7.池田大作の大望

 日本には西洋のような熾烈な宗教戦争はなかった。また、十字軍もなかった。それは仏教の根本の考え方が「空」であり、教義そのものも「空」であるとする立場だからだ。たとえば親鸞は「歎異抄」で弟子の唯円に、「義なきをもって義とす」と語っている。例外がないわけではないが、原理的には宗教戦争が起こり得ない。

 日本古来の宗教である「神道」もまたこれという教義をもたない。その昔は社さえもなく、ただ巨木や岩を「ご神体」としてあがめていた。森羅万象に命が宿り、神が宿ると考えられていた。それは理屈ではなく、生命の実感だった。

 こうした神道と「習合」した仏教は、日本で独特な思想を育んだ。それは「空」のなかにこそ命が宿るという思想である。自己を空しくすること、すなわち「無心」ということが、悟りに至る要諦であり、さとりそのものだとされた。

 しかし、日本の仏教者の中にも変わり種はいる。それが日蓮だった。日蓮は「義」を重んじる人だった。そしてその「義」を政治を通して実現しようとした。日蓮は国が乱れるのは、国に正しい思想が行われず、人々が「義」に背いているからだと考えた。「立正安国論」で次のように書いている。

「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神は国を捨てて相去りし聖人は所を辞して帰りたまはず。是れを以て魔来たり鬼来たり災起こり難起る」

 池田大作が率いる創価学会もまたこの日蓮の思想を受け継いでいる。学会発行の「折状教典」には、「日蓮大聖人の仏法の実践は、王仏冥合の達成である」と書かれている。そして「王仏冥合」については、こう書かれている。

「正しい仏法によって、人間革命された政治家が、仏法の哲理を根本精神として、大慈悲を政治の上に反映させ具体化する時、はじめて理想的な政治が行われ、王仏冥合ととなるのである」

 王仏冥合の達成のために、池田大作は昭和39年に公明党を創った。そして結党宣言で、「公明党は王仏冥合・仏法民主主義を基本理念として、日本の政界を根本的に浄化し、大衆福祉の実現をはかるものである」と謳った。

 池田大作の宿願は、「日蓮正宗、創価学会を国教化すること」である。ローマ帝国がキリスト教を国教化したように、日本は日蓮正宗を国教化し、やがては世界の国々が日蓮正宗を国教として受け入れるなら、そのときこそ世界に究極の平和が訪れるに違いないと考える。

 これはなかなか気宇壮大で、魅力的な思想であり、実践であるが、その前途は険しいといわねばなるまい。国家予算で「本門の戒壇」を建立し、「日蓮正宗の国教化」を実現するには、国会で多数派とならなければならない。しかし、全国の学会票は約600万である。これを全国300の小選挙区で割れば、各選挙区に平均2万である。これだけの票で勝てるわけがない。

 600万票の学会票をもっと有効に使えないか。そこで考えられたのは、「公明党」を解体し、もっと大きな「国民政党」を創設し、そのなかに創価学会の影響を浸透させる作戦だった。池田大作のもとで、この公明党の国民党化戦略を強力に推し進めたのが市川雄一だった。

 彼は小沢一郎と「一・一コンビ」を組んで、「新進党」を立ち上げた。「新進党」が小沢の「守旧派攻撃」によって躍進し、細川の「日本新党」をとりこんで自民党から政権を争奪する勢いに乗って、市川は公明党の議員を次々と新進党の議員に衣替えさせた。

 公明党に所属していた議員が新進党を名乗ることは、大きなメリットがあった。「新進党」という看板を立てることで、創価学会に対する世間の反発を避け、保守層や労働者層にまでその支持の裾野を広げることができる。これに学会の基礎票が加われば、当選者の数を飛躍的に伸ばすことが予想された。当時衆議院事務局の委員部副部長だった平野貞夫と、元学会員・岡本の証言を、魚住昭さんの「野中広務、差別と権力」から孫引きしよう。

「そもそも新進党をなぜつくったかというと、これに公明党が協力したのは池田名誉会長の意思なんです。人を出してカネを使って政党を作って、これだけ悪く言われるのは合わないと。政治が信教の自由というのを理解したから、もう公明党は要らない。創価大を出た者が自民党からも新進党からも国会議員になる。それでいいんだという彼の判断があったんです。政党を持っていることが面倒くさいという部分もあったのでしょう」

「公明党時代は池田先生なんかしょっちゅう『わしは公明党があるから攻撃の標的にされる。宗教団体のままだったら立正佼成会のようにちやほやされるのに』とぼやいていましたからね。そういう意味でもブランドは新進党、エネルギーは創価学会というのは都合がよかった。それで公明に残っている参議院議員11人も新進党に全面合流させる話が進んだんです」

 橋本政権がスタートして9ヶ月後の1996年(平成8年)10月に、小選挙区比例代表並立制で最初の総選挙が行われた。自民党は28議席増の239議席を獲得した。この選挙で野中広務は京都四区で、新進党と共産党の候補を破り、6回目の当選をはたした。意外なことに、このとき学会は上からの指示で、新進党の候補ではなく、野中を支援した。野中を敵にまわしたくなかったのだろう。

 創価学会のこうした消極姿勢もあって、新進党は4議席を減らして、156議席に後退した。旧公明党議員の議席も、52人から39人に減った。こうしたなかで、旧公明党議員の新進党離れが進んでいった。

 それでも4月後の1997年(平成9年)2月の党大会で、7月の都議会選挙後、11人全員を新進党に合流させる方針が決まった。そしてこの方針にしたがって、8月にはまず3人の参議院議員が新進党に移っている。ところが4ケ月後、合流話はご破算になり、新進党が分裂した。

 その背景には公明党と野中広務の急速な接近があった。野中は旧公明党の議員達と頻繁に会い、「中選挙区にもどして当選しやすいようにするから、公明党を復活させないか」と甘い蜜言をささやく一方で、「公明党が消滅したら、池田大作先生の身辺が危うくなるかもしれない」という、議員たちにはもっとも恐ろしい指摘をしたらしい。

 学会の本部がある信濃町はとても静かである。その理由は「静穏保持法」という法律があるためだ。1988年に成立したこの法律で、国会周辺と外国公館、それに政党事務所周辺での拡声器使用が規制されている。

 もし、公明党の議員が全員新進党に合流したら、信濃町から「公明党」の事務所が消える。そうするとこの法律が適用されなくなり、おそらく右翼の宣伝カーが押し寄せるだろう。信濃町にある池田大作の住宅の周辺はとくにねらい打ちされないとも限らない。

 自民党がこの法案を通したのは、「消費税法案」を通すため、これに反対していた公明党を懐柔するためだった。公明党はその直後の選挙でこれを批判された。公明党がこれだけの犠牲を払ってまで成立させた法案が、役に立たなくなるというのだ。右翼が以前のように押し寄せてきても打つ手がなくなる。池田大作を守ることがむつかしくなる。

 野中はこれを京都市内の料亭で学会副会長の西口に告げたらしい。西口はこの情報に驚いて、合流にストップをかけた。小沢にも妙案はなく、「衆議院だけを新進党に残して、参院は公明党を復活させてはどうか」と提案したらしい。しかし、これでは公明党にメリットはない。これがひきがねになって、公明党は新進党との合流をあきらめた。

 その年の12月27日、小沢は新進党の解党を宣言した。解党宣言を境に、旧公明党のグループだけではなく、鹿野道彦のグループや旧民社党のグループも次々と離脱した。結党時に衆参両院で215議席を擁していた新進党は6つのグループに分裂し、小沢が新しく立ち上げた自由党には54人の議員しか残らなかった。こうして小沢は政界での発言力を一気に失った。

 しかし、小沢と市川が手を組んで実現した「小選挙区制」は、創価学会にとっておもわぬ遺産となった。自民党と民主党が拮抗する小選挙区で、創価学会が握る2万票は決定的な重みを持つことになる。学会票が来るか来ないかで、差し引き4万票の得失になる。つまり、日本のほとんどの選挙区では学会を敵に回しては選挙に勝てない。こうして与野党の議員は学会票欲しさに学会にすり寄っていく。

 元学会員の証言によると、学会には国会議員のブラックリストがあるという。議員達の発言は常にチェックされ、「反学会」の発言をした議員は「適性」というレッテルが張られる。そうすると、その議員は選挙で勝てない。こうして前回の総選挙では、島村宜伸、小杉隆、深谷隆司などの自民党議員が落選した。落とされた議員は二度と学会を批判しなくなる。こうして学会批判が政界のタブーとなっていく。 


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8.「悪魔」にひれ伏した野中
 57歳の野中が京都の選挙区から代議士に立候補したとき、すでに田中派の若きプリンスであった小沢一朗は自民党の総務会長だった。そして野中の選挙を応援する実行部隊の中心だった。こうした経緯があるので、小沢にとって野中ははるか格下の新参の田舎議員にすぎない。

 しかし、みるみる永田町で頭角をあらわしてきた野中の実力にはあなどれないものがあった。「これからの小沢さんを支えるのは野中さんですね」と言われたとき、小沢は「なんで野中なんか!」と不愉快な顔をしたという。野中は著書「私は闘う」の中で、小沢についてこう書いている。魚住昭さんの「野中広務」から孫引きしよう。

<ちょっとしたことで小沢さんに注意したことが、お気に召さなかったようで随分前から『音信不通』状態になっていたが、年も私の方がはるかに上で『目くじら立ててもしゃあない』と思っていた>

 自民党の幹事長として京都にやってきた小沢が、連絡先も告げずに雲隠れして、夜の先斗町で遊んでいたことがあった。野中はそれを注意したらしい。小沢は「余計なお節介だ」といわぬばかりにプイと横を向き、それから口をきかなくなったという。

 年は上でも、国会議員のキャリアははるかに小沢が上である。保護者面をして私生活にまで介入してくる野中が、年次意識の強いエリート二世議員の小沢にはたまらなく不愉快だったのだろう。

 さらに、同じ田中派にいながら、小沢と野中は政治手法も違っていた。小沢は小選挙区制のもとでの二大政党制の実現を自分の政治目標にかかげていた。そうすれば与野党のなれあいや、党内の派閥政治はなくなり、政策を中心とした本来の政治が実現する。これで日本は劇的に変わると考えた。

 しかし、地盤や看板の上にあぐらをかいている日本の政治家の多くは、こうした改革を望んでいない。与野党とも中選挙区のまま、自らの既得権益を守ることに汲々としている。小沢から見れば野中もまたこうしたどうしょうもない旧い体質の「守旧派」の一味でしかない。

 一方、野中にすれば、小沢のいうような白黒をはっきりさせ、正邪を厳しく問う西洋型の政治は日本の風土にあわないのではないかという思いがある。他者を切り捨て、対立をあおりたてるような政治ではなく、国民の宥和をはかるような政治が望ましい。中選挙区であれば、さまざまな階層の立場を異にする多様な声が圧殺されることなく国会に反映される。

 政治をさまざまな利害の調整の場だと考える野中と、自らの政治理念を実現させる場だと考える二人は水と油ほど違っている。ちなみに「構造改革」を主導する小泉首相もまた、小沢タイプの理念型の政治家だといえよう。小沢が「守旧派」と呼んだものを、小泉首相は「抵抗勢力」と言い換えているだけである。

 小沢は緊張と決断力のある政治を目差した。何事も明確にすることが好きなのである。そして原理や原則を重視する。これもたしかに大切なことだが、野中からみれば人生を知らないひよっこの二世議員であり、青臭くてつきあいきれないということになる。実際、小沢はせっかく手中にした権力を、わずか2年で手放さなければならなかった。

 小沢の政治理念に共鳴した多くの同志が、彼から次々と離れた。そして、小沢が失墜すると、自民党や社会党の「守旧派」が息を吹き返した。その立て役者が野中だった。しかし、社会党と組んで政権を奪い返した自民党も盤石ではなかった。

 1996年(平成8年)10月の小選挙区比例代表並立制で行われた総選挙で自民党は28議席増の239議席を獲得したが、過半数に届かなかった。しかも連立相手の社会党は議席を半減させた。

 そして98年7月の参議委員選挙で、自民党は惨敗した。改選前の61議席から45議席まで後退した。これで橋本は政権を投げだし小渕が後をひきついだ。野中は官房長官として、これを支えることになったが、前途多難なことはいうまでもない。野中は公明党との連立をはかる。しかし、まだまだ公明党も連立までは踏み切れない。

 そこで野中が考えたのが、小沢の「自由党」との連立だった。野中は官房長官に就任した記者会見で、「法案を通すためなら小沢さんにひれ伏してでも、国会審議にご協力いただきたいと頼むことが、内閣の要にあるものの責任だと思っている」と発言し、周囲を驚かせた。

 野中は小沢を「危険な独裁者」とも「悪魔」とも呼んでいた。「彼と手を結ぶくらいなら政治家を辞める」とまで言い切っていた。その野中が、「悪魔」と手を握り、その前にひれふすというのだから尋常なことではない。

 小沢は機嫌よく野中と会って握手し、これまでの経緯をわびた野中に、「そんなことはいいよ。それより国家が大事だ」と答えたという。こうして翌99年1月に自自連立政権が成立した。1月末からはじまった通常国会では、「ガイドライン関連三法案」をはじめとする政府提出の重要法案が、自自公三党の圧倒的多数で次々と成立した。
 

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9.国家・国旗を法制化した男
 1999年(平成11年)2月28日、広島県立世羅高校の校長・石川敏浩が首を吊って死んだ。自宅には石川校長の、「何が正しいのかわからない」という走り書きの遺書が残されていた。

 石川校長が自殺したのは、卒業式の前日だった。卒業式で「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱を求める文部省・県教育委員会と、これに反対する教職員組合や部落同盟との板挟みになって苦しんだあげくの自殺だったとみられた。

 しかし、校長はもとより、日の丸を掲載する気はなかったという。これをキャッチした県教委は、自殺当日の朝、指導主事を校長の自宅に派遣した。校長が納得しないので、次長を派遣することになって、主事がその出迎えに出たすきに、校長は家を抜け出して自殺したらしい。

 当時の新聞にはこうしたことは報じられなかった。校長の日記が公表されたが、「今日、学校へ教育次長がきた。苦しかった」といった県教委に対する不満を述べた部分だけは発表されなかった。そのため世論は県教委よりも、教職員組合や部落解放同盟の方に厳しかった。

 3日前の予算委委員会で、小渕首相は「日の丸、君が代は国旗、国歌であることの認識は確立している。現時点では、政府としては法制化は考えていない」と答弁していた。事件後、小渕は答弁を撤回し、法制化を言明した。

 小渕に答弁を撤回させ、法制化を強行したのは官房長官の野中広務だったという。野中は「老兵は死なず」にこう書いている。魚住昭さんの「野中広務」から孫引きしよう。

<このへんで、意見の対立はあるが、『日の丸』を国旗、『君が代』を国歌として正式に国として認めていいのではないかと私は考えた。そして不毛な政治抗争でこれ以上の犠牲者を出すことはやめようじゃないか、と考えた>

 校長が自殺したのは、県教委が校長の判断を尊重せず、むり強いをしたからである。これを批判しないで、法制化のほうにもっていくのは、論理のすりかえだろう。校長を自殺させないために政治家がすべきことは別にあったはずだ。

 野中広務は反戦・平和を口し、弱者や差別される者に対する同情を寄せてきた。ところが、ハト派とみられていた野中が、タカ派の小沢と協力して、ガイドライン関連3法案、盗聴法、住民基本台帳法案など、いわゆる有事にそなえて国家主権を強化する法案を次々と成立させた。このことについて、野中は後にこんな弁解をしている。

「僕が力を入れてやったのは、国旗・国歌法と男女共同参画社会基本法なんだ。この二つで頭が一杯だった。ガイドラインと住基ネットはもっと慎重にすべきだったと思っている。こちらが余裕がないときに、役所のペースで『ハイ、ハイ』とやられてしまった。それと、ガイドラインなどはあれですよ。小沢一朗と連立を組んでいたから、小沢の要求を呑んだ、という面が大きい。自自連立でしたからね」

 知日派のコロンビア大学教授、ジェラルド・L・カーチスはニューヨークでの講演で、「ここ十年の日本政治を分析すると、自自公連立が近代化の分かれ目で、それ以来、日本の政治は後退してしまった。あれほど残念なことはない」と述べている。

 自自連立を作ったのは野中である。たしかに、寝業師の野中と、立ち技の小沢が組むと大仕事ができる。しかしその仕事の手法や内容が問題だ。これで日本の政治はますます保守化した。そして、その先に、保守本流を自任する森派の躍進がある。将来、私たちは「国家主義」という「悪魔」にひれ伏すことにならなければよいのだが。


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10.政界引退
 野中広務は総裁選で小渕をふたたび総裁・首相にしたあと、2000年4月2日、小沢一朗の自由党との連立を解消した。しかし、この直後、小渕が脳梗塞で倒れた。

 野中は幹事長の森、政調会長の亀井、参議院会長の村上らと赤坂プリンスホテルで会合し、後継首相に森をすえることにした。そして森の後継として、自らが幹事長になった。しかし森内閣は女性スキャンダルや森自身の失言もあいついで、国民からあいそをつかされた。

 支持率が20パーセントを割り込んだ森内閣に、すかさず、民主党などの野党は「内閣不信任案」を出してきた。これに次期首相と目されていた加藤が同調する姿勢を見せたので、大騒ぎになった。いわゆる「加藤の乱」である。野中はこれを力で制圧したが、これでまた自民党・森政権に向ける国民の目は冷ややかになった。

 2001年1月にはKSD事件が表面化した。外務省の機密費流用があきらかになり、森の失言が続く中で、自民党や公明党内部から、森退陣をもとめる声が吹きだしてきた。総裁選が前倒しで実施されることになり、後継首相に野中を押す声がいちはやく公明党や保守党から上がった。

 党幹事長で、最大派閥の橋本派を握る野中が総裁選に出れば勝利が見込まれた。ところが、野中は「資質のない人間が首相の座についたら日本の不幸だ」とこれを固持した。代わりに派閥会長の橋本龍太郎を担ぎ出した。

 その背景には、被差別部落出身という野中の出自がからんでいた。元経企画庁長官で総裁戦に出馬した麻生太郎は河野グループの会合で、「あんな部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」と言ったという。そうした声は野中にも届いていた。

 2001年4月19日から21日にかけて地方の予備選が行われた。そこでまさかの逆転劇がおこった。地方票がなだれをうって小泉純一郎に流れたのだ。橋本は国会議員の本選挙を待たずに敗北宣言を出した。こうして小泉政権が誕生し、1972年(昭和47年)から続いた田中・竹下派主導の政治に終止符がうたれた。

 2003年9月の総裁選で野中は小泉打倒に執念を見せたが、派閥の有力者である青木幹雄や村岡兼三が離反して、これも不発におわった。総裁選の11日前に野中は政界からの引退を表明した。野中は日本外国特派員協会で次のように語り、会場を後にしたという。

「もう今の流れは止めようがありません。政治家としての退路を断つことで、せめて現在の政治の状況に警告を発するのが私に残された道だと思います。私はもう生々しく生き残ろうとは思いません。静かに消え去って行こうと思っております」

 振り返ってみると、野中の政治家としての原点は京都府にあった。彼は町議から町長、府議員、副知事と、その経歴の大半を地方政治家として歩んでいた。そして、1978年(昭和53年)3月、蜷川知事引退を前にして開かれた京都府議会で、自民党を代表してこんな送別の辞を送っている。

「この議場で時には、今から思うと、横綱に子どもが飛びかかるような光景のようにうつりますけれども、自分では毒舌のように食いかかったことが非常に懐かしい。あるいは時には議場が蜷川教授の教室ではないかと錯覚に陥るような知事の答弁に聞き惚れたこともございます。私は立場を異にはいたしましたけれども、偉大なる政治家の足跡を思い、振り返り、深い敬意を表するものであります」

 最後に登壇した蜷川は目を潤ませながら、「野中議員が申されたように、過去を振り替えってみると、すべて美しく、幸せに思うような感慨が胸にこみ上げてまいりました」と語り、野中に深々と頭を下げて本会議場を去ったという。

 野中という政治家をどう評価したらよいのだろう。57歳で国会議員になり、被差別部落民の出身でありながら、その弱点を武器にして、剛腕で人に恐れられ、権力の階段を上り詰めた男。しかし、彼は「影の総理」とよばれながら、総理大臣の地位を手にすることはできなかった。

 魚住昭さんは「野中広務、差別と権力」のなかで、野中は「『潮目を見る』政治家であって、潮目をつくり出す政治家ではない。利害や思想の異なる集団同士の調停では突出した能力を発揮するが、かっての田中角栄のように大きなスケールで国家の将来を創出する力はない」と述べている。

 野中は政策を実現する能力は高かったが、政策を作る能力はそれほどではなかった。政策よりも政略に秀でた人だったといえよう。その意味で彼は、田中角栄の「負の遺産」の相続者であった。

 彼が日本の政治をよくしたとは思えない。それでも私は敗北者として去っていく彼に、一抹の同情を覚える。「ごくろうさん」と声をかけたい気がする。それは彼が親の七光りを受けた世襲議員ではなく、私たちと同じ「民草」であり、「民草」のかなしみや苦しみを体と心で知っていた政治家だったからだろう。


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11.「加藤の乱」と小泉政権
 野中広務はどこでまちがったのか。私はやはり、「自自公連立」ではないかと思う。とくに仇敵であった小沢一朗と妥協したことが大きな間違いだった。ここから、日本の政治は後ろ向きに進み始め、彼自身の転落が始まった。

 野中が小沢と手を組むことに反対したのは、加藤紘一だった。加藤は橋本政権を幹事長として支えるなかで、野中と密接な関係を築いていた。自民党の中でも穏健派として考え方や感性の近い加藤を、野中は「魂の触れ合う仲」といい、加藤も野中を評価していた。

 加藤が次期総理候補の最右翼と言われたのも、野中の信頼と後ろ盾があったからだ。また、宏池会という有力な派閥の会長であり、党幹事長である加藤との盟友関係は野中自身の権力の源泉でもあった。この二人が組めば、おそらくハト派路線のかなり強力な政権ができたはずである。ところがそうはならなかった。その理由は自自連立である。

 1998年の10月、帝国ホテルの一室で、野中が加藤に「自由党と連立したい」と切り出したとき、加藤は、「それはダメだよ。なぜなら衆院は過半数をこえているし、過半数に足りない参院の運営も、汗を流して政策ごとに野党と協議をしっかりやれば乗り切れるはずだ」と答えている。

 このあたりから、しっくりしていた二人の関係がずれていく。1999年の総裁選で、あえて総裁選に立候補し、野中が立てた小渕に破れている。2000年4月にその小渕が倒れ、森政権ができたが、それでも森の後は加藤総理、野中幹事長というのが、既定路線だった。

 ところが、加藤はその頃、朝日新聞とのインタビューに、「野中さんと私は感性が違う。十三歳上の人にそれを求めるのは無理だ。僕にとっての田中さんは山崎拓です」とはっきり答えている。これは野中への決別宣言だった。

 加藤は森政権とおなじように、自分の政権が談合で作られることに反発したのだった。そして、ついに11月9日、「このまま森政権を続けるのがいいのかどうか。不信任案が提出されたら欠席することも考えています」という爆弾発言が飛び出す。「加藤の乱」の始まりだった。

 このとき世論は加藤を「改革派」の旗手として圧倒的に支持したが、これを野中が全力で潰した。その有様を、当時渦中にいた渡辺喜美衆議院議員は「加藤の乱の顛末」にこう書いている。

<松浪議員の水かけ事件で議事が中断したお粗末極まりない11月21日未明の本会議で、森内閣に対する不信任案が否決された。本会議開会直前に加藤・山崎派が欠席を決めたあげくの結末だった。森政権護持に走る江藤・亀井派を離脱し、不信任案に賛成票を投じようと決めていた私にとっては梯子をはずされた思いだった。

 森擁護派の加藤派・山崎派や無派閥・無所属組への執拗な働きかけは想像を越えていた。ある者には金やポストによる利益供与の甘いささやき、他の者には党除名や対抗馬擁立などの恫喝が行われた。なんとも後味の悪い結果であった>

 加藤の乱で、森派の事務局長として森政権を守り通したのが、かってのYKKの一人だった小泉純一郎だった。「加藤の乱」で加藤は失脚したが、同様に野中も傷ついた。漁夫の利を得たのが小泉だったと言えるだろう。小泉政権は「加藤の乱」の遺産の上に成り立っているからだ。

 小泉首相は先日行われた人事で、意外な人を自民党の幹事長に抜擢した。山崎派の武部勤(たけべつとむ)である。彼は「加藤の乱」では、野党の内閣不信任案に賛成するため、山崎氏が加藤紘一元幹事長とともに本会議場に向かおうとした際、「加藤さん、あんた一人で行け。うちの大将は行かさない」と言い放った男だ。彼は小泉政権への流れを作った功労者の一人である。

 武部は2001年4月の小泉内閣発足時に農相に就任し、BSE(牛海綿状脳症)問題では、「感染源の解明はそんなに大きな問題なのか」などと問題発言し、その行政手腕が疑われ、与野党から辞任を求められたが、小泉首相はこれに応じなかった。そして、今回は幹事長への大抜擢である。これも「加藤の乱」の武勲のたまものだろう。

「加藤の乱」がなくても、野中と決別した加藤に首相の目があったかどうかわからない。しかし、彼を「乱」にまで追いつめたのは野中を司令官とする森・橋本陣営のしめつけがあったからだろう。私は野中幹事長のもとで加藤政権ができていたら、今の日本はもう少し希望の持てたものになっていたのではないかと思っているが、どうだろうか。


 (参考文献) 「野中広務、差別と権力」 魚住昭