野中広務とその時代 


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1.差別を権力に変えた男

 以前、「田中角栄入門」を連載していた頃、ひとりの気になる政治家がいた。野中広務という男である。部落出身らしい彼が、57歳という年齢で国会議員になって、あっという間に権力の階段をかけ登った、その不思議に引かれたのである。

 最近、私のこの疑問を解決してくれる本にであった。魚住昭さんが書いた「野中広務、差別と権力」(講談社)がそれだ。これを読むと、田中角栄以後の政局がよくわかる。野中広務が小沢一朗と張り合って、どのように彼の野望を打ち砕いたか。そして野中自身が、いかに日本の政局で主導権を握り、ついには失脚して権力を小泉に渡す羽目になったか。

 そのなまなましい政治ドラマを読みながら、それでも不快感はなく、むしろある種の感動を覚えたのは、底辺からはい上がり、そして転落した彼に、もののあわれにも似た同情と共感を覚えたからだろう。田中角栄にも感じられるような、辛酸をなめ苦労した男が醸し出す体臭には、二世・三世のお坊ちゃん代議士にはない人間的な温かみが感じられる。

 もちろんこの温かみは一筋縄のものではない。自ら差別された者として、彼は弱者への愛をしばしば語ったが、これがくせもので、彼はこの差別を利用して、弱者の代表として権力の階段をゆっくり昇っていった。しかし権力を握った彼が実際に行った政治は、弱者に対してむしろ冷酷であり、犠牲を強いるものであることが多かった。

 彼が京都府園部町の町会議長になり、やがて町長におされたのは、彼が部落出身であることと無関係ではない。当時、部落解放運動の高まりの中で、町政は困難に直面していた。当時町議をしていた人が、こんな証言をしている。魚住さんの本から引用しよう。

「糾弾会の荒れようはすさまじく、灰皿やヤカンが飛んでくるのは当たり前でした。町会で『なぜ、彼らだけが固定資産税を免除されるのか』と質問した議員が自宅をぐるりと取り囲まれることもあった。そんな状態だったから、誰もあまり町長などなりたがらない。寿命を縮めるだけですからね。だけど野中さんなら解放同盟を抑えることができる。そういう事情もあって彼は若くして副議長、議長になれたのです」

 1958年(昭和33年)、町長が心労で倒れた。そのあとに野中をという声が出たが、「部落出身者を町長にはできん」という声もつよかった。しかし「荒れた議会を仕切れるのは野中さんしかいない」ことで、結局野中が町長にかつぎだされた。

 部落問題による対立を解消する調停者として、野中は町政に足がかりを築き、そして、ついには町長の地位を射止めたわけだ。町長になった彼は部落解放の運動については、「アメと鞭」で臨み、ときにはこれを抑えることに容赦しなかった。こうして彼は部落民からはわれらが代表として、一般市民からは「部落の要求に屈しない町長」として、絶大な支持を得た。

 彼はときに自らの被差別体験を語り、「差別のない社会の実現」を切々と訴えた。そしてまた、自らの戦争体験を語り、平和の貴さを口にする。しばしば沖縄に言及し、現地に足を運び、戦争の非人間性をしみじみと述懐した。

 しかし、彼が小渕内閣の官房長官となり、「影の総理」と呼ばれて権力の中枢にあった1998年からその翌年にかけて、一体どのような法案が国会を通過したか見てみれば、彼が決して一筋縄でいかない人物であることがわかる。

 先ず、99年5月22日の通常国会で、衆議院をガイドライン関連三法案が通っている。これは周辺有事の際に米軍の軍事行動に官民挙げて協力するという、これまでの日本の防衛政策の枠組みを変える重要な法案である。さらに、8月には、国歌・国旗法案、盗聴法案、住民基本台帳法案など、国民の基本的人権を制限する法案が次々と可決された。

 これら一連の法案によって、日本はその進路を右寄りに大きく変えた。その舵取りをしたのが野中だった。その進路変更はやがて時が経つに連れて大きくなる。こうして、去年はイラクへ自衛隊が派遣され、今年に入ってからは東京都で国旗に対して起立しなかった教員が処分を受けた。わずか数年を経て、こうしたことがほとんど何の抵抗もなく行われるようになったわけだ。

 もとより野中広務は小泉首相のような確信的な国家主義者ではない。野中にはそのようなイデオロギーはほとんどない。現に、園部町長時代の彼は共産党系の蜷川京都府知事を支持していた。それはそうすることが、彼にとって有利だったからだ。野中はいつも蜷川にぴったりと寄り添い、蜷川も野中をかわいがって、人前で彼の腕を掴むと、「この野中君は私の片腕です」とまで言っていた。

 しかし、その同じ頃、野中は目黒に直参し、田中角栄にもよしみを通じていた。そして、後年、田中派の圧倒的な支持を得て、府議会議員に当選することになる。そして府議会で今度は「知事、あなたは重大な差別者であります」と蜷川糾弾ののろしをあげる。

 当時の自民党にとって、蜷川長期府政を打倒することはほとんど悲願だった。そしてその切り札になれるのが野中だった。もしこれに成功すれば、報奨として国会議員への道が開けるに違いなかった。ことを野中はよく知っていた。野中は自ら捨て身になって拮抗する両陣営の狭間に身を置き、そして自分の野望を実現するためにはどんなことでもした。かっての恩人でさえも切り捨てた。

 実際、国会議員になった彼は、大恩人の田中をも裏切って、経世会の旗揚げに参加し、竹下のもとで頭角を現して行った。常に抗争の狭間に身を置き、自分を最大限売り込める相手につくというのが、野田広務の処世術であり、部落差別から身を起こし、影の総理と言われる権力者にまで上り詰めた出世の秘密だった。


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2.政界の狙撃手
 野中広務の目はたいへんするどい。相手のウイークポントを見破り、正確にねらいを付けて、効果的な攻撃をしかける。そうした動物的な勘の良さと、行動力を持っている。彼に睨まれたら、どうすることもできない。

 彼はこの能力を大いに利用した。そしてその標的は、いつも大物である。たとえばNHKのドンだったシマゲジ(島圭次会長)も、野中から国会の委員会での「虚偽発言」を追求され、追いつめられたあげくに辞任している。

 1991年(平成3年)4月18日、米フロリダ州で打ち上げられたロケットが軌道を離れ、放送衛星の打ち上げに失敗した。シマゲジは自民党の族議員や郵政省の国産衛星をという声を握りつぶして、費用の安い外国産の衛星を採用しており、しかもこれが二度目の失敗だった。

 当然、国会でシマゲジ追求の火の手があがった。逓信委員会委員長としてその先頭に立ったのが野中広務だった。野中はこのとき、「シマゲジが衛星打ち上げの時どこにいたのか」を問題にした。

 逓信委員会でシマゲジは「GE(ゼネラル・エレトリック社)で打ち上げのモニターを監視していた」と答弁していた。最初の予定はそうだったが、じつはシマゲジはロサンゼルスのホテルに、ある女性と一緒にいた。しかもこの情報を野中はいちはやく掴んでいた。情報の出所はNHKだという。当時の郵政省の担当者の証言を、魚住昭さんの「野中広務、差別と権力」から孫引きしよう。

「野中さんの指示でNHKに事実確認を求めたが、郵政省が調べるまでもなく、野中さんはすでにNHK内部からの情報で(島の所在に関する)事実をつかんでいたのではないかという印象を受けた。野中さんのその後の動きを見ても、目のつけどころが鋭いし、行動が素早く、読みが深い。いろいろな政治家を見てきたが、突出してすごい人だなと思った」

 当時シマゲジはNHKのドンとして、そこらの代議士や官僚を上回る権力を持っていた。「シマゲジはチンピラを相手にしない」という噂通り、役人や政治家を馬鹿にし、決して頭を下げようとしない。予算を通すにしても、「郵政省の小役人なんかにいくら説明しても無駄だ」と言い放ち、族議員のもとへも局長を寄越すだけだった。この傲慢さに、だれもが腹が立っていた。

 だれがシマゲジの首をとるか。しかし、相手は国民の世論形成に圧倒的な影響を持つNHKのドンである。第4の権力のトップにある実力者を批判することは有力な政治家でもなかなかできることではない。ところが7月2日の朝日新聞朝刊が社会面トップで、「NHK島会長、国会答弁に疑問」という特ダネ記事を掲載した。

<今年四月の放送衛星「BS3H」の打ち上げ失敗に絡み、「GE(ゼネラル・エレトリック社)で打ち上げのモニターを監視していた」と衆議院逓信委員会で答弁した島圭次NHK会長が、実は当時ロサンジェルスに滞在していたとの疑いが一日、浮上した。この間の経緯についいて、島会長側は明らかにしていないが、同委員会側は、「国会軽視」と問題視しており、すでに一部の委員が調査を始めた>

 他紙も一斉に夕刊でこの記事を後追いした。数日後、「東京スポーツ」が「NHK島会長、愛人と海外出張」と書いた。これを契機に、「週刊新潮」「週刊文春」「週刊朝日」などの週刊誌各紙が「愛人疑惑」を書き立て始めた。

 島は記者会見し、「勘違いだった」と言い逃れをしたが、これに対して、野中は「NHKに役所も国会も立ち入れないということであれば、NHKについて定めた放送法の再検討も含めて考えざるを得ない」と語っている。NHKを政府の管理下に置くぞという強力な恫喝である。

 シマゲジはこうして追いつめられた。7月15日、島は緊急役員会を開いて会長職を辞任することを表明した。そしてその日の午後5時からNHKで記者会見に臨み、「このような事態を招いたことは、公共放送の重大な危機であり、責任者として誠に申し訳なく、辞任を決意した次第です」と語った。

 野中は「シマゲジの首を取った男」として脚光を浴び、郵政省やNHKに影響を持つ族議員としての地位を確立した。魚住昭さんはこう書いている。

<野中が島を辞任に追い込むことができたのは、ひとえにNHKの内部情報や郵政省の情報をリアルタイムで入手できたからだろう。豊富な情報をもとに相手に弱点を見極め、マスコミや世論の動向を敏感にかぎ分けながらズバリと切り込んでいく。後に「政界の狙撃手」と恐れられる野中の政治スタイルはこのとき完成されたと言っていい>

 野中はマスコミを味方につけて、記者から情報をとるのが天才的にうまかったという。そして郵政省に多大な影響力を持つようになる。翌年、宮沢内閣で郵政大臣になった小泉純一郎が「郵政貯金制度の見直し」を主張したとき、郵政省の官僚たちの肩を持ち、野中はこれに反対した。小泉は出鼻を挫かれた。

 逓信委員会で小泉大臣は「ご迷惑をおかけしたことはまことに申し訳なく、おわびする」と陳謝したが、後に総裁選に立候補した小泉は野中を「抵抗勢力のボス」と決めつけ、野中を叩くことで支持率をあげて行った。「政界の狙撃手」も、世論に後押しされて飛ぶ鳥の勢いを持った小泉を狙い落とすことはできなかった。反対にねらい打ちにされてしまった。

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3.政治家・野中の誕生悲話
 野中広務のふるさとは京都府船井郡園部町大村である。野中は1925年(大正14年)10月20日、ここで農業を営む北郎・のぶ夫妻の長男として生まれている。当時、50戸ほどある農家のうち、自作農はわずか2,3戸で、あとはすべて小作農だったという。

 大村はもともと非差別部落民の村だった。江戸時代に村人たちは皮革生産をなりわいとする一方で、「警刑吏役」として藩内の治安維持にあたっていた。御用提灯や十手をもって犯罪取り締まりにあたり、刑の執行、牢死者の遺体の片づけなど、警察官や刑務官の役目を与えられていた。

 彼らは「役人」として藩からは見返りに給金を支給され、年貢も免除されていた。大村は役人村として周囲の住民からは恐れられ、彼らを支配・処罰する冷酷な人非人として蔑視されていた。こうした役人村の伝統は、江戸時代よりはるかにさかのぼるという。

 平安時代に京の治安を取り締まり、犯罪者や疫病死した遺体の処理をするのは検非違使の役目だった。そうした京の警察・衛生行政組織の手足として動いたのが非人といわれる人々で、京都には大村ほほかにこうした特殊な部落がいくつかあったという。

 明治時代になり、彼らは役職を解かれた。そうすると、彼らは住民に対する支配権や監督権を失い、もはや恐れられる怖い存在ではなくなった。しかも役人だった彼らは、生業とする田や畑を持たなかっただけに、経済的にも窮乏した。こうして彼らには「蔑視」と「差別」だけが残った。

 ここで、1922年に駒井喜作が京都市の岡崎公会堂で読み上げた「水平社宣言」の一節を紹介しよう。野中広務が生まれる3年ほど前のことで、時代の雰囲気が分かる。魚住昭さんの「野中広務、差別と権力」からの孫引である。

「ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎとられ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい人間の心臓を引き裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪われの夜の悪夢のうちにも、なお誇り得る人間の血は、涸れずにあった」

「吾々がエタであることを誇り得る時が来たのだ。吾人々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、祖先を辱め、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、どんなに冷たいか、いたわることが何であるかをよく知っている吾人々は、心から人生の熱と光りを願求し礼賛するものである。水平社は、かくして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光りあれ」

 この水平社宣言は彼らの置かれた現実の厳しさを雄弁にかたっているが、こうした「差別」や「蔑視」が生まれた背後に存在した「支配」と「恐怖」の権力構造についてはほとんど語っていない。差別や蔑視を生み出す闇の力、そして闇の力を生みだす社会の歪み、こうしたものの存在を軽視すれば、歴史の本質を見失うことになる。

 話を戻そう。野中広務が旧制中学に学ぶことができたのは、彼の家が大村では珍しい自作農に属していたとが大きい。しかし、自作農といっても野中家には四反ばかりの田があるだけで、父親は郡役場で給仕として働きながら、広務をはじめ5人の子どもを育てなければならなかった。決して豊かな暮らしという訳ではない。

 広務が旧制中学に進学したのは教育熱心な母親のおかげだという。野中は「自由新報」のインタビューで、「父親は平々凡々な人でしたが、母は僕にとってすばらしい人でした。辛いときなど母の夢をみますよ」と語っている。彼は厳しくてやさしかった母について、こうも語っている。

「たとえば朝起きて、われわれが仏壇とか神棚に手を合わせて、いまだにしますけれども、食卓に坐ってはしを両手の真ん中に置いて、こうして拝んで『いただきます』と言わなければ絶対食べさせてもらえなかった。・・・親父はもう絶対そんなことは言わない。これは酒も飲まない。たばこも吸わない。肉類は一切食わない。ただ人の世話をしたという人だった」

 1943年(昭和18年)野中広務は府立園部中学を卒業すると、大阪鉄道局の職員に採用された。このころから戦況は悪化し、1945年1月に野中に「赤紙」が届いた。野中は四国の部隊に配属された。高知海軍航空隊の特攻基地の近くだったから、特攻隊員たちが飛び立つ光景もよく目にしたという。

 終戦を知った野中は自決するつもりだったらしい。そのとき小隊長に殴られ、「死ぬ勇気があるのなら、日本の再興のためにがんばれ」とさとされたのだという。野中は国鉄に復帰した。そしてしゃにむに働き、職場でも実力が認められるようになる。

 5年後には大阪大鉄局業務部審査課の主査になっていた。上司の覚えもめでたかったが、そのころ職場で、彼が「被差別部落民らしい」という噂が広がった。言いふらしたのは、彼が目をかけていたおなじ園部町出身の後輩だった。後に野中は京都府議会の本会議場でこう証言している。

「私は一週間、泣きに泣きました。私には目が三つあるわけではない。皮膚の色が違うわけではない、口が二つあるわけではない、耳が四つあるわけではない。何も変わらないのに、そして一生懸命がんばるのに、自分が手塩にかけたそういう人たちに、なぜそんなことを言われなくてはならないのだという、奈落の底に落ちた私の悲しみは一週間続きました」

 熟考したあげく野中がたどり着いたのは、「ここはおれのおるところではない。自分という人間を知っているところで、もう一度生きなおしてみよう」という決断だった。こうして彼は故郷に帰ってきた。そして、やがて「影の総理」とまで呼ばれることになる被部落民出身の政治家、野中広務が誕生するわけだ。

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4.ピンチをチャンスに変えた男
 33歳で園部町の町長になった野中広務が最初にした仕事は、たまった料亭の飲食代の精算だった。幹部が料亭にいりびたっていたため、3軒の料亭に当時の町の予算の一割に匹敵する350万円もの借金がたまっていたのだという。

 実は借金はもっとあった。それを町民税と固定資産税で毎年棒引きしていたらしい。その分を差し引いても、350万円もの借金があったわけだ。町民の税金で町の幹部が好き放題飲み食いをしていたわけで、まさに腐りきっていた。

 野中は料亭に借金を250万にまけさせて、即金で支払った。そして、「今後は収入役の伝票を持っていかない分の請求については支払わない。自分も酒は飲まない」と宣言して、宴会政治に歯止めをかけた。

 町長になった野中は歴代の保守系町長とうってかわり、蜷川支持を打ち出した。その結果、府から配分される地方交付税や補助金が増えた。こうした事は蜷川支持によって可能になったわけだが、その一方で、野中は当時自民党の幹事長をしていた田中角栄にもよしみを通じていた。

 野中は「僕ぐらいでしょ。園部の野中です、と言って角さんの部屋に入って行けるのは」と自慢していたという。しかし、野中には田中に頼らなければならない切迫した事情があったことも事実だった。

 園部町は野中が町長になった翌年の1959年(昭和34年)8月に、集中豪雨で園部川が氾濫し、約700戸もの家屋が倒壊したり、浸水している。その一ケ月後にも再び洪水に見舞われ、刈り入れ前の稲に壊滅的な被害を及ぼした。二度の洪水の被害額は2億8千万円に上がったという。園部川は翌年も氾濫し、やはり2億5千万円もの被害額をだした。

 こうした中で町の財政は極度に窮乏した。野中は町の復旧のためなら蜷川も角栄も、利用できる者は何でも使わなけらばならなかった。蜷川の前では災害に悩む貧乏町の町長として国にたよらなければならない苦衷を述べ、角栄の前では蜷川に頼らなければならない苦衷を口にしていたのかも知れない。後年、野中は田中角栄についてこう語っている。魚住昭さんの本から孫引きする。

「角栄先生とは、三十年くらいまえ、京都府園部町長時代からの、おつきあいです。先生は、ご自身、なんのメリットもないのに、あれこれ親切に世話して下さいます。田舎の土の臭い、過疎地の感じをきちんとつかみ、理解してくれる人なんです。

 なにか頼むとするでしょう、だれでも『わかった』という。でも、あの人の場合、わかったというだけじゃない。すぐに処理してくれた上に、その結果を、自分で、自分でですよ、こちらに連絡してくれるんです。九年まえ、私の母が死んだとき、葬式に秘書をよこしてくれました。しかし、それだけじゃないんです。初盆のとき提灯を送っていただいた。こんなこと、できますか」

 野中は蜷川の懐刀でありながら、その仇敵である角栄とも親密な仲を築いていく。そんな野中を地元新聞のコラムは「このコウモリ、なかなかゲイがこまかくて、今もって鳥からは、鳥仲間だと親しまれ、獣からは獣仲間だと可愛がられて、少しもあやしまれていない。正に天性舌端の妙技だといえそうである」と書いた。

 度重なる園部川の氾濫は、莫大な損害を町に与えたが、悪いことばかりではなかった。野中町長の奔走で国と府の援助がこの町に洪水のように押し寄せてきたからだ。これによって老朽化した橋は付け替えられ、立派な堤防や道路が整備された。地元の土建業者がうるおい、これが後に野中の強力な選挙マシンになる。

 野中は逆境に強い。天災による援助金をうまく運用して人件費を浮かせることで、町の財政がかえって豊かになった。野中は町役場に最新式の事務機器を導入し、住民課を新設して、町民へのサービスの向上をはかった。

 新入学児童の教科書代も国に先駆けて無料化した。砂埃を立てていた町の道路もみるまに舗装された。下水道の整備も急ピッチで進んだ。就任時には1800万円もあった町の財政赤字も3年ですべて解消した。

 こうして野中町長のもとで園部町は生まれ変わり、4年後には「全国優良町」の表彰を受けた。園部町はモデル自治体として全国から視察団が訪れるまでになった。野中は行政手腕を評価され、辣腕の地方行政家としての名声を全国に鳴り響かせることに成功した。

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5.村山内閣の誕生まで
 政治に下克上はつきものである。佐藤首相は後継者に福田赳夫を考えていたが、田中角栄はこれを拒んで猛然と戦い首相になった。しかし、その田中も竹下登に寝首をかかれる。竹下が下克上を決意したのは、田中が不用意に口にした「おれがもういちど首相をやる。お前はその後だ」の一言だったという。

 田中はロッキード事件で逮捕され、公判中だった。竹下はとうぜん田中が自分に会長の職を禅譲してくれると期待していたのだが、それがかなわぬと見て、田中に反旗を翻した。田中はアルコール漬けになりやがて脳梗塞で倒れた。

 その竹下もやがて小沢一郎に足許を脅かされた。小沢の幹事長就任に反対したものの、派閥の会長である金丸が小沢を溺愛していたのでどうすることもできなかった。しかし約30億円におよぶ脱税容疑で金丸が議員辞職すると、風向きが変わった。

 金丸は自分の後継に小沢を指名しなかった。小沢が懇願しても、「それはあとの人間がきめることだ」ととりあわなかった。このころ、金丸が心を許していたのは野中だった。野中は失意の金丸を毎日のように訪れ、マージャンをしていたという。そして野中の背後にいたのが竹下だった。

 金丸の後、経世会の継総裁に選ばれたのは小沢ではなく竹下子飼の小渕恵三だった。争いに敗れた小沢は新派閥、改革フォーラム21を結成し、羽田孜を会長に据えた。こうして経世会は分裂した。小沢の番記者の回想を魚住昭さんの「野中広務」から引用しよう。

「一連の抗争で野中さんが果たした役割は大きかった。もし野中さんの小沢攻撃がなかったら、分裂まで進んだかどうか。梶山、小渕、橋本、小沢、羽田といった面々だけだったら和解できたかも知れません。何と言っても彼らには一緒に田中角栄から袂を分かった(経世会の)七奉行という一体感があって、小沢さんも『梶山は話がわかる』とか『ブッちゃん(小渕)は騙されている』とか言っていましたから」

 翌1993年6月に、政局が一気に動いた。社会党などの野党が提出した「宮沢内閣不信任案」に改革フォーラムの30人の衆議院議員が同調したため、これが可決された。宮沢は衆議院を解散したが、佐川急便事件や金丸脱税事件などで頂点に達していた政治不信は収まらず、7月18日に行われた総選挙で自民党は過半数を割り込んだ。

 小沢はここで一気に勝負をかけた。35人の当選者を出して政界に新風をまきおこした「日本新党」の細川護煕を首相候補に担ぎ出し、さらに武村正義の「さきがけ」をとりこんで、非自民連立政権を樹立したのだ。こうして38年におよぶ自民党一党支配に終止符が打たれた。

 しかし、国民の期待をあつめた非自民連立政権も、細川首相のNTT株疑惑が持ち上がり、暗雲がたちこめてくる。清潔だと思われ、それを売り物にしていた細川首相が、熊本県知事時代に佐川急便から借金をしてNTT株を購入し、多額の利益を上げていたというのだ。

 この問題が公の場ではじめて明らかになったのは、1993年12月8日の予算委員会だった。質問に立ったのは、2年前に島NKH会長を辞任に追い込んだ「政界の射撃手」の野中広務だった。野中は何食わぬ顔でこう質問した。

「ところで、これは仄聞ですが、総理もまたかってNTT株を手がけられているという話を聞いておりますけれども、そういうご経験はおありですか。・・・・総理自身の名義だけではなく、だれか他人の名義で株を取得されたという御記憶はございませんか」

 細川首相は「すべて事務所に任せておりましたので、定かな記憶はございません」と野中の質問を一蹴している。しかし、それから一週間後、毎日新聞が12月15日付の夕刊の一面トップで、大スクープをした。

<細川護煕首相が佐川急便側から借りた一億円を購入資金に充てたとされる東京都港区のマンションなどを担保に、首相の義父が証券金融会社から総額約四億円の融資を受けてNTT株三百株を購入していたことが十五日、関係者の証言でわかった。首相が熊本県知事だった1986年、当時の秘書も協力し、うち百九十九株を売却して多額の利益を得ていた。佐川側からの融資に絡む疑惑が国会で取り上げられている中、首相ファミリーの名義による不透明な株取引が浮かんだ>

 疑惑は国会で執拗に取り上げられ、火だるまとなった細川首相は、翌年4月8日に辞意を表明した。25日に羽田が非自民連立政権の代表として細川の後を継いで首相になった。しかし、羽田政権もわずか2ヶ月しかもたなかった。

 非自民連立政権内部で、小沢一郎新生党代表幹事と村山富市社会党委員長との軋轢が激化し、社会党が連立政権を離脱し、こともあろうに自民と連立したからだ。この思っても見ない政変劇を実現させたのは、「社会党の村山を連立政権の首相にする」という戦略だった。

 この秘策を社会党とのパイプを活かして実行したのが野中だった。1994年(平成6年)6月30日、自社さ連立の村山内閣が誕生した。村山は衆議院本会議での所信表明演説で、「日米安保堅持」「自衛隊合憲」「日の丸・君が代容認」を打ち出した。

 歴史が大きく動いた瞬間だった。野中は村山の演説を聞きながら、深い感動に突き動かされたという。そして「これだけの大変な決断をした人を自分は一生支え、尽くしていかねばならん」と決意したという。

 事実、野中は村山を支えた。阪神大震災、地下鉄サリン事件と未曾有の事件が続発し、円高不況で経済が落ち込む中、政策決定に時間がかかる連立内閣に、自民党の内部から河野総裁を首相にしろという声があがった。森幹事長までもが記者会見でが「第一党の自民党が中心になって政権を作っていれば、こんなに政治はもたもたしなかった」と発言した。

 この森発言に当時自治大臣だった野中は激怒し、「政治家としての資質に欠ける。怒り心頭に発している」と記者会見で森を批判した。こうして野中は自民党の不満を押さえ込み、村山政権の「守護神」と呼ばれるようになる。村山はこうした野中について、後年こう述べている。

「閣議の後に行われる閣僚懇談会でいろんな人の発言を聞いていて、僕が一番評価しとったのは野中さんだよ。言うことがきちっとしているしね。例えば『円高で厳しい中で中小企業が高金利を払わされている。借り換えできるような措置をとるべきじゃないか』と言ったりね。それに野中さんは誰よりも豊富な情報を持っているから決断も早い。できんことはできんと言い、やると言ったことは必ずやるから頼もしかったですよ」

 村山内閣の功績として挙げられるのは、95年6月の「不戦決議」や8月15日の「総理談話」で過去の植民地支配と侵略に対する反省とおわびを明記したこと、「被爆者援護法の制定」「水俣病患者の救済」だが、こうした自民党が一番いやがることを実現するのに頼りがいがあったのが野中だったという。

 しかし、村山内閣の実現は社会党が社会党らしさを失い、やがては世論の支持を失って衰退する道への第一歩だった。いや、冷静に歴史を振り返るとき、それは日本の政治に大きなマイナスだったのではないか。野中の政治戦略は、政治の王道を破るものだった。そしてこれに踊らされ、自民党の復権をむざむざと許した村山も、罪の深い政治家だといわなければならない。
 

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6.公明党を小沢から奪う
 小沢一郎が経世会の中で力を蓄え、やがて分裂して自らの派閥をつくることができた背景に、公明党書記長の市川雄一、ひいては池田大作創価学会会長との太いパイプがあった。93年夏に細川政権を誕生させた立て役者の一人は市川である。

 市川は池田会長の覚えがよかった。1976年に初当選し、86年に国対委員長に起用され、当時官房副長官だった小沢と意気投合した。細川内閣の組閣前日、池田は長野市で行われた学会本部幹部会で、こうスピーチした。

「スゴイ時代にはいりました、ね! そのうちデージンも何人か出るでしょう。まあ、明日あたりですから。みんな、皆さん方の部下だからそのつもりで。日本一の創価学会ですよ。明日の新聞楽しみに。まだ言うのは早いんですけどね。これからですよ本当の仕事は」

 翌年、市川は小沢と新進党を結成した。しかし、これを境に、自民党の創価学会攻撃が猛然とはじまる。そして、その先頭に立ったのは、いうまでもなく「政界の狙撃手」と恐れられた野中広務だった。

 野中はまず、学会発行の「聖教グラフ」に目を付けた。そこに池田が外国の要人と会見する写真がたびたび掲載されていた。問題は写真のバックに映っているルノワールとかマチスといった有名画家の絵だった。

 野中はその絵を創刊号からすべて調べあげ、学会が届けている資産リストと照合した。その結果、届けられていない資産がかなりあるらしいことがわかった。野中はこの事実を公然とは発表せず、それとなく漏らした。学会としてはこうした野中の行動が不気味だった。

 さらに、池田側近で「公明」代表の都会議員・藤井富雄が暴力団の組長と密会したところを撮られたビデオを自民党の亀井静が入手したという情報がもたらされた。情報の出所は野中広務だった。野中に脅されて、学会はふるえ上がった。

 村山内閣が発足し、非自民政権が崩壊すると、自民党の公明・創価学会攻撃はさらに熾烈になった。自治大臣となり国家公安委員長の地位に就いた野中は「オウム事件の捜査が宗教法人の壁に阻まれた。法改正の必要がある」と言い出した。

 そして95年秋の国会で、創価学会に拘わる宗教法人法改正が行われた。これに先立ち、創価学会会長の秋谷栄之介が国会に参考人として呼ばれた。「このまま野中と対立していたら何をされるかわからない」という恐怖心が学会に広がった。

 小沢と「一・一コンビ」を組んでいた市川書記長は更迭された。公明党は新進党から離脱し、小沢と距離を置くようになった。そして創価学会は野中に叩かれるたびに恐怖心を募らせ、野中に接近していった。こうして野中は公明党を小沢から奪い、「自公連立政権」を作りあげた。

 野中は自民党の他の議員が直接公明党と接触することを許さなかったという。公明党への窓口を自分だけにしぼることによって、野中はさらに自らの権力基盤を盤石なものにした。自民党のみならず、社会党と公明党を握った野中はいまや権力の頂点に立ち、「影の総理」とまでいわれるようになった。

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