政治不在は日本の「強み」の表れかも知れない


山崎元のマルチスコープ

(DIAMOND online 2010年12月22日) http://p.tl/Glho

■三方、何れもダメ

 政治の世界が情けない状況になってきた。より正確にいうと、元々情けない状況だったのだろうが、それを覆い隠すことができなくなってきた。

 菅直人首相は、小沢元幹事長と会って同氏に政治倫理審査会への出席を要請した。ここのところ、「決断する首相」を演じようとしているかに見える。しかし、一連の小沢氏を巡る民主党執行部の動きは、有効には見えない。

 小沢氏は、政治倫理審査会への出席を拒否する態度を明確にしていて、同会への出席は任意なのだから、政治倫理審査会への出席を争点にしても状況は打開されない。執行部側は、小沢氏の民主党除名にまでことを運んで、内閣支持率の浮揚をはかるつもりかも知れないが、「小沢いじめ」の効果もそろそろ賞味期限切れではないか。

 民主党が一から作ることができたはずの予算を財務省に丸投げし、尖閣沖問題での不手際の総括をせず、小沢氏叩きで人気を得ようとする民主党政権の目先の駆け引きに気づいて、国民は既にうんざりしている。

 また、小沢氏も現代の政治家として非力だ。政倫審への出席を、「裁判で説明するから」、「それで選挙が勝てるわけではない」といった不可解な理由で拒否しているが、政治家なのだから、政倫審なり、記者会見なりの場で、国民にいくらでも説明すればいい。やましいところがないなら、証人喚問でも何でも受けて、さっさと決着をつけてしまえばいい。

 あるいは、小沢氏が自ら離党してしまえば、菅政権は唯一の攻め手を失う。同じく起訴された、元秘書の石川議員を離党させたのだから、親分である小沢氏が自ら離党することは筋が通っている。

 小沢氏が刑事被告人として、不利益になることはやりたくない、という事情は分かる。一個人に対しては、同情もしよう。しかし、状況は政治的な闘争なのだから、政治家本人が弁論から逃げ回っている時点で負けだ。子分を使った駆け引きだけができても、本人が支持されない以上天下は取れない。政治家として、本当に「一兵卒」レベルでしかない。

 菅政権が支持を失ったきっかけとしては、仙谷官房長官が中国当局者との裏交渉でビデオ非公開などの不当な条件を呑んだと報じられた、尖閣沖問題での不手際が決定的だった。

自民党は、どうしてこの問題をもっと攻めなかったのか。事は外交の重大事であり、責任者は、菅首相、前原外相だ。仙谷官房長官と馬淵国交相だけの問責にとどめた自民党執行部の戦略は全く中途半端でやる気が感じられなかった。野党として追い込める政権を十分追い込まなかったのは、不人気な現政権を生かしておく方が来年の地方選挙に好都合だからだろうか。あるいは、菅氏側との「大連立」の可能性を残したいのだろうか。

 民主党の現執行部側も、小沢氏側も、自民党も、政治的主導権(「権力」と呼べるほど立派なものではない)を巡る戦いをしているつもりなのだろうが、その中で政策を巡る主張と対立が殆ど聞こえて来ない。つまり、政策に影響する政治の争いは実質的に存在せず、一種の人事抗争を繰り広げているだけだ。


■日本の逆説的な強み

 政治は、有効に機能していない。

 現在だけでなく、前を振り返るとしても、安倍、福田、麻生、鳩山と短命の政権が続いたことは、やはり異常だった。そして、今や、菅内閣もいつ退陣してもおかしくないくらい支持率が下がっている。加えて、不景気であり、雇用情勢もあまり改善していない。

 通常なら、社会が不安定になり、治安が悪くなるなどの悪影響が出てもおかしくないが、不思議なくらい世間は安定している。政府に文句を言う国民は多いとしても、体制を変えようとする社会運動は見られないし、諸外国であるような大規模なデモ行進や集会などはない。

 政治のリーダーシップが全くなくても、国民が体制の現状維持を強く望んでいて、社会が安定していることは、日本の特異な強みであるのではないか。社会に強烈な現状維持志向と安定性があることが、実質的な政治不在を可能にしているとも言える。

 この強みの意味は、特に経済の上では大きい。たとえば、ギリシャ・ショックでユーロが売られたときに、米ドルよりも買われた通貨が日本円であったという事実は、日本の社会体制的な安定性が評価されたと考えるのが妥当だろう。経済のパフォーマンスが良かったわけでも、政策に期待が持たれていたわけでもないが、日本政府の債務(円の価値の裏付けは日本政府の債務だ)は世界から相対的に信頼された。その背景には、日本社会の安定性があった。


■船長なき船の自動航海法

 それでは、日本は、誰が動かしているのだろうか。

 筆者が知らないだけかも知れないが、特定の人や組織が、圧倒的な権限をもって日本の社会を動かしているわけではなさそうだ。実質的には、官僚機構全体による集団指導体制だと言っていいのではないかと思うが、その中で特定の誰か、ないしは何らかのポストがリーダーシップを持っているようには見えない。

 大きな役割を果たしているのは、今回の予算の議論でもよく分かるが、既存の行動(支出)は継続できるが、新しい行動(支出あるいは減税)には恒久的な「財源」が必要だという高いハードルが課せられるような、行政における「現状維持優先の原則」なのだろう。付け加えると、誰も突出してはいけないという「リーダーシップ消去の原則」も強力に働いている。

 こうした原則の下で、省庁、局などを単位とした集団同士が関連する業界や政治家などの利益を巻き込みながら、牽制し合い調整を行って少しずつ動いている、というのが、日本運営ルールのようだ。

 誰も突出できないし、急激な変化を起こすことはできず、時に変化へのあこがれはあっても、現実問題としては、変化を好まない集団が変化を押さえつけて、国民全体も変化への不安からこれに同意するという構造だ。

 集団的にすくみ合うようにして、安定への求心力が働く社会は、すっきりしないが、意外に強い社会であるのかも知れない。

 政府も政策もあてにできない。しかし、この現実を認めて、その前提で、過ごすなら、個人にとっても、企業にとっても、案外居心地のいい環境だ。


■個人の戦略と社会の将来

 将来の人口減やこれを背景とした低成長が心配されているが、既に物質的には十分豊かであり、個々人としては、自分の生活レベルのベンチマーク選びさえ間違えなければ、将来の生活をそれほど不安視する必要はない、というのが現実だろうし、多くの国民がそう思うからこそ、この異様なまでに安定した社会が維持されているのだろう。

「老後の生活のためには1億円必要だ」などと言われたとしても、誰もがこれを用意できる訳ではない。しかし、これを用意できなくても、自分と似た経済力の集団と同様の生活をしていけば、そこには「それなり」の市場ができて、その市場に合ったモノやサービスが提供されるだろうから、そこそこに快適に生きていけるはずだ。老後の不安につけ込もうとする諸々の商売からの脅しに対して、大きく反応する必要はない。

 しかし、自分の生活レベルのベンチマークを定めて「分相応の生活」をすることは、個々人にとって適切な戦略だろうが、経済力のレベル差や生活の様式まで含めた「階級」を、割合短時間で(十年、二十年くらいの単位で)発生させるのではないだろうか。

 筆者は、仕事の都合などで、東京都内で頻繁に引っ越しをしてきたが、近年、ごく僅かの地域差であっても(たとえば同じ区内であっても)、住民の生活レベルやファッション、教育のレベル、関心を持つ対象などが、大きく変わることに驚いている。「階級」が発生する土壌のようなものは既にあちこちに感じられる。

 政権交代が行われても、政府の行動、ひいては社会が殆ど変わらないし、変えにくい構造にあることが分かった。政権が、民主党の現執行部の延長線上でも、小沢氏系の人々でも、自民党でも、大きな違いはないだろう。

 将来、日本社会の階級がもっと明確になったときに、真の意味での政治的対立が生まれて、大きく体制が変わるのかも知れない。

 日本に階級が生じるのを見ることがうれしいとは思えないし、それまでに、政治の無力ぶりを眺めることも楽しいとは思えない。多くの国民の政治への無関心には、そうなるべき理由がある。