元大鳴戸親方と橋本氏は同じ日に同じ病院で同じ原因不明の肺炎で亡くなった



元関脇・高鉄山のことだと思いますが、親方を辞め相撲界から離れた後、自身が関わった横綱・北の富士の八百長の暴露本を出版しようとした矢先、大鳴戸部屋の後援会会長(元力士)と共に同日、同病院、同病名、数分違いで亡くなりました。あまりにも不自然なことから怪死とか暗殺とか様々な噂が飛交いましたが、真相は今も謎のままです。
北の富士はピストルの蜜輸入とかで事件を起こしたこともあり、あちらの方々との噂が絶えない人だっただけに。
ちなみに、大鳴戸親方の弟子は朝青龍と係争中の板井さんです。


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1412927724

相撲の八百長疑惑を取材しているときに同じ病院で急死したジャーナリストが二人いるそうですが、それは誰ですか?
また、どこの病院ですか?

相撲の八百長を告発していた菅孝之進氏(元関脇高鉄山、前大鳴戸親方)と橋本成一郎氏が書籍の出版直前、同じ日(96年4月14日)に同病院で同じ病気により二人とも死亡してしまったという事件がありましたね。

ちなみに、元大鳴戸親方は午前4時45分。橋本氏は午後7時48分に死亡しています。

病院は愛知県豊明市の藤田衛生大病院です。
死因は重症肺炎及び心不全 とされています。

また、週刊ポスト誌上で大相撲の八百長、脱税疑惑などの暴露記事を連載中。
記事内で証言者として登場していたのが、橋本成一郎氏(北の富士の後援会副会長だった)

どう考えても・・・口封じですよね・・・。


http://unkar.org/r/news/1192782340

「元大鳴戸親方と橋本氏は同じ日に同じ病院で同じ原因不明の肺炎で亡くなった」
(略)
しかし、先述の週刊誌は、その後も八百長の追及を続け、今でも断続的に告発記事を書いている。
小学館発行の「週刊ポスト」である。相撲協会はこれらに告発記事について、始めは徹底して「無視」を決め込んだ。
「大相撲には八百長はあり得ない」。この一言ですべての問題を片付け、マスコミも「ポスト」などの一部週刊誌を除いて、
深くは追求しなかった。しかし、平成8年に、元大鳴戸親方が「ポスト」に告発記事を書いた頃から、事態は急変することになる。

元大鳴戸親方は先述の会見をした板井氏の師匠で、彼の現役時代の八百長とのかかわりを師匠の立場から告発するとともに、
板井氏が八百長の中心人物として目をつけられており、平成3年に彼が引退する際に、年寄株(親方になれる権利のこと)を
借りられたはずが当時の二子山理事長(元横綱初代若乃花)のツルの一声でムリヤリ廃業させられたことや、元親方が現役時代
(関脇高鉄山)に横綱北の富士(現NHK相撲解説者)の八百長工作に東奔西走したことや、自身が角界を去る際に年寄株の売却で
3億円もの大金を手に入れたにもかかわらず、領収書もなく、また税金も一切かからないというずさんな「脱税行為」など、大相撲の
「裏面」を次々と明らかにしていった。

元親方の「ポスト」での告発記事は14回にも及び、記事の内容は角界と暴力団との関係や、マリファナの問題などエスカレートする
ばかりであった。そして元親方は、告発連載の集大成ともいうべき暴露本の出版の準備を始め、また4月26日には元親方の告発を
裏付ける証言を続けてきた元力士で後援者の橋本成一郎氏とともに、日本外国特派員協会で会見する予定になっていた。

ところが、その会見が目前に迫った4月14日、元親方と橋本氏は、同じ日に、同じ病院で、同じ原因不明の肺炎でそろって死亡して
しまったのである。



八百長―相撲協会一刀両断
元大鳴戸親方 (著)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E9%95%B7
大相撲

主な疑惑
1980年-1997年、週刊ポストによる元力士の証言に基づく八百長報道
1980年、元十両四季の花範雄によって現役時代に金銭の絡む八百長の仲介者として働かされたことが暴露された。この証言に対して賛同するように、元前頭禊鳳英二、元十両八竜信定、元幕下谷ノ海太一が八百長を証言した。その後、元立行司木村庄之助 (26代)、元序二段大ノ花、元序二段戸山、元三段目富士昇(元大関北天佑の弟)が八百長を証言した。
1988年、元横綱双羽黒光司の元付け人上山進によって現役時代に金銭の絡む八百長の仲介者として働かされたことが暴露された。
1996年、元関脇高鐵山孝之進によって現役時代における金銭の絡む八百長が暴露された。
1996年、元小結板井圭介の元付け人(匿名)によって現役時代に金銭の絡む八百長の仲介者として働かされたことが暴露された。
1997年、当時の現役横綱曙太郎の元付け人高見旺によって現役時代に八百長の仲介者として働かされたことが暴露された。
1963年9月場所千秋楽:柏戸剛 - 大鵬幸喜
4場所連続休場中だった横綱・柏戸が勝って全勝優勝を決めたが、場所後石原慎太郎がスポーツ紙上の手記でこの一番を八百長として糾弾。日本相撲協会の告訴にまで発展したがのちに和解。
1972年3月場所12日目:前の山太郎 - 琴櫻傑將
同年1月場所を休場した大関・前の山は角番の3月場所も苦戦、11日目を終わって5勝6敗だった。大関同士の琴桜との対戦で前の山が勝ったが、監察委員会より無気力相撲ではないかとの注意を受け、前の山は翌日から休場、大関から陥落した。
1988年3月場所-11月場所:千代の富士貢の53連勝による八百長疑惑
このときの千代の富士に53連勝の際には、板井圭介と師匠である当時の大鳴戸親方が千代の富士が八百長無しに立ち会った相手は「大乃国康」・「花乃湖健」・「栃乃和歌清隆」・「安芸乃島勝巳」だけだと告白。
1995年11月場所千秋楽の八百長疑惑
11月場所は貴乃花と若乃花が他の力士に星2つの差をつけ千秋楽へ突入。優勝決定戦で若貴対決が観られるのではないかと思われた。[2][3]しかし本割で若乃花、貴乃花両者ともにが敗れたため史上初の兄弟力士での優勝決定戦になった。前場所まで4連覇中だった横綱・貴乃花が四つに組んだ後これといった攻めもなく下手ひねりに敗れる。八百長とはいわないまでも、やはり勝負に徹しきれない心理もあったのではないかという見方は当時から強かったため問題視されることは無かったが、貴乃花が引退後にこれをふりかえって「やりにくかった」と発言、八百長を認めたとの誤解を招いて問題化した。一部週刊誌によると、決定戦の前夜、二子山親方が宿舎の貴乃花親方の自室を訪ね、「光司(貴乃花)、明日は分かっているだろうな」と、暗に優勝を譲ることを求めたとされた。また本割で若乃花が敗れた為、貴乃花-武蔵丸戦を前に二子山親方が再度「分かっているだろうな」と念を入れ、兄弟対決をアシストさせたとも報じた。
2000年1月21日、日本外国特派員協会での講演:板井圭介
元小結・板井圭介が現役時代の八百長を認め、八百長にかかわった横綱・曙太郎以下20名の力士の実名を公表した。協会は板井に謝罪を求める書面を送付したが、最終的に「板井発言に信憑性はなく、八百長は存在しない。しかし板井氏を告訴もしない。」という形でこの問題を決着させた。
2004年1月場所12日目:増健亘志(現:柳川信行)- 濱錦竜郎(現:高濱竜郎)
日大の先輩・後輩同士の対決。濱錦は8勝3敗とすでに勝ち越し、増健は東十両9枚目で4勝7敗と勝てば十両残留が濃厚となるという状況であった。はたき込みで増健が勝ったが、翌日九重審判部長、伊勢ノ海監察委員長から「敢闘精神に欠ける相撲があった」として厳重注意をうけた。
2005年-2007年、朝青龍明徳の連続優勝に関して
2007年1月発売の『週刊現代』「横綱・朝青龍の八百長を告発する」という記事において、朝青龍が白星を80万円で買っていたのではないかという疑惑が浮上。15回の優勝のうち、実に11回分の優勝は朝青龍が金で買ったものだとした。この報道に対し朝青龍は疑惑を完全否定。日本相撲協会は、八百長にかかわったとされる力士全員に事情聴取をしたが、全員が否定した。2007年2月8日に相撲協会は、週刊現代発行元の講談社と記事のライターである武田頼政に対して民事訴訟を起こした。但し、旭天鵬勝の付き人旭天山武が東西の支度部屋を行き来し談笑するなど、周囲から公正性を疑われるような行為が協会にあったのもまた事実である。
同年5月に『週刊現代』は、2006年名古屋場所の千秋楽で、綱取りのかかった大関白鵬翔の師匠である宮城野が、朝青龍から300万円で星を買ったという旨の証拠音声を入手したと報道、同誌のウェブサイトでその音声の前半部を公開している。これに対し、宮城野は事実無根と否定した。日本相撲協会は、7月9日、『週刊現代』の発行元である講談社や武田らを刑事告訴したと発表[4]。
2009年5月場所千秋楽:千代大海龍二- 把瑠都凱斗
千代大海がカド番による勝ち越しがかかった一番。把瑠都が千代大海にぶつかった瞬間に勢あまって前へ突っ込んで行き土俵を割ったため、押し倒しで千代大海の勝ちとなったが、日本相撲協会監察委員会は精神力が欠けている無気力相撲だと指摘した。
2011年2月、大相撲野球賭博問題に関連して
2010年に発生したこの問題で、力士の携帯電話のメールを調べていた警視庁は、10数人の力士が八百長をうかがわすメールのやり取りをしていたことが発覚。警視庁が文部科学省に説明したところでは、取組の結果はメールのやり取り通りになったとされる。[5]2日に会見が開かれ、過去の疑惑を全面で否定する発言がなされた。


諸事情

現代で八百長といわれるのは個人による金銭授与の敗退行為のことだが、出来試合のようなものはなくはなかった。神事や占いとしての相撲では、「独り相撲」(力士は一人で土俵に立ち神と取り組む仕草をする。神の機嫌を取るため、わざと転がって負ける)や、凶作不漁の見込まれる土地の力士に勝ちを譲ることも普通におこなわれていた。江戸時代の木戸銭を取っての興行でも、力士の多くが大名のお抱えだったせいもあり、力士当人や主君の面子を傷つけないための星の譲り合いや、四つに組み合って動かず引き分けたり、物言いの末の預りの裁定なども多かった。
観客としては大名の意地の張り合いによる八百長相撲には腹に据えかねていたが、落語の「谷風の人情相撲」など、美談としての片八百長、いわゆる「人情相撲」には寛容だったようだ。
明治に入って近代スポーツの精神が輸入されて以降、見世物としての相撲からスポーツとしての相撲の特色が濃くなり、昭和の東西合併の時期に預りの廃止などがおこなわれた。だが、この時期にも出羽海部屋の派閥争いの関係で八百長のような話が出たりもした。玉錦はこういった依頼を断っていたのではないかといわれている。
なお、現在でいう意味での個人による八百長疑惑が取りざたされるようになったのは大鵬と柏戸の一戦の疑惑が取りざたされたころからである。
ほかに現在みられる状況としては、大関は優勝に関係がない場合勝ってもあまり意味がないことから、終盤観客視点からは星の譲り合いのようにみえることがあり、「大関互助会」と揶揄されたりもする。また、7勝7敗の力士の勝率も似たような結果になってしまっている。このため、統計的には八百長はあるとみなす日本国外の学者もいる[6]。
告発について
大相撲の八百長疑惑では、1980年から小学館の週刊誌『週刊ポスト』が元十両・四季の花範雄の八百長告発手記を初めて公開し、その後も元力士や元角界関係者による告発シリーズを約20年にわたり掲載した。なかでも1996年に部屋持ち親方としては初めて11代大鳴戸(元関脇・高鐵山孝之進)の菅孝之進と元大鳴戸部屋後援会副会長の橋本成一郎がおこなった14回にわたる告発手記は、八百長問題・年寄株問題・暴力団との関わり・角界の乱れた女性関係などを〈暴露〉し、大きなインパクトを与えた。
このときは協会が告訴する事態にまで発展した。それをまとめた11代大鳴戸親方の著作として『八百長―相撲協会一刀両断』(1996年、ラインブックス)が出版された。しかし、この著書の発売直前に、告発者の菅孝之進と橋本成一郎が「同日・同じ病院・同じ病気」で急死した。事件性も疑われたが、結局は病死ということで処理された。当時は週刊誌で騒がれ、今でも謎の残る「怪死」だと告発者を支持する側は主張している。
その4年後の2000年、11代大鳴戸親方の弟子だった元小結・板井圭介が外国人記者クラブで、大相撲の八百長問題を語った。それまでも『週刊ポスト』で元力士らの証言は繰り返されていたが、元三役力士からの証言はこの時が初でしかも記者会見で当時の現役力士の実名を挙げての暴露だったこともあり、角界だけではなく世間一般にも大きな衝撃を与えた。その後、板井は『中盆―私が見続けた国技・大相撲の“深奥”』(2000年、小学館)を出版した。ここでは中盆(板井の主張する角界隠語で、八百長を取り仕切る仲介・工作人の意)として君臨した板井の証言が著されている。菅孝之進の告発本との共通点も多くみられる。
この師弟の主張はおおむね次のようなものである。
大相撲の八百長は完全にシステム化されており、大きく分けて星の「買取」と「貸し借り」の2つにわけられる。買取は、おもに、つねに好成績を求められる横綱・大関などが地位を守るために使用する。貸し借りは三役以下の平幕力士同士が勝ち越すためや、十両に落ちないようにするための手段として使用する方法である。横綱・大関の買取は70万-100万円くらいが通常の相場であり、貸し借りは先に対戦相手に頼むほうが40万円を支払うということになっている。横綱大関同士などの優勝が懸かった一番や、大関、横綱昇進の懸かった取組みなどでは相場はもっと上がり、200万-300万にもなることもあるという。あと、部屋の親方が所属力士のために八百長工作に動く場合もある。八百長の代金の清算は場所後の巡業などで付け人が関取の意をうけておこなうのが通例。
力士はおおよそ、八百長力士(注射力士ともいう)と非八百長力士(ガチンコ力士ともいう)に判別される。大相撲の八百長は、実力に裏付けされていなければ、この八百長力士のグループには組み入れてもらえず、やはり真剣勝負(ガチンコ)で勝つ力がなければ地位は保つことはできないとされている。横綱・大関にしても、「この横綱・大関とガチンコで勝負しても勝てない。だったら星を売ってカネにしたほうがいい」と思わせる実力がなければ地位は保てないとされている。関脇までは、ガチンコ力士でも、やはり横綱・大関に上がると地位に見合った成績を上げなければいけないプレッシャーからか八百長に手を染めてしまう力士もいる。大相撲ではどんな強い力士でも取りこぼしというものが存在し、とくに負けることがニュースになってしまう横綱・大関はより確実に勝利を重ねるために八百長で白星を保障しておくという意味合いが強く、横綱・千代の富士などはその典型だったといわれている。そうすることによって強い横綱に取りこぼしがなくなりより一層確実に好成績をあげられるというわけである。平幕力士の場合は横綱・大関陣との対戦が多い、上位(三役~前頭5枚目)で星を売ったり、貸したりして番付が下がった翌場所に平幕下位(6枚目以下)で貸している星を返してもらい勝ち越して幕内力士としての地位を保つをいう手段が多くみられた。ただし、これもガチンコでしっかり何番か勝てる力がなければ勝ち越すことはできない。ガチンコで何番か勝つ実力がなければ、たとえ八百長をしていても勝ち越すことはできず地位を下げていくことになってしまう。
ただし、八百長が横行していた15年-20年前の千代の富士全盛時代に比べると、現在の角界における八百長は少なくなったといわれている。それには生涯ガチンコを貫いて22回の優勝を果たした横綱・貴乃花(現貴乃花親方)の影響が大きいといわれている。最近、兄弟の確執問題で話題になった平成7年九州場所千秋楽の優勝決定戦、若乃花-貴乃花戦が八百長だったのかという議論は八百長ではなく、貴乃花親方が「やりにくかった」と回顧しているように「無気力相撲」のたぐいにあたるだろう。あの一番においてはあまりにも貴乃花のほうに「やりにくさ」、「力が入っていない」というのがミエミエであり、八百長相撲の取組みというものは一般のファンなどの素人にはわかりにくいようにするために「熱戦」にみせかけるものであるために、ああいった一番は八百長とはいわないのである。無気力相撲と八百長相撲は意味合いがまったく異なり、ガチンコ力士であっても自らの調子が悪かったり、相手に対して手心があったり、さまざまな状況からやりにくさがあれば無気力相撲になることもありえる。八百長相撲というのは金銭のやり取りから予定調和された一番のことを意味する。こうした角界の八百長のシステム化は昭和30年代の初めからおこなわれはじめ、40年代に確立した。また、大乃国は師匠譲りのガチンコ力士との評判があり、国民が注目し大きな話題となっていた千代の富士の連勝を止めたことや、歴代横綱で唯一の負け越しをしたことなどがその評判に根拠をあたえている。
日本相撲協会は『週刊ポスト』が国民栄誉賞まで受賞している横綱・千代の富士らなどの実名をあげての告発が20年にわたったにもかかわらず、告訴は1度しかしておらず、それも元大鳴戸親方の手記の一部分を告訴するという特殊な方法でしか告訴していない(のちに不起訴)。また、板井の記者会見や手記に関してもなんら法的手段に訴えておらず、そこをとらえて〈角界に八百長が存在している〉ということは事実だと考える者もいる。
ただし、好角家のなかには、相撲は本来、五穀豊穣を願う儀式が起源になっており、歌舞伎や能楽と同じように伝統芸能でもあり、他のプロスポーツなどとは違ったものである故、八百長は角界の必要悪でもあるという意見もある。[


http://homepage1.nifty.com/kaminosumukuni/soumokuji/kuro2.htm
八百長騒ぎ

 今年(平成12年)の1月21日、大相撲初場所の最中に、
日本外国特派員協会において、元小結の板井圭介氏が、
大相撲での八百長についての告発の会見を開き、
大きな反響を呼んだ。
板井氏は現役横綱や大関など20名の力士の実名を挙げ、
これらの力士が八百長をしていることや、現役時代に自分が
いかにして八百長に深くかかわっていたかということなどを
明らかにした。

 大相撲のいわゆる「八百長疑惑」は、今に始まったことではない。
柏鵬時代の昭和38年には、柏戸と大鵬の両横綱の千秋楽での
全勝同士の対戦(柏戸の勝ち)に対し、作家の石原慎太郎氏
(現東京都知事)が「八百長相撲だ」と物言いをつけて一騒動が
あったり、昭和55年には、ある週刊誌に元十両の力士が
「大相撲には八百長が存在する」と告発したりなど、
八百長問題はその度毎に大きな問題となり、いつしか消えていった。
しかし、先述の週刊誌は、その後も八百長の追及を続け、
今でも断続的に告発記事を書いている。
小学館発行の「週刊ポスト」である。

 相撲協会はこれらに告発記事について、始めは徹底して
「無視」を決め込んだ。
「大相撲には八百長はあり得ない」。
この一言ですべての問題を片付け、マスコミも「ポスト」
などの一部週刊誌を除いて、深くは追求しなかった。
しかし、平成8年に、元大鳴戸親方が「ポスト」に
告発記事を書いた頃から、事態は急変することになる。

 元大鳴戸親方は先述の会見をした板井氏の師匠で、
彼の現役時代の八百長とのかかわりを師匠の立場から
告発するとともに、板井氏が八百長の中心人物として
目をつけられており、平成3年に彼が引退する際に、
年寄株(親方になれる権利のこと)を借りられたはずが
当時の二子山理事長(元横綱初代若乃花)のツルの一声で
ムリヤリ廃業させられたことや、元親方が現役時代(関脇高鉄山)
に横綱北の富士(現NHK相撲解説者)の八百長工作に
東奔西走したことや、自身が角界を去る際に年寄株の売却で
3億円もの大金を手に入れたにもかかわらず、領収書もなく、
また税金も一切かからないというずさんな「脱税行為」など、
大相撲の「裏面」を次々と明らかにしていった。  
元親方の「ポスト」での告発記事は14回にも及び、記事の
内容は角界と暴力団との関係や、マリファナの問題など
エスカレートするばかりであった。

そして元親方は、告発連載の集大成ともいうべき暴露本の
出版の準備を始め、また4月26日には元親方の告発を
裏付ける証言を続けてきた元力士で後援者の橋本成一郎氏
とともに、日本外国特派員協会で会見する予定になっていた。
ところが、その会見が目前に迫った4月14日、元親方と
橋本氏は、同じ日に、同じ病院で、同じ原因不明の肺炎で
そろって死亡してしまったのである。
あまりの偶然に、一時は他殺説も流れたほどであった
(この二人の怪死については、今年の「正論」9月号の
安部譲二氏の「日本怪死人列伝第2回」に興味深い記載がある)。
それから約1ヵ月後の5月22日、相撲協会はようやく
重い腰を上げ、「ポスト」の記事の一部に対して東京地検へ
名誉毀損で刑事告訴をしたのである。

結論から先に言えば、この告訴は2年後の平成10年3月
26日に不起訴処分になった。
告発者の二人が死亡している以上、真実の立証は事実上不可能
であり、名誉毀損の成立は見込めなかったからである。
そしてこの頃から大相撲の人気は低下していった。
不起訴処分後に行われた同年の夏場所は、出だしから入場券が
売れ残り、実に28年ぶりに「満員御礼」の垂れ幕が下がらない
寂しい初日になってしまった。

その後も地方場所ですら大阪の春場所を除いて満員にならない
など観客数の減少が顕著になり、また新弟子の入門者も減るなど、
今年に入って次々と新大関が誕生しているにもかかわらず、
角界は人気低迷から脱却できずにいる。
その一方で週刊誌の告発記事は盛んに続けられ、今年の
板井氏の「証言」により、これまで八百長の記事が少なかった
他の週刊誌までがこの問題を取り上げるようになった。
これらの騒ぎは協会にも飛び火し、東京の国技館や相撲部屋
近辺に右翼の街宣車が横行する始末であった。

業を煮やした協会は、今年の4月25日、時津風理事長
(元大関豊山)が国技館で記者会見し、
「大相撲には八百長はあり得ない」
というこれまでの見解を繰り返し、板井氏の発言を全面否定した。
しかし、これだけの大きな騒ぎを引き起こした張本人の
板井氏に対して、なぜか法的手段には訴えないという。
 無実であるなら、なぜ告訴をしないのであろうか。
この問題については、筆者自身の八百長に関する「見解」とともに、
次回に触れることにする。


1996年4月14日相撲の八百長を告発していた元大鳴戸親方とその後援会長の橋本成一郎氏が、八百長告発本の出版直前、同日、愛知県豊明市の藤田衛生大病院で重症肺炎及び心不全で、元大鳴戸は午前4時45分、橋本は午後7時48分に死亡している。相撲界は恐ろしいとインプットされた事件だった