を感じていますから、国を負かすような判決は書きにくい。そして、トップの最高裁の意向を考えれば、末端の地裁レベルの裁判官であっても、そうそう国の政策を誤りだとしたり、個人の人権を侵害していると認定したりすることは勇気がいるのです。

 ――おおざっぱに「どちらを勝たせるか?」を先に決めて、そちらを勝たせる理屈を判決文に盛り込む方法だと、仕事もスピーディに進みます。負けさせる側、多くは弱い立場の人たちの訴えですが、そういうものは、一部の裁判官は一顧(いっこ)だにしないのです。

 記者はかつて、最高裁の判決文が「コピー&ペースト」で作られていることを示した〔注2〕。また「大企業」対「社員」で言えば、裁判官が、提訴した社員に「和解を飲め!」と机をこぶしで叩いて強圧的に迫り、和解を飲まない原告側に「どうなっても知りませんからね」との言葉を投げかけて席を立ったことを記事にした〔注3〕。そういう実態からすると、大高さんの言うこともあながち事実無根とは言いにくい。


   ◇◆◇裁判の当事者として◇◆◇

(3)裁判を多くの人に傍聴してもらおう

 ――ふつう、裁判を起こしたり、逆に訴えられたりした場合、ご近所に言いませんよね、「今度訴えられましたので、裁判に来て下さい」なんて…。でも、傍聴人がいるか、いないかで、裁判官の「真面目にやらなくては…」という緊張感が違います。信じられないかもしれませんが、まともな判決というのは、概して裁判の時に傍聴人が多いのものなのです。

 この「裁判をまともなものにするためには、多くの人に傍聴してもらおう」というアドバイスは、裁判に関する書物でもよく耳にすることだ。東京地裁前で連日マイクを握る大高さんは、かなり顔が広く、その大高さんに裁判の傍聴をお願いして来る人も多いらしい。

(4)法廷で発言しよう

 ――知り合いにも声をかけて裁判の傍聴に来てもらったら、次はどうするか…、それは、できるだけ発言するということです。

 ――民事裁判では、お互いにあらかじめ陳述書を出して法廷では裁判官の「陳述しますね?」に対して原告や被告が「はい、します」とだけ言って、それで陳述したことになってしまいます。その結果、傍聴に来ている人は一体何がどうなっているのかわからず、あとで、弁護士会館などに場所を移して説明会などをひらいているわけです。つまり「裁判は公開されている」と言いながら、法廷では何が何だか、わからない。傍聴に来ても、進行具合がわからないのですから、おかしいと思いませんか。

 ――だから、私はいつも言っているのです。裁判官に「陳述しますか」と言われたら、「はい、この場で口頭で陳述します」と言って、裁判を聞きに来ている人にわかるように、その場で陳述(発言)したいことを裁判官に意思表示しましょうと。

 ――もちろん、その場合は時間に制限をつけるなどの工夫は必要でしょう、誰かの独演会では困りますから。しかし、その一方で「裁判の公開」が謳われながら、傍聴に来た人が、どういう争点があり、お互いの主張がどうなっているのか、まるでわからないような「公開裁判」ではおかしいとは思いませんか?

 ――裁判官は、法廷での発言をさせない理由について、裁判の効率とか裁判の迅速化などを挙げますが、「効率」のために、当事者の主張が切り捨てられたり、書面を出させるだけ出させておいてろくに読みもせずに「デタラメ判決」を書かれたりするようでは、多少何のための裁判か、わかりません。

 ――憲法でも「公正な裁判を受ける権利」が保障されているのだとしたら、少なくとも、当事者が法廷で発言したければ、それを認める制度は考えられてよいでしょう。当事者が発言すれば、傍聴に来た人たちにも、争点がどこにあるかわかりやすくなります。

 裁判では当事者は“熱く”なりがちである。好きなように語らせていたら、それこそ場合によっては、法律論とはかけ離れた「ののしり合い」にもなりかねない。したがって、囲碁や将棋の持ち時間制度ではないが、ひとつの訴訟で、「弁論何回につき何時間」というように発言の「持ち時間」をわりふるような制度は考えられてもよいだろう。現在でも「意見陳述」として裁判官に認められる場合があるが、かなり限定的である。

 現在のような、意見陳述を裁判官に願い出て、それを裁判官が裁量で認める/認めないというようなやり方だと、気の弱い人は「意見を言いたいが、裁判官の機嫌を損ねるかもしれないからやめておこう」ということになってしまう。したがって、裁判当事者の正当な権利として、〈発言できる持ち時間〉のようなものを規則化しておくことは、よりひらかれた裁判のためには一考の価値はあるのではないだろうか〔注4〕。


(5)判決文について、わからないところは質問しよう

 ――学校の授業であれ、市役所での説明であれ、わからないところがあれば質問をしますよね。学校は〈教育を受ける権利〉が保障され、疑問点は聞くことができます。市役所の場合は…何でしょうか…〈知る権利〉と大げさなことを言わなくても、公務員の側には〈説明責任〉はあるでしょう。市民にきちんとわかるように説明できなくては、市役所の職員としては失格です。

 ――裁判というのは、法律のプロである裁判官が、ボランティアとしてではなく、職業として法的判断を下すところです。ですから、判決文はひとりよがりではいけないし、自己陶酔的であってもいけません。ただ難解な用語を振りかざすのではなく、極端な話、そのへんの中高生が聞いても、〈なるほど!〉とわからなくてはいけないのです。そういう説明ができて、裁判官はプロとして存在意義があります。

 ――それなのに、およそ常識では考えられない論理、「論理」なんて言葉を使うのもはばかられますね、屁理屈とかこじつけのたぐいです、そういう一般社会では理解されないような内容の判決文を作ってそれで終わりです。そして、乱暴に言えば「文句があれば控訴しろ!」――これが裁判所の態度ですね。学校の先生の例、市役所での例、あるいは医者の手術前の説明などと比べて、こういう裁判所の姿勢は横暴です。「裁判所が下した判決には権威があるから、とにかく庶民はやかく言わずに従え。納得できなければ上の裁判所にでも訴えろ」…こんな態度の裁判所が、憲法の番人を名乗れると思いますか。

 たしかに、裁判官は、自らの責任において判決文を書くのであるから、その内容について責任を持つ必要がある。例えば、医師がその職務において間違った判断を下し、その結果、患者を死に至らしめれば〈業務上過失致死〉の罪に問われる。同様に、ある裁判官が、きわめて恣意的な判決を書き、その結果、訴訟当事者が、本来は避けられた不利益を被った場合などは、やはり裁判官に対する業務上の責任も問いたいところだ〔注5〕。

 特に、一般人が裁判に訴えるというのは、一生に何度もあることではない。不当解雇をめぐる裁判、財産や離婚にかかわる裁判など、訴えの内容も決して軽々しいものではない。その訴えを、年間200~300件もの訴訟を抱える裁判官の〈赤字〉〈黒字〉のバランス感覚から、右から左に、スピーディに軽く当たりをつけて適当に判決文を書かれたのではたまったものではない。 


 裁判はひとたび起こせば、もろもろの費用と時間とがかかる。ある弁護士は「裁判というのは消耗戦だ」と言ったが、それは事実だ。お金と時間と、精神的ストレスとに、どちらがどれだけ耐えられるかという過酷な側面を持っている。だからこそ、大高さんが言うように、「これはおかしいじゃないか、きちんと説明してくれ、冗談じゃない!」という声があがるのも、じゅうぶん理解できることだ。

 「不満があるなら控訴しろ」という裁判所の態度は、「(手術の結果に)不満があるならほかの病院に行け」と、ある医師が患者に言うに等しい。言われなくても、患者は、そのような態度の医師に2度とかかりたいとは思わないだろう。言われなくても、ほかの病院に行く。しかし、前もって受けた説明と実際の手術の結果との落差があまりにもひどい場合、医師は自分のおこなった施術に責任を問われるはずだ。

 そして、事実、これまでの多くの訴訟、例えば公害病、原爆症などの判決で、社会的に弱い立場の人たちが、いかに理不尽な判決に泣いてきたかを考えれば、大高さんの主張にも理解できるところはある。

 一方で、裁判官には、昔から「裁判官は弁明せず」という不文律がある。自分が下した判決に、あとからいろいろと論評しないということだ。「きちんと説明しろ!」という裁判当事者の要望と、「判決に不満だったら控訴しろ」「裁判官は弁明せず」の両者の立場の違いをどう埋めていくかは、今後の課題と言えるだろう。

(続く)


〔注1〕その大高さん、何と11月2日に丸の内警察署に逮捕されてしまった。これまでも大高さんは、裁判所内で「転び公妨」的に逮捕されたことがある。今回も裁判所内でのトラブルが原因と聞くが、詳細は不明である。大高さんがまた“現場復帰”を果たしたら、事情を尋ねることにする。

〔注2〕「最高裁・判決文の真相」

 http://www.news.janjan.jp/living/0912/0912033969/1.php

〔注3〕「裁判官による人権侵害」

 http://www.janjannews.jp/archives/2833204.html

〔注4〕最近、記者が傍聴した裁判では、裁判官自らが、原告・被告それぞれに、「この件についてはどう考えていますか」と、裁判の争点について傍聴席にもわかるように裁判を進行させていた。少数派であっても実際に傍聴しに来た人にわかりやすく裁判を進めようとする裁判官がいることを目にすると、大高さんの指摘も、あながち実現不可能なものとは思われない。

〔注5〕このような不真面目な裁判官に対しては、制度として〈弾劾裁判〉があるにはあるが、おそらくその制度に基づいて訴えても、門前払いを食わされることは容易に想像がつく。


 ◇◆◇裁判所を見守る主権者として◇◆◇

(6) 裁判官の言うことを記録しよう

 ――裁判所の中で、テープレコーダーを回そうとすると「やめて下さい」と言われます。理由を尋ねると「きまりで決まっていることだから」という返事が返って来ます。でもね、みなさん、この「きまり」とは、「庁舎管理規則」というもので法律ではないのです。

 ――法律ではない「庁舎管理規則」が、私たちの〈知る権利〉を犯しているとすれば、そういう「きまり」は、どうなのでしょうか。改めたり、その規制が本当に必要なものか考えたりする必要はありませんか?

 大高さんの主張は、簡単だ。合理的な制限はわかるが、「きまりだから」「規則で決まっていることだから」と有無を言わさずに、特に我々の〈知る権利〉を制限するようなことはおかしいという主張だ。

 裁判所だけに限らない。図書館でも公営プールでも「利用規則」のたぐいはある。学校には「校則」という名のルール(ある種の利用規則)がある。それらは法律ではないが、図書館、プールを利用する人が快く利用できるように、そして一定のルールが無いことで生じる不利益を避けるためのものである。

 ルール(規則)は同時に、利用者への制限であるから合理的に説明できることが必要である。プールで潜水をしていたら、溺れて沈んでいる人と見分けがつかない。本に書きこみをすればあとの人が迷惑…という具合だ。学校の校則で「髪の毛の色」あるいは「靴下の色」まで指定するのには、合理的理由(教育上の必要性)があるからだ。だから、そういう必要性の無いところでは、「茶髪不可」とか「白い靴下以外不可」といった規則は、その場にはなじまない。たとえば、裁判所が傍聴者に対して「髪の毛」や「靴下」の色を規則で指定し、違反する人は裁判所内に入れないとしたら、それは滑稽である。どうして黒い靴下ではいけないのか、その理由を問い詰める人に「裁判所の規則で決まっているからです」と職員が答えたとしても、尋ねた側はとうてい納得しないだろう。

 それでは、裁判所での写真撮影や録音はどうだろうか。裁判所でも、当然、(1)被撮影者が未成年の場合(2)同じく犯罪被害者の場合(3)その他被撮影者が望まない等合理的理由のある場合は、当然撮影の制限は必要だ。ところが、実際の裁判所の対応を見ていると、世の中の常識から見て、はなはだおかしいものもある。たとえば、歩道上から、裁判所を撮るのはOKだそうだが、敷地内から外の歩道を歩く人を撮るのは「裁判所内でシャッターを押すことになるから」禁止だそうである。しかし、これは、ほとんど撮影禁止の意味が無い。〔注1〕

 裁判所は、学校のように教育活動をするところではなく、真実の究明とそれに基づく法的判断や救済が目的だ。もし、写真撮影や録音によって、真実の究明がしにくくなるというのであれば、それらへの限定的制限には理由がある。また、刃物の持ち込みは、裁判所での刃傷沙汰(にんじょうざた)が過去にあるから合理的と言えるだろう。


 大高さんは訴える。

 ――事実を最も簡明に、かつ確実に記録するのがカメラ、テープレコーダーの類いです。それらによって、私たちの〈知る権利〉がより確かなものになるとすれば、それらの使用制限は、きわめて謙抑(けんよく)的でなくてはならないはずです。カメラの場合は、シャッター音がしたり、フラッシュを焚かれれば集中力がそがれたりするというのはわかりますが、メモをとるのにほとんど音はしないのと同様に、テープだって機械が回っているかどうかは、ほとんどわかりません。

 ――それなのに、どうして裁判所は、法廷での録音をさせないかと言えば、自分たちの言動がおもてに出ることがこわいのです。もし、本当に公正に、憲法の精神に則って裁判を進行させているのであれば、カメラでも録音機でもこわくないはずなのです。本音として、自分たちの仕事ぶりが表に出るのがいやだ、でも、それは言えないから「裁判当事者のプライバシー」とか「裁判の円滑な進行のため」なんて抽象的なことを言います。録音できない事例をいくつか厳格に定めて、それで本当に守るべきプライバシーは守ればいいのではないでしょうか?

 裁判所は、当然、裁判を円滑かつ公正に進める責務を負っている。また、個々人のプライバシーも守られる必要はある、しかし、現行の規則は、国民(利用者)に対して、大きく網(あみ)をかける形で、録音機器などの使用を制限し、それは国民の〈知る権利〉を害しているというのが大高さんの主張だ。

 これに関しては、法廷内での「メモ」の是非を問うてアメリカの弁護士ローレンス・レペタ氏の起こした「法廷メモ訴訟」が思い出される。その裁判で、1989(平成元)年3月に最高裁判決が出て以降、実質的に法廷でのメモは“黙認”となっている。今後は、手が不自由でうまく筆記がしにくい人が、メモ帳代わりにノートパソコンでメモ書きをしたり、ボイスレコーダーで録音したりすることが許されるようになるのだろうか――。

 あるいは「そもそも、裁判の進行にほとんど影響を与えない個人の情報収集(例 メモ書き)の手段を裁判所が〈許す/許さない〉という発想そのものが“上から目線”だ」という議論も出てきそうである。

 いずれにせよ、かつては一般人による法廷でのメモ書きすら認められていなかったと点からも、裁判所の硬直した体質が見て取れる。傍聴人一人ひとりが、国の〈主権者〉であり、〈知る権利〉を有しているという視点からは、単に「規則でそうなっているから…」という理由だけで、何かを禁止するというような状況は変えて行く必要があるだろう〔注2〕。

 また、最近は「取り調べの可視化」の必要性が議論されているが、自分に関心のある情報の可視化、つまり「自分が傍聴した法廷での情報を保存していつでも再現できるようにすること」)――このことも私たちの〈知る権利〉と直結して今後議論されてもよい〔注3〕。


(7)傍聴席からの、裁判官に対する「起立・礼」をやめよう

 ――「おじぎ」というのは、もともと目下の者が目上の者に頭を下げ、それに目上の者が返礼、礼を返すというものです。それだけではなく、法廷での作り・位置関係は、無意識的に、ある種の“上下関係”を作り出しています。市議会のように上から議場を見おろすのではなく、裁判官が法廷を高い位置から見おろしているのが日本の法廷です。

 法廷の物理的な作りだけではなく、もっと根本的な「国民」と「裁判官」との関係も思い起こすべきだと大高さんは呼びかける。それが、前回記事の冒頭で紹介した大高さんの訴えだ。

 ――裁判官は、国民の税金による雇われ人(公僕)です。ですから法廷では開廷にあたって、「これから、憲法や法令に則(のっと)って、公正な裁判を心がけます。どうか、主権者である国民のみなさん、この法廷が真実究明の場になっているかどうか、見守っていて下さい」という心持ちで、裁判官こそが、傍聴席に向かって頭を下げるべきなのです。

 たしかに、裁判という公務を、見ている人の前で裁判官が行うのだから、「これから職務を執り行います」という清新な気持ちで裁判官が、裁判を見に来た人たちに頭を下げるのではあればわかる。けれども、傍聴人らが全員座ったところに、裁判官が正面の高い扉から登場し、その裁判官に向かって傍聴人らが立ち上がって頭をさげるというのは、〈国民主権〉の視点からも奇異なところもある。

 ――そんなこと、どうでもいいじゃないか、と言う人もいます。市役所に行った時も、私も窓口の人にマナーとしておじきはしますから、たしかに細かいことかもしれません。しかし、ふるまいというのはコワイもので、何気なくおこなっている動作が、私たちの意識を規定するということも往々にしてあるのです。よく見てみて下さい。傍聴人の人たちが頭を深々と下げているのに、ふんぞりかえって礼をしない裁判官も見かけます。傍聴人らに頭を下げられれば、裁判官だって、何かえらくなったような気持ちになるのです。


裁判所にやって来た男性からの質問に答える。「裁判所がまともになるためには、国民全員が裁判所の実態について知り、それを自分たちで変えて行こうという意識が絶対必要です。誰かがやってくれる、政府に任せておけ…では日本の裁判はよくなりません」
 ――しかし、裁判官席にいるからといって、えらくも何ともないのです。「えらい」のは、法の精神に基づいて、弱い立場の人たちに法的救済を可能とするような判決文を書いた時です。そういう時には、傍聴人席の人たちも、その裁判官に敬意をこめて、立ち上がって礼はしてもよいと思います。

 たしかに、ほかの公務員、例えば学校の授業参観の時も、わざわざ生徒と保護者がそろっている中を教師が登場し、それに合わせて参観者も立ち上がって頭をさげるということは見かけない。市役所の窓口でも、社会的なマナーとしておじぎ程度はするが、あくまでも個人の判断だ。ある種のセレモニーとして、傍聴人らが着席する中、裁判官が現れて、全員が礼をすることで、大高さんの言うように、知らず知らずのうちに私たちがマインド・コントロールされている可能性も否定できない。

 以上、東京地裁前でマイクを片手に道行く人に訴えている大高さんの主張を紹介したが、自分が裁判当事者になった時に、「陳述書を読み上げさせてくれ」というのはかなりの勇気が要る。そういうことを言えば、場合によっては裁判の進行が遅くなり、それこそ〈赤字〉〈黒字〉を気にするような裁判官の場合、発言を求める行為そのものが、裁判官の印象を悪くする、簡単に言えば裁判官のご機嫌を損ねて判決そのものに悪い影響を及ぼすことがあるからだ。

 だから、(1)~(7)まであるうちの、どれから実行できるかは、人によって違う。とりあえず、すぐに実行できそうなものは、(6)や(7)の「立たない/礼をしない」だろうか。これならば、万一、「どうして(私に)礼をしないのですか」「どうして立たないのですか」と問われても、自分で考えることを言えばいいし、ただの傍聴人という立場でいれば、訴訟当事者に迷惑がかかることもない。せいぜい「あくの強い傍聴人だ」と裁判官が内心腹立たしく思うぐらいが関の山だ。

 傍聴席の一人が立たなければ、裁判官は居丈高(いたけだか)に起立や礼を促すこともできるが、もし、その場の傍聴人全員が、冒頭の大高さんの言う(7)を実践したらどうだろうか。そして、ある法廷だけではなく、そういうことが何十回、何百回と多くの法廷で続いて行けば、自然と「起立/礼」がなくなるだろうし、人々の意識も、そして裁判官らの意識も変わっていくだろう。

 それでも、みんなが「起立・礼」をする中で、自分だけ座ったままというのは肩身が狭いという人のために、とっておきの方法を紹介する。まわりに合わせてどうしても「起立・礼」をしてしまうという人でも、次のようなことなら簡単にできるはずだ、――つまり、まわりに合わせて立ちながら、静かに心の中で次のようなことを自問してみればよいのである。

例 「どうして傍聴人が公僕である裁判官におじきをしなくてはいけないのだろう?」

例 「よい仕事をした裁判官に、傍聴人たちが立ち上がって〈GoodJob!〉と言って頭を下げるのならわかるが、根拠もなく、立ちあがって礼をするというのは、どうも儀礼的だなぁ」

例 「わざわざ交通費をかけて裁判所に足を運んだ国民が、どうして裁判官に敬意を表して礼をしないといけないのだろう?裁判官こそ『よく裁判所までお越し下さいました』と思って傍聴席に目礼ぐらいしてくれてもいいのではないだろうか、何もお茶ぐらい出せよ…とは言わないが」

 さらにもうひとつ――。法廷では、何となく緊張してしまって、そこまで心の中でつぶやく余裕が無いという人にも、よい方法がある。それは友だちとお茶を飲むとき、赤ちょうちんで少し態度が大きくなった時に、親しい人と「ねぇねぇちょっと聞いてくれる?」「法廷でのことなんだけど…」と切り出してみよう。そうやって、身近なところで、誰かと裁判や法廷でのありかたについて意見交換し、自分なりの考えを持つこと(そして、時機が来たら、その考えに基づいて行動してみること)――これこそが本当の意味での司法改革かもしれない。

(了)


11月2日に丸の内警察署に逮捕されて2週間、いつもの定位置に大高さんの姿はなかった(撮影日・11月15日)。しかし大高さんは挫けない信念の人である、またしばらくしたら必ず元気な姿を見せてくれるに違いない。

〔注1〕最高裁の場合はもっと顕著である。そもそも裁判所の敷地内に一歩でも入ろうとすると、警備員が駆け寄って来るし、歩道にいる人を撮ろうとしていちばん外の鎖をちょっとまたいだだけでも、警備員が注意しに来る。

〔注2〕法廷での写真撮影を禁止することについての合憲性は、昭和33年2月に、いわゆる「北海タイムズ事件」の最高裁判決で「合憲」とされている。

〔注3〕今年9月に出された、いわゆる「クジラ肉」裁判(青森地裁・小川賢司裁判長)では、10月9日現在、判決文が被告人側に届いていなかった。こういうことも〈情報(例 判決文)の開示〉〈知る権利〉の問題として考える必要がある。


 〈関連サイト〉

◎大高さんの支援者が作るウェブサイト

http://www.ootakasyouji.com/news.html

◎木村榮一さんの主宰する「司法制度改革の会」ウェブサイト

http://www.sihoukaikaku.info/

◎元大阪高裁裁判官・生田弁護士、最高裁を訴える

 ※まず新聞には載らないニュースです

http://www.saikousai.info/

◎「公正証書遺言被害者の会」

http://www.yuigon.us/