●仙谷由人研究(1)「窮地に立つ陰の総理 因果はめぐる」
(産経新聞 2010.12.4 00:10) http://p.tl/bB_x

 政権発足後半年にもかかわらず黄昏(たそがれ)を迎えている菅政権にあって、独り仁王立ちしてきた官房長官の仙谷由人が今、刀折れ矢尽きようとしているかのようだ。

 3日の記者会見で、官房長官の職責を解かれ、法相に専念する可能性もあると示唆した結果、与野党から仙谷と菅政権への批判と不満が噴出したのだ。

 「彼は弁護士、クロをシロにする名人だから。まあ、冗談の中に本音があることもあるけど、(彼は)冗談で言ったんだよ」

 国民新党代表の亀井静香は記者会見で「法相専念」発言の鎮火に努めた。仙谷自身も慌てて「すべては人事権者の意思だと一般論を言っただけだ」と強調したが、真意はともかく綸言(りんげん)汗のごとしだ。

 いったん口に出た言葉は当人の手を離れ、政治的な意味を持ち始める。ただでさえ参院で問責決議を受け、政権のブレーキともなっている仙谷に、民主党内の視線も冷たくなる。

 「一度問責を可決された閣僚にどのように対処すべきか、深刻に考える必要があろうかと思う」

 前首相の鳩山由紀夫は3日、記者団にこう語った。民主党三役経験者も「仙谷と(国土交通相の)馬淵澄夫は問責決議が可決されても辞めていない。(前法相の)柳田稔が辞めた意味はなかったね」と指摘した。

首相の菅直人と仙谷の「脱小沢」路線で、不遇をかこつ議員からは、来年の通常国会に向け、党人事・内閣改造による体制一新を求める声も強まっている。

 問責決議を可決した野党側は、当然のことながら仙谷続投は認めない姿勢だ。

 「仙谷残れば審議なし」(自民党参院政審会長の山本一太)

 「続投とか法相専念というのは、問責の意思を正しくとらえていない」(公明党代表の山口那津男)

 野党の強硬姿勢には、衆院で否決された不信任決議案は「官房長官・仙谷」の資質を問うたものだが、参院で可決された問責決議は「国務大臣・仙谷」を認めないとの意思を示したという背景がある。官房長官であろうと法相であろうと仙谷が出てくれば審議には応じられないというわけだ。

 自民党からは仙谷が官房長官のままでは、来年1月の通常国会の召集を決める「議院運営委員会の理事会も開けない」(国対委員長の逢沢一郎)との強硬論も出ている。

 今国会では、仙谷自身の外交上の迷走や国会での失言、暴言が審議の主要テーマとなった揚げ句、問責決議の可決となり、政策論議を妨げた。仙谷は3日の記者会見でその点を問われるとこう言い放った。
「あなたがそうお考えになるんだったら、甘んじて受けておきます、はい」

 問責決議には法的効力はない。だが、菅も平成10年に当時、防衛庁長官だった自民党の額賀福志郎が問責された際には「即刻罷免すべきだ」と主張していた。

 「もうちょっと自らの政権を客観化して判断なさると、あれだけ失言をし、理想を示さず、経済状態がこうであれば『しようがないな』と思いませんか」

 これは平成12年11月の衆院予算委員会で、仙谷が首相の森喜朗に退陣を迫った際のセリフだ。因果はめぐり、自らに戻ってくる。

     ◇

 3日閉会した臨時国会の主役は菅でも民主党元代表の小沢一郎でもなく、紛れもなく仙谷だった。かつて全共闘運動に身を投じ、社会党から民主党へと転籍した仙谷は現実主義者なのか、社会主義の夢を引きずる左翼政治家なのか。「陰の首相」と呼ばれて権勢の絶頂に立ちながら、問責決議の可決で進退窮まった仙谷の幻影と実像を探った。    =敬称略



●仙谷由人研究(1)「ピンク色の官房長官」
(産経新聞 2010.12.4 00:17) http://p.tl/mt9U

 ■転向しちゃった

 菅政権を口八丁手八丁の政治手腕で支え、同時にそのアキレス腱(けん)ともなった官房長官の仙谷由人の「原点」はどこにあるのか。

 仙谷と東大のドイツ語の授業で机を並べた旧友であり、現在は内閣官房参与として外交ブレーンを務める松本健一は昭和50年代半ばのある夜、仙谷との会食中にこう打ち明けられた。

 「おれ、転向しちゃったよ」

 どういう意味かと松本が尋ねると、仙谷は「われわれの時代は(主流の作家は)大江健三郎だっただろう。司馬遼太郎に転向しちゃった」と答えた。

 松本によると、仙谷は30代半ばのこのころから、大学時代に愛読していた反国家的色彩のある大江だけでなく、日本社会の発展を肯定する保守主義的な司馬も認めるようになった。

 仙谷は全共闘(全学共闘会議)時代、「フロント」と呼ばれるセクトに足を突っ込んでいた。

 当時、全共闘運動は「日本社会主義青年同盟(社青同)」「革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)」-などのセクトが主流。フロントは「弱小で軟弱だった」(松本)とされる。

 仙谷は、ベトナム反戦デモには加わったが角材は握らず、1年留年した43年、5年生で司法試験に合格した。フロントは44年の東大・安田講堂攻防戦では講堂立てこもりには参加できず、司法修習生だった仙谷は食料の手配や下着の差し入れ、逮捕された学生の法廷闘争などを手伝った。

 「全共闘の救援対策を担ったことは隠しも何もしない。若かった時代の考え方に、思い至らなかったこともあるが、誇りを持ち、その後の人生を生きてきた」

 仙谷は11月22日の参院予算委員会で、こう胸を張った。自衛隊を「暴力装置」と呼んだ思想背景について問われた場面でのことだ。

 「人間の頭は、20代ででき上がっちゃっている。それ以上は発達しない」

 松本は仙谷の柔軟性を指摘しつつもこう語った。

 

■豹変できない

 「資本主義と社会主義のどちらを選択するか。この問題は、ベルリンの壁の崩壊で一気に勝負がついた」

 仙谷は7月の日本外国特派員協会での講演でこう振り返った。仙谷は壁崩壊の翌年、平成2年の衆院選で社会党から初当選する。講演ではこう続けた。

 「そのときに考えたのは、絶対主義から相対主義というか、『主義者』にはならないことだ」

 「政治をやる以上は多数派形成をやる。『孤立を恐れて連帯を求める』というふうに変えないと政治家として意味がないだろう」


 社会主義の敗北を認め、「主義」と決別したのであれば、なぜ社会主義を標(ひょう)榜(ぼう)する政党からの出馬なのか。昭和50年代、自民党衆院議員の秘書をしていた中学時代の同級生が「自民党福田派から出ないか」と誘ったところ、仙谷はこう断ったという。

 「いきなり百八十度は豹(ひょう)変(へん)できないよ」

 仙谷は昨年夏の衆院選で民主党が政権を奪取した直後、それまで自分に長年仕えてきた政策秘書を他議員の秘書に転籍させた。その理由について、周囲にこう明言している。

 「彼は左翼だ。左翼の発想では政権運営、権力の維持はできない」

 だが、左翼的発想の限界に気付いていたはずの仙谷氏の実際はどうか。韓国に対する新たな戦後個人補償発言や日韓併合100年の首相談話、領土問題での相手国への過剰な配慮と自衛隊や海上保安庁への冷淡さなどで、雑誌では「赤い官房長官」と揶(や)揄(ゆ)され、政権運営は行き詰まっている。

 60年安保闘争を評論家の西部邁らとともに指導した元全学連幹部で、仙谷と親交のある東大名誉教授、坂野潤治はこう喝破した。

 「仙谷はピンク色の道を選んだ。大衆闘争をやってもその先がないことは分かっていた。それで西部らは右に行ってしまったが、仙谷は『男たるもの踏みとどまりたい』とピンク色を探したのだろう」

 個人の思想・信条、生き方であればそれもいい。だが、国難の時代に、中途半端な「総括」しかできなかった「ピンク色の官房長官」が果たしてふさわしいのだろうか。(敬称略)